ルクソールへ
(3月7日)
深夜の0時30分、カイロ到着。両替をしてビザ用の印紙(のようなもの)を買い(両替所で買える)それをパスポートに貼って入国審査の列に並ぶ。何の質問もされず機械的に入国スタンプがおされ手続き完了。そこを抜けると、すでに手荷物は出てきており一同ホッとする。アエロフロートでは以前ロストバッゲージにあっている。
しかし、僕の荷物につけたダイアル錠が、バッグのファスナーごとはずされているではないか。中を色々かきまわされたような感じだが被害はなし。まあ、盗み甲斐のあるのもは何も入っていないのだが…。ただファスナーのつまみがないのは、これから先不便だ。
さて、ホテルはどうしようか。旅行会社の客引きがわんさかとやってきたが、彼らと交渉するうち面倒になって、結局、空港で夜が明けるのを待つことにした。
5時、僕らは行動を開始した。空港内にあるカフェテリアで朝食を済ませ、市内へのバスに乗った。相当ガタがきているがガンガンとばす。朝の冷え込みがきつく、窓の隙間から入る風が冷たい。僕の後ろには「どこへ行くんだ」と聞く親切なおじさん。このおじさんのおかげで、ラムセス中央駅前で降りることができた。
僕はカイロ観光は後回しにして、まずルクソールへ行ってしまおうと思っていた。エジプトの歴史から考えると、古王国の時代の遺跡であるギザのピラミッドを見るのが先なのかもしれないが、今回の旅は、この後ヨルダン・シリアと回らなければならない。何があるかわからいから、内陸部の観光は先に片づけてしまおうと思ったのだ。
まだ、6時半をまわったばかりだし、今日移動できるのならば、それにこしたことはない。すぐに切符売り場に向かおうとしたが、困ったことに駅のどこにもアルファベット表示がない。しかし、ここでも親切なエジプシャンのおかげで切符売り場はすぐわかり、首尾よく朝一番ルクソールまでの切符も入手できた。切符の表記もアラビア文字ばかりだが、窓口の人が13号車の36番と算用数字で書いてくれた(算用数字のことをアラビア数字ということがあるが、本物のアラビア数字はアラビア文字同様ニョロニョロ文字だから、慣れないとまったくわからない)。
僕が切符を買っている間、T君は友人のエジプト人の知り合いと連絡をとり、「今日会うことになった」という。女子学生さんも明日までカイロにいるという。僕らは「ルクソールでまた会おう」などと言いあいながら、切符売り場の前で別れた。
僕はそこいら辺の人たちに切符を見せながら、列車の止まるプラットホームにたどりついた。僕の乗る2等車は14両編成の後部で、エジプト人で混雑していた。シートは薄汚れているが、シートピッチは日本の特急普通車より広く、ゆっくり足を伸ばせる。
始めての国でやや緊張気味だったが、これでなんとかルクソールまでは行けそうだと思うと、緊張がとけたのだろうか、とたんに睡魔が襲ってきた。エジプトの風景をゆっくり眺めながら、汽車旅を楽しもうと思っていたのだが、景色も何もない。うつらうつらの連続でドンドン時間が過ぎた。
ところが寝てばかりもいられなくなってきた。車内放送というものはなく(あってもアラビア語だからないのと同じ)、駅名表示板もアラビックのみの場合が多いのだ。余程注意して、まわりの人に尋ねたりしないと乗り過ごしてしまうかもしれない。気をつけなくては、と思い出した4時半すぎ、突如大停車。1時間たってもまったく動く気配がない。6時半頃、もうルクソールに着いてもよい時刻になって、やっと動き出した。そこから先は、線路にトリモチでもふっついているのではと思わせるようなような走り方で、ルクソールに着いた時には10時を過ぎていた。
