パルミラ
 
(3月21日)
朝7時、バスはダマスカスを出発。3時間ほど走って大きめの街に着いた。ホムスだった。経由地などわからぬまま乗車したが、ダマスカスからパルミラまでダイレクトに行く道は通らず、ホムスに寄ってからパルミラに向かうのが基本的ルートのようだ。大都市ホムスを経由しないルートは考えられないのだろう。そのことを裏付けるように、客の大部分がホムスで入れ代わった。 

ホムスでの約30分の小休止の後、バスは再び走り出した。
2時間ほど走ったところで、車掌が乗客の身分証明書を集めだした。検問だ。外国人はパスポートを提出。車掌は乗客の身分証明書を持って降りて行ったが、あっという間に戻ってきた。どうやら、ほんの形式的な検問だったようだ。

バスが動きだすと、遠くに列柱が見えてきた。テレビの海外取材番組などで何度か見た眺めだが、実際にその場に来てみると、やはり一種の感慨を覚える。遺跡のそばにバスステーションがあるのかと思っていると、バスは遺跡の横を通り抜けて、街中に入って行って止まった(2001年に訪れた時は街へアプローチするルートは変わっていた)。パルミラは遺跡だけしかない所かと思っていたが、ちょっとした街であった。

さて、まず、翌日のバスのチケットを買わなくてはならない。食堂兼カルナックバスのチケット売り場みたいなところで尋ねると、ホムス方面へのバスは一日1本、午後3時の便しかないという。ダマスカスから来たバスが、その日ダマスカスに戻るという運行スケジュールになっているようだ。しかし、明日の午後までパルミラにいる時間的余裕はないし、3時のバスでパルミラを去ることもできない。 民営バスが走っているに違いないと思い、とりあえずホテルを確保することにした。
 
パルミラでのホテルは、日本を出発する前から、遺跡の中にあるホテルゼノビアにしようと思っていた。ホテルゼノビア、名前がいい。

パルミラは地中海とメソポタミアを結ぶ交易路の中継地として栄えた都市で、ローマ帝国と結んでいた。しかし、3世紀後半、夫オダエナトウス暗殺後、跡を継いだ女王は、ローマから自立するという野心をいだき、結局ローマ軍に破れ、パルミラの街も壊滅に追い込まれた。その女王がゼノビアなのだ。

ロケーションがいいだけに、混んでいるかもしれないと思ったが、それはまったくの杞憂だった。部屋はあっさりとれ、それも遺跡に面した一号室だった。混んでいるどころか、客がほとんどいないのだ。室料は一泊20ドルと中級クラスだが、かなり老朽化しており、客がいないからか、お湯も出ないし、割高な感じだった(3年後再訪した時は綺麗に改装されていた)。 しかし、遺跡の中にあるということは、僕にとっては何にも変えがたいことだった。そして、ロビーの壁にかけてある、ゼノビアのモザイク画もなんともいえない趣があったし、客室のくすんだピンク色の壁もなんともいえぬ雰囲気を醸しだしていた。  


ホテルゼノビアの客室
ホテルゼノビアの客室。ストーブがあるが灯油が入っておらず使えなかった(ホテルに頼んだら使えたのか?)。夜はとても寒く、ジャンパーなどを着込んで寝た。


部屋を確保した僕は、早速、街のインフォメーションで、ホムスへのバスの便の有無を尋ね、教えてもらったバスの発着所あたりへ行った。しかし、チケット売り場らしきものがまったく見当たらない。食堂みたいなところがチケット売り場を兼ねているのかと思い、声をかけてみるが、英語はまったく通じず、要領を得ない。少し離れた所にバスが発車を待っていたので、そこへ行ってみる。バスに乗り込んで、誰か英語を話す人はいないかと声をかけてみるが、ここでもまったく通じない。しかし、客の一人が事の次第を了解したらしく、表通りから少し脇に入って行った所にある、バス会社の事務所に僕を引っ張っていってくれた。バスの出発時間は朝7時、明るい内に次の目的地アレッポに着けそうだ。

