1.4度目のアレッポ(このページ)
2.アレッポ近郊ツアー(1)
3.アレッポ近郊ツアー(2)
4.アレッポ近郊ツアー(3)
5.ビーハイブハウスの人々
6.アパメア、ミスヤフ城
7.クラック・デ・シュバリエ
8.4度目のパルミラ
9.パルミラからアンマンまで移動
10.ウンム・カイスでピクニック気分を味わう
11.そうだ、アルベロベッロ行こう
12.アッピア旧街道でサイクリング
旅行記のリニューアルにあたって この旅行記は、もともとは2009年3月に旅してからあまり時間がたたないうちにアップしたものだが、この時の主要な旅先であったシリアでは、2011年に勃発した内戦が長期間に及び、多くの人々がなくなり、大量の難民が生み出され、街や遺跡なども破壊されしまった。2010年12月から起こったチュニジアのいわゆる”ジャスミン革命”の影響で、その後、中東各地で”アラブの春”という民主化を求める動きが相次いで起こったが、シリアでも2011年から反政府運動が起き、それが内戦に発展してしまった。 2011年の初めだったと思うが、長年アサド政権による独裁が続いていたシリアでも同様の動きが起こりうるのではと考えられるなか(だったと思う)、テレビのニュース番組で、東京駐在のシリアの外交官(だったと思う)のインタビューが流された。その人物は「シリアではチュニジアのような状況にはならない」と自信たっぷりに答えていて、なるほど独裁体制が敷かれているシリアらしい情勢判断だなあと思ったことを覚えている。 しかし、その自信たっぷりの言葉とは裏腹に、シリアにおいても反政府デモが高揚し(アサド政権はシリアにおける少数派であるイスラム教シーア派で多数派であるスンニ派の人々による反政府運動が高揚)、政府が厳しい弾圧を行うなか、反政府勢力が近隣諸国からの支援を受け自由シリア軍を結成し軍事力による闘争を開始した。自由シリア軍は一枚岩ではなく、過激な勢力がヌスラ戦線を結成した。 当初、反政府勢力の勢いが強くアサド政権は劣勢を強いられたが、政権側はロシア、そして同じイスラム教シーア派のイランの支援を受け反撃。さらにイスラム教過激派のヒズボラも政権側にたって参戦し、内戦は深刻化していった。 さらに2012年になると、スンニ派の過激派組織イスラム国が勢力拡大のため内戦に介入し、シリア内戦は泥沼化した。 その後、イスラム国はアサド政権軍、反政府軍、そして両勢力を支援する諸外国を敵に回すことになり崩壊していく一方、アサド政権軍が優勢となり、2018年には政権の存続が確定的となった。 しかし、これによってシリアの情勢が完全に安定したわけではなく、反政府側が勢力を維持している地域も存続し、シリア全土の完全掌握をめざす政権側との戦闘が続いた。そして、例によって、アサド政権vs反政府勢力という単純な図式ではなく、それぞれを支援する外国勢力もからんだ複雑な状況が続き、2022年現在も内戦は収束していない(以上、ごくごく簡略に事実関係を拾い出してみたが、それだけでこの複雑さである。なお、事実の拾い出しが雑で誤りもあるかもしれないので、ご了承ください) さて、街、遺跡のみならず、その人々の良さもあって、かつては旅先としてとても魅力的だったシリアだが、内戦によって破壊され、情勢的にこの先再び行けるようになるかわからない国になってしまった。 2009年の旅は4回目の訪問で初めてデジカメを使った旅で、それまでの何倍もの写真を撮った(とは言ってもそんなに膨大な量ではないが)。今となっては貴重なものなったと思われる写真がたくさんあるのだけれど、当初、旅行記を作成した段階ではシリアがこんなことになるとは思っていなかったし、「また行くし」と思っていたので、撮った写真のほんの一部しかアップしていなかった。そこで、今回、なるべくたくさんの写真をアップしておこうと思い、この旅行記をリニューアルすることにした。 リニューアルにあたって、旅行記本文に若干の手を加えたり、写真のキャプションも書き加え、動画もアップするつもりである。(2022年11月13日) 4度目のアレッポ 恒例の春の旅である。行き先はシリア・ヨルダン・イタリアとなったが、実はすんなりとは決まらず、取り敢えず成田-ローマ往復の航空券だけをおさえておいた(実をいうと、リビアもしくはアルジェリアという選択肢もあった)。そんななか、本屋でたまたま『地球の歩き方』ヨルダン・シリア・レバノン編を開くと、以前のものより載っている観光地が随分と増えていた。