駅を出るとすぐにホテルの客引きの少年につかまった。彼に引かれるままに、1泊10ポンド(日本円で約600円)の部屋にチェックインした。列車の中で随分居眠りをしたはずなのだが、とにかく眠い。一刻も早くシャワーを浴びてベッドに体を横たえたかった。
(3月8日)
起きるとすぐに散歩がてらホテル探しに出かけた。あるホテルの中をのぞきこむと、中で手招きをするので、入って部屋の値段と設備を聞いた。すると、8ポンド(約480円)でトイレ・シャワー付き、朝食料込みというではないか。部屋を見るとまあまあだ。
ルクソールの街の朝。 |
ということで、朝食後、そのホテルへ移り、ホテルの貸自転車ですぐに街に出た。
まず、ナイルの東岸のカルナック神殿へ向かうことにした。
ルクソールは、かつてテーベといい、紀元前16世紀から紀元前11世紀くらいまで続いた新王国の首都として栄えた街である。中王国時代を築いた王朝がテーベから興ったこともあり、この新王国時代には、元来テーベの地方神であったアモン神が全エジプトの主神とされ、これが太陽神信仰の聖都ヘリオポリスの最高主神ラーと習合して、神々の王アモン・ラーとよばれるようになって、その信仰が盛んとなった。と色々述べたが、早い話、エジプトでは多数の神々が信仰されたが、新王国の時代には、アモン・ラー信仰が中心となったということである。そして、国家の最高神であるアモン・ラーに捧げるため巨大なアモン神殿が建設され、これを中心とする神殿がカルナック神殿なのである。
カルナック神殿では、まず参道で、頭が羊、体がライオンという姿のスフィンクスに迎えられる。そして、第一塔門を通りラムセス二世の中庭とよばれる第一中庭をすぎ、さらに第二塔門を入ると、そこは134本もの柱が16列に並ぶ大列柱室で、これには圧倒される。
カルナック神殿。 |
カルナック神殿。柱が太い! |
午後はナイルの西岸へ行った。
小さなフェリーが東岸と西岸とを結んでおり、自転車もフェリーで渡る。自転車を押してフェリーに乗り込むと、10才位の少年が、そこあいているよという感じで、自転車と僕のスペースになりそうな場所を教えてくれた。「ショクラン(ありがとう)」といって、そこに自転車を持っていくと、彼は「50ピアストル(100ピアストルが1ポンド)」といってきた。どうやら、自転車の置き場を教えた礼をよこせといっているらしい。こんな小さな子供まで金に執着しているとは、とあきれながらも無視していると、その少年はしつこく金をせがんでくる。まわりのエジプト人の大人たちもみかねて、その少年に何かいって注意を与えてくれたので、彼もだまったが、船を降りるまでうらめしそうに僕の方を見ていた。
ナイル川の東岸と西岸を行き来するフェリー。 |
西岸の観光方法は少し変わっていた。ナイルを渡って少し行ったところに入場券売り場があって、そこで、これから行く各遺跡の入場券をまとめて買うという仕組みになっていのである。あと半日でどの程度回れるか、判断の難しいところだが、ガイドブックにのっている西岸の観光ポイントの半分位を適当に言って入場券を買う。
まず、ツタンカーメンの墓で有名な王家に谷へ自転車を走らせた。新王国時代の王たちは、それまでのピラミッド形式の墓の造営をやめ、谷あいの岩壁に穴を掘って、そこを墓所とした。王たちの墓が営まれた、この谷が王家の谷である。
3月とはいえ、ナイル中流域の日中の気温はかなり高く、何より陽射しが強烈である。おまけに王家の谷へ向かう道の最後には、かなりの登り坂があり、自転車で来たことを後悔した。それでも、むきになってペダルを踏み続けた。やっとのことで着いた王家の谷は当たり前のことだが、ぱっと見には何もなく、多くの観光客があっちの岩窟からこっちの岩窟へと移動していた。
