<目次>
・再会(このページ)
・ルクソールへ
・アブシンベル神殿
・エジプト航空との闘い
・食中毒?
・日商岩井の社員になる
・ジェラシュ
・ペトラ
・アンマンからダマスカスへ
・パルミラ
・アレッポ
・トルコ再訪
・旅の終わりはパルテノン神殿
再会
1990年3月6日、僕はそのエジプトに向かうべく、アエロフロート機の中にいた。前夜のポール・マッカートニーのコンサートの余韻がまだ耳に残っていた。エレキギターの高音が東京ドームの天井にはね返って、耳にギンギン響いたのだが、この日のアエロフロート機のエンジン音は、それと同じだった。
機内では同じカイロ便へ乗り継ぐという東京の女子学生と知り合った。彼女は女性一人で深夜にカイロに着くと危険ということで、「とにかくカイロ行きの男性をみつけてボディーガードにしなさい」と友人に言われてきたとのことだった。一応僕というカイロ行きの男性を見つけたわけだが、僕は腕っぷしにはまったく自信がない。彼女は、極めて頼り無いボディーガードにあたってしまったと言わざるを得ないだろう。
映画はもちろんオーディオサービスもない機内で耐えること10時間、定刻通りモスクワのシェルメチボ空港に到着。乗り継ぎのため、いったん空港の出発ロビーに入る。
モスクワでは、まだボディーガードは必要がないだろうと思い、ロビー内では別行動をとっていた。しかし、彼女、さっそくアラブのおじさんに迫られていた(どうやらプロポーズされていたらしい)。イスラム圏では女性だけで、まして一人で旅をするなどということは考えられないということもあり、アラブ人男性はとにかく女性だけでいると珍しがって積極的に話しかける。それだけではない。同じイスラム教徒の女性に対してそういう行動をとることは戒律で戒められているのだが、異教徒ならば構わないという感覚があるらしく、中にはかなりしつこく言い寄ってくる輩もいるのだ。しかたない。ここでボディーガードが出て行かないわけにはいかない。彼女に近づいて適当に話し始めると、そのおじさんはあっさり引き下がった。連れの男性がいる場合は、しつこく食い下がることはないのだ。
一仕事を終え、椅子に座って時間をつぶしていると、一人の日本人男性から「もしかして中国に行ったことありませんか」と唐突な質問をされた。どうもどこかで見たことのあるような顔だが確信が持てない。
「えっ、もしかしてあの時の?」
1987年の春に中国の昆明・大理で一緒だったT君ではないか。
昆明・大理、きつい旅だった。昆明は雲南省の省都で、そこからバスで12時間くらい行ったところに大理という街がある(現在は所用時間は大幅に短くなったと思う)。山一つ越えるとミャンマーというような場所にある街である。
当時、旅行者の間で、昆明は脱出が難しい街として知られていた。つまり、ここから脱出したくても、飛行機・汽車などあらゆる切符が極端にとりにくい街だったのだ。しかし、多くの少数民族が生活するこの地は魅力的だった。そして、可能ならば、白族の街、大理で、週一回月曜日に開かれるバザールを見たかった(その後、この月曜バザールはどうなったことか。『地球の歩き方』には記述がないようである)。
僕は奇岩が林立することで有名な桂林観光を終えると、そこで知り合った京都の学生二人と昆明行きの列車に乗った。2泊3日の長い汽車旅、しかも、恐怖の無座である。現在はそういう状況は把握していないが、当時、中国では列車の座席数が、需要に対して圧倒的に少なく、指定席は売り出しと同時にあっという間に売り切れるのが普通だった。そして座席がないことを前提とする無座という乗車券(自由席ではない)が売られていた(現在、この無座がどうなっているのかは未確認です)。列車は、ほとんど例外なく、ものすごく混んでいおり、僕らが乗車した列車もすしずめ状態で、僕らは仕方なくデッキの床に腰を下ろした。この列車には、昆明をめざす日本人がほかにも何人かおり、その一人がT君だった。
昆明到着は日曜日の午前中。『地球の歩き方』の情報通りならば大理行きのバスは出たあとで、大理の月曜バザールは見られない。何がしかの移動手段があるかもしれないと思って昆明行きの汽車に乗ったのだが、風邪による発熱と車中2泊の疲労のため、大理行きはどうでもよくなり、休養、休養、と思っていた。しかし、ある日本人旅行者が夜行バスを見つけてしまった。こうなると行くしかない。疲労困憊した体に鞭打って、大理行きの夜行バスに乗り込んだ(正確には下関(シャークアン)行きで、僕らは「下関、下関」と呼んでいた)。T君も一緒だった。翌早朝、「しものせき」に到着。バスを乗り継ぎ大理に着いた我々は念願の白族のバザールに出かけた。近郷近在の人たちがすべて集まっているのではないかと思うくらい、それは賑やかなものだった。
大理は当時から欧米のバックパッカーが集まる場所として有名で、欧米風の料理を出す食堂もあった。その夜、僕らはそんな食堂でピザのようなものを食べ、中国旅行のきつさ、ひどさを語り合った。不思議と疲れは消えていた。そして、その後ホテルのそばの白族が経営する雑貨屋か何かで、その家族と一緒にT君の友人のカメラで記念撮影をした(その写真は送られてこなかった)。
短いながら濃密な旅の時間を共有したから、顔はともかくT君のことは、深く記憶に刻み込まれていた。
「まだ学生やっているんですか」
「ええ大学院に行ってます」
彼は大学院の修士課程の2年で、その春から就職するので、最後の休みをエジプト-ヨーロッパと旅するということだった。
それにしても、よくわかったものだと思うが、考えてみると彼のアルバムには僕も一緒に写った写真があるはずなのだ。写真の中の僕は、この日とほとんど同じ格好をしているから分りやすかったのかもしれない。ジーンズもトレーナーも何代目かのものだが、ほとんど同色だし、ジャンパーはあの時と同じものだ。
T君も加えて3人連れとなった我々は、今度はカイロ行きの飛行機に乗り込んだ。席は自由席。3人でかたまって座った。
|