<目次>
 1.3度目のスィヴァス(このページ)
 2.トカットからアンカラへ
 3.アマスラ
 4.サフランボル
 5.アンカラ
 6.カッパドキア
 7.イスタンブール(1)
 8.イスタンブール(2)
 

  3度目のスィヴァス

1日目

1988年11月中旬のある日の午後、僕はトルコのアナトリア高原の東寄りに位置するスィヴァス(sivas)という街に着いた。(『地球の歩き方』には「スィワス」とあるが、どうも旅をしていると、トルコ人の発音はスィヴァスに近いので、ここでもスィヴァスと表記する)

当時、『地球の歩き方』のトルコ編は本当に薄っぺらな内容で、スィヴァスのページはなく、なぜかギョク神学校の写真が口絵の部分に載せられているだけだった。

では、なぜ、そのような街に行ったのかというと、カッパドキアから黒海沿岸のトラブゾンへ行こうと思って地図を眺めていると、カッパドキア地方-スィヴァス-サムスン-トラブゾンという移動が一番効率がよさそうに見えたからである。(しかし、今となっては、どうも、カッパドキア地方-エルズルム-トラブゾンと移動した方が効率的だったような気がする)

1988年の僕は、カッパドキア地方のネヴシェヒルからカイセリへ移動し、そこからさらにスィヴァスに移動した。11月中旬のスィヴァスの冷え込みはきつく、通りを歩く人も少なく、街はとても陰鬱とした感じだった。

そんな街に、なぜ3度も、と思われるかもしれない。

実は88年の旅の最後に、カメラ・撮影済みのフィルム等々の盗難にあった。そして、その後、再度同じ場所に立って写真を撮ろうということで、僕はトルコ旅行を繰り返すようになり、2003年には、スィヴァスに再訪する機会を得た。ところが、スィヴァスで突然カメラのシャッターがきれなくなってしまい、それ以来、スィヴァス再々訪は僕の旅の課題になっていた。

ところで、スィヴァスには、できれば寒くなっていく季節に行きたい。11月に行けば、あの時の感覚がよみがえるかもとも思っていた。しかし、色々と考えるうちに、11月だとあまりに寒い、スィヴァスだけに行くわけではないから、もう少し気候のよい時期に行きたい。ということで、10月の訪問ということにした。


JALに囲い込まれてしまっており(笑)、JALにはイスタンブールまで直接飛ぶ便はないので、今回はヘルシンキでの乗り継ぎを選択。ところがこれには若干の問題があった。ヘルシンキからの乗り継ぎ便がJALと同じワンワールドのフィンエアではなく、トルコ航空とスカンジナビア航空の共同運航便であるためか、成田ではヘルシンキ発の便のチェックインはできず、ヘルシンキでのチェックインが必要だったのだ。

通常は、国際線の乗り継ぎエリアには乗り継ぎ便の搭乗手続きを行うカウンターみたいのがあるので、ヘルシンキで降機後、「transfer」の表示にしたがって進んで行ったが、フィンエアのカウンターしかないではないか。ということはフィンエアとワンワールド加盟の航空会社の手続きしかできないということなのだろうが、念のために尋ねてみると、やはり僕の搭乗予定の便の手続きは出来ないと言われた。

仕方がないので、空港職員にどこで搭乗手続きができるかと尋ねると、搭乗口に係員が来たら、そこで手続きができるという答え。しかし、手続きが遅くなるということは、席の選択肢がなくなるということ。ヘルシンキ-イスタンブールの所要時間は3時間半くらいで、その間3列席の真ん中の座席にいるのは避けたい。幸いというべきか、何というべきか、この時点でイスタンブール行きの便の出発まで4時間近くもあったので、ヘルシンキでの入国を選択。到着口から出発口に移動して、トルコ航空のチェックイン・カウンターが開くのを待って搭乗手続きを完了させて出国した。