パルミラはシリア砂漠のど真ん中に位置する。しかし、豊富な地下水が湧き出るオアシスで、紀元前1世紀から、重要な交易都市だった。ローマ帝国との関係が深かったため、ローマ帝国の街に特有の列柱道路が街の中心を貫いている。

まず列柱道路の方へ行ってみたが、シリアの人たちばかりで、外国人観光客の姿はあまり見えない。こんな有名観光地で、と意外な感じがしたが、当時は、まだそれほど観光客が多くなかったことも確かだと思う。列柱道路のはるか向こうに小さな岩山があって、そこには7~8世紀頃、ウマイヤ朝によって建てられた城塞が見える。


パルミラ


パルミラ




3月とはいえ、砂漠の日差しは強い。気温はそれほど上がっていないようだが、かなり暑く感じる。そんななか遺跡の石材がゴロゴロころがる道を、何を見るともなしに、ただぶらぶら歩く。そして、時々写真を撮る。四面門とか劇場とか、所々に目立つ建造物があるが、それら一つ一つを見るよりも、広大な遺跡の雰囲気に浸る方が楽しい。

適当なところで列柱道路を引き返し、パルミラ最古の建造物で保存状態もよい、ベル神殿へ向かった。しかし、その入口の所で、地元の子供たちに囲まれてしまった。皆「ペン、ペン」とうるさい。そして、写真を撮ってくれとせがむ。「何もあげるものはない」といっても、あきらめずしつこく迫ってくる。「自分たちは学校で毎日ペンを使う。だからくれ。ペンは安いから1本や2本くれてもいいじゃないか」と理屈までこねて要求してくる。この要求、当然英語だ。ということで、やはり外国人観光客は多く、彼らは普段から外国人観光客と接しているのだ。


パルミラで出会った子供たち
「ペンをくれ」攻撃を仕掛けてきた子供たち。このときは友好的な関係だった。


しかし、うるさくてゆっくり見物できない。しまいには頭に来て、日本語でどなった。そうしたらどうだ。ガキ大将みたいなのが一人で寄ってきて「俺にペンくれたら、皆をだまらせる。1本で静かになるぜ」ときたもんだ。まったくあきれてしまった。当然、そんな申し出は無視して歩きだす。そうしたら、さすがにそれ以上はついて来なかった。

後から知ったことだが、ツアー客の間では地元の子供たちとの交流の手段としてペンを配るということがよく行われていたらしく、また、日本のテレビの取材班がボールペンを子供たちにばらまいたりということもあったそうだ。まったく困ったことをしてくれるものだ。

列柱道路とホテルの間には、バールシャミイ神殿という建物があるが、そこをのぞいていると、今度は数家族の家族連れの子供たちに囲まれた。しかし、彼らはパルミラの外から遊びに来ていたらしく、ボールペンのプレゼントを経験していないようで、子供たちはペンを要求してこなかった。少し離れた所で、彼らの母親たちが手招きするので行ってみると、紅茶を勧められた。バーナーを持ってきており、それでお茶を沸かしているのだ。やかんから注がれた甘~い紅茶がうまかった。

ひまわりの種もくれる。ひまわりの種は世界のあちこちでちょっとしたスナックとして食べられている。そして、生の人参の皮をむいたのも勧められた。こちらの人たちには、人参もおやつになるらしい。そういえば、あちこちのジューススタンドに人参ジュースもあった。

こっちの子供たちは、さっきの連中よりずっとおとなしかったが、それでも人懐っこいのには変わりなく、「ハローハロー」と寄ってくる。そして、そのうち中の一人が、一人一人の名前を紹介し始めた。全然覚えられなかったが、一人一人教えられるままに、呼んでやると喜んでくれた。十代半ばくらいの女の子もいたのだが、その子は名前を呼んでやると、はずかしそうに下を向いた。そういう年頃なのだ。

この親子たちと別れたあとホテルに戻り、部屋の窓から列柱を眺めることにした。まったく至福の一時ともいうべきものだった。

やがて日が西に傾いてゆき、列柱のシルエットが浮かび上がって来た。僕はカメラを手に取って外へ飛び出し、トロトロと沈んでいく夕日をバックにパルミラの遺跡をカメラに収めた。


パルミラの夕景
パルミラの夕景。



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