各墳墓とも内部の壁画やヒエログリフ(象形文字)がなかなか美しいのだが、個人旅行の悲しさ、ガイドがいないので何を意味しているかわからない。何か不思議な雰囲気に浸るだけである。
有名なツタンカーメンの墓は他のものに比べて小さく、墓そのものとしてはそれほど見るべきものはない。それはこの王が年少の王で、権力もそれほどではなかったからだそうだが、盗掘を免れた副葬品はものすごいもので、古代エジプトの王の経済力を語る際によく引き合いに出される(この墓の副葬品はカイロの考古学博物館に所蔵されている)。
ツタンカーメンの墓の入り口。 |
王家の谷を後にした僕は、ハトシェプスト女王葬祭殿へ向かった。新王国初期の墓所は葬祭殿を兼ねていたということだが、やがて別々に営まれるようになり、その最も代表的なものが、このハトシェプスト女王葬祭殿である。しかし、観光客はまばらで、何か薄気味悪い静けさが漂っていた。どうも行った時間が悪かったようで、午後になると葬祭殿が、背後の丘の陰になってしまい、暗くなってしまうのだ。観光客は皆午前中にやって来るようだ。
王家の谷からハトシェプスト女王葬祭殿へ向かう途中、その別れ道の所で振り返って。 |
ハトシェプスト葬祭殿。 |
ハトシェプスト葬祭殿に残る壁画(供え物の前に座るアメン神)。 |
夕暮れ近くまで西岸を自転車で走り、くたくたになった。そして、露出していた肌が非常に痛い。腕は真っ赤で半ば火傷状態。鼻や頬もかなり焼けたようだった。
(3月9日)
この日もルクソール観光。午前中は再び西岸の遺跡を巡り、午後、東岸の重要な神殿、ルクソール神殿へ行った。
メムノンの巨像。西岸に渡ってしばらく行くとある。新王国の王アメンホテプ3世のもの。もともとはこの像の後ろに彼の葬祭殿があったが、後の王たちが石材として利用したため、その遺構は見られない。ご覧の通り像の風化が進んでいる。 |
ラムセス3世葬祭殿の第一塔門。幅が63mあるのだが、何故か左側の写真しか撮っていないが、今となってはその理由はわからない(工事でもしていたか???) |
ラムセス3世葬祭殿に残るレリーフ。彩色が残っているところも。 |
ラムセス3世葬祭殿中庭。ここも柱が太い。 |
ラムセウム(ラムセス2世葬祭殿)。 |
ルクソール神殿は、年に一度、ナイル川の増水期にアモン神が妻のムト神と過ごすために訪れるオペト祭のためにつくられた、カルナック神殿に付属する神殿で、そのため、カルナック神殿とルクソール神殿の間は祭礼用の参道で結ばれ、ルクソール神殿には現在もその一部が残っている。
付属の神殿でありながら、このルクソール神殿もまた大きい。
神殿域内に入ると、第一塔門の前の1本のオベリスク(アモン・ラー信仰のシンボル)が目に入る。もともと2本あったのだが、向かって右側の1本が、1836年、エジプト総督ムハンマド・アリによってフランスに寄贈され、現在はパリのコンコルド広場に立っている。
ところで、この神殿に来た時間も悪かった。オベリスクやそのすぐ後ろの、ラムセス二世像の写真を撮ろうとすると逆光になるのだ。道理で外国人の団体が少ないわけだ。
ラムセス二世像のある第一塔門から第一中庭を通りさらに奥へ進むと、そこにはまた巨大な柱が並んでいる。パピルス型の柱頭やシュロ型の柱頭もすばらしいといわれているが、そんな知識は持たぬままルクソールに行ったので、ここでもその巨大さに圧倒されるばかりだった。
ルクソール神殿内のモスク。 |
ルクソール神殿第一塔門。残念ながら逆光。多くの観光客は、ここを順光で見られる時間帯に訪れるのか、静かな雰囲気のなか見学することができた。 |
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