特に目を奪われたのはシリアだった。『地球の歩き方』ヨルダン・シリア編が発行される前からシリア・ヨルダンへ行き始め(ガイドブックとはいいにくい『地球の歩き方』フロンティアというのはあったのだが)、すでに3度訪問しているシリア・ヨルダン・ファンの自分としては「これは行くしかないなあ」と思ったのである。 というわけで、ローマに1泊してからロイヤルヨルダン航空でアンマンへ飛び、同日乗り継ぎでアレッポへ入るという方法を選択した(ローマ1泊のため時間的ロスが大きかった)。 ロイヤル・ヨルダン航空のチケットは日本でも買えて、正規割引チケットを購入。料金はユーロ建てになっており、おりからのユーロ安のおかげで比較的安く入手できた。 アレッポ到着は夜の10時すぎ。勝手知ったる街ではあるが、夜遅くに到着して、それからホテルをさがすのは避けたいところ。そこで、日本を出る前にホームページで予約を受け付けているホテルを予約していった。が、これがまた一苦労だった。というのは、ホームページはあるが、予約用のページはなく、結局メールのやりとりをしなければならなかったのだ。おまけに、最初は予約を確定させるための送金を要求された。海外の銀行への送金料はとても高く、調べると何千円もするよう。そこで、送金は難しいというメールを送ると、さすがシリアというべきか何というべきか、その辺は非常に融通がきいて、送金は必要ないということになった。 クレジットカードの番号を伝えることにより、保証金代わりにするとか、ペイパルという送金システムを利用しての予約金の払い込みというシステムとか、そういった類のシステムがシリアで広く利用されるのは、もう少し先になってからであろうか? <1日目> 14時20分成田発のアリタリア・JAL共同運航便でローマへ向けて出発。 19時すぎローマ・フィウミチーノ空港到着。 19時36分発のレオナルド・エクスプレスでローマ・テルミニ駅へ向かう。 20時15分ころ、テルミニ駅到着。 フィウミチーノ空港到着からテルミニ駅到着まで、わずか1時間15分。予想外のスムーズさだった。 駅のセルフサービスのレストランで軽い夕食をとった後、20時50分ころ、予約しておいたホテルにチェックイン。 <2日目> 14時すぎ(20分くらい遅延)、ロイヤル・ヨルダン航空便でアンマンに向けて出発。 18時ころアンマン到着。 アレッポ行きの便は21時少し前に出発したのだったか?(メモには20時40分ころバスで飛行機まで移動したことは記されているが、出発時刻は書いていない)。 21時45分ころ、アレッポ空港に着陸。入国手続きなどは非常にスムーズで、両替を済ませて、税関(ノーチェック)を通ったのが22時10分ころ。到着ロビーに出ると、迎えの車の運転手がホテルの名前を記した紙を持って待っていた。空港が小さそうだから、タクシーの台数も少ないかもしれないと思い、また、空港・市内間の料金相場もわからないなか、運転手と料金交渉するのもいやだったので、ホテルに送迎をお願いしておいたのだ。 10時30分ころ、トーラス・ハウスチェックイン(ホテルがある路地には車は入ることができないので、路地の入口で車を降ろされ、そこからホテルまでドライバーに案内された)。 <3日目> 朝食後、9時すぎ街歩きに出た。 しかし、すぐには観光はせず、まずスプリング・フラワー・ホテルへ行った。有名な安宿らしいが、ここではアレッポ近郊のツアーを催行している。公共の交通機関で行けないこともないらしいが、限られた日程で効率的に回るにはこの手のツアーは助かる。参加者が何人かいると一人で車を雇うよりずっと安上がりだし。 アレッポ近郊をめぐる13半出発のツアーに申し込んだが、残念ながら参加者は一人。つまり、貸切り。ツアー代金は2000シリアン・ポンド(4000円弱)。車は貸切り、一応ガイド付きなので、日本の物価を考えると安いが、シリアの物価から考えると高い。
写真を撮る気満々でスークに入ったが、結局、あまり撮れず。敬虔なムスリムの多い国なので写真を嫌がられる可能性も強いし、特にレンズを向けた方向に女性がいるとき気を使った。撮る気はなくても、旦那が「俺の女房の写真を勝手に撮るな」と怒られそうで。何日も通い続けて、特定の店の人と親しくなって、そういった店中心に撮るような、そんなやり方が必要かもしれない。
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