イスタンブールにはほぼ定刻通り22時近くに到着した。予想通り入国審査の窓口には長蛇の列。係官はそれなりに沢山いて、仕事もけっこうテキパキとやっているのだが、何せ客がとても多い。トルコは今後も成長を続け、訪問するビジネスマン・観光客もどんどん増加するだろうから、このままだと入国審査の列も長くなる一方だろう。スペース的に入国審査の窓口をこれ以上増設するのは難しそうな感じなので、いずれ新しいターミナルビルが建設されるかもしれない(もしかしてもう始まっている?)。

入国審査の列に並んでから審査が完了するまで40分を要した。ということで、23時近くになっていた。まあ、このことは旅行の計画段階で予想できていて、翌日には朝9時の便でスィヴァスまで飛ぶことになっていたので、1時間近くかけてイスタンブール市内に出て泊るという選択肢ははなから捨てて、この日は空港に隣接するホテルを予約しておいた。はっきりいって料金は高いが。



2日目

イスタンブール・アタチュルク空港を9時に出発したトルコ航空機は10時半ころスィヴァスに到着し、空港バスで市街地に出た。天気は晴れ。幸い、というべきなのだが、陰鬱とした感じはまったくない。都市としての発展の結果だと思うが、やはり、人・車ともに多い(このことは2003年の時にも感じたことだが)。そのため、雲で太陽の光が遮られ、厳しく冷え込んでいても、あのときの感覚はよみがえらなかったと思う。



スィヴァス空港。斬新なデザインの新しい建物だった。著しい経済発展を続けるトルコ。各地でこのような新しい空港ビルが作られているのだと思う。



さっそく2003年の旅で突然カメラが故障したギョク神学校(ルーム・セルジュク朝の1271年建設)へ。中は修復工事中で入ることができなかった(というかもともと正面の部分しか残っておらず、内部を再建中という感じ)。




ウル・ジャーミイ(ジャーミイ=モスク)。このあたりはのどかな地方都市という雰囲気が残されていた。ミナレットが傾いていた(写真の写りのせいではない)。




スィヴァスの中心部コナック広場の隣接する場所に立つチフテ・ミナーレ(1271年建設)。ミナーレの前や、ミナーレの向こう側にあるシファーイエ神学校の中庭にあたる部分にはカフェが設けられている。88年には建物が建っているだけだった(と思う)。




こっちがチフテ・ミナーレの正面(一つ上の写真は裏側)。




チフテ・ミナーレに隣接する場所に残るブルジエ神学校(1271年建設)。




ブルジエ神学校の中庭。ここにもカフェが。




スィヴァスの市街地。



スィヴァスの次の目的地はトカット。スィヴァスからバスが1時間に1本くらいは出ている。トルコのちょっとした都市では、バスターミナル(オトガル)が街の中心部から相当離れたところにあり(渋滞を避けるためだと思うが、昔は市街地に隣接していたターミナルが移転している)、中心部からオトガルまで無料のミニバス(セルビスという)を運行していることが多い。ということで、上の写真の通りに面したところにあるバス会社でチケットを購入してセルビスでオトガルへ移動。(88年にスィヴァスを訪れた時、オトガルは市街地に隣接した場所にあった)

セルビスの時刻まで、まだ間があったので、目抜き通りに面した店で、最近では日本でもけっこう有名になったドネルケバブを食べた。アイランというヨーグルトドリンク付きで3.5リラ、日本円で150円弱。地方都市はまだまだ物価が安いようだ。

13時半、トカット行きのバスが出発。トカットへ続く道は88年にサムスンへ行くときにも通った道だ。当たり前かもしれないが整備が進み、片側一車線の道が二車線の、それも日本の高速道路並みの立派な道になっていた。

15時15分ころトカット到着。ここでもセルビスで市街地へ移動。

もと隊商宿だったタシュハンという建物の近くでセルビスを降り、予約しておいたホテルにチェックインして、さっそく街歩きに出た。



タシュハン。1631年に建てれらた隊商宿。現在は伝統工芸のアトリエ兼販売所みたいな場所として使用されている。




タシュハンの内側。中庭はカフェになっている。




一歩脇道にそれると古い建物が残っている。




トルコはやはり猫だらけの国だった。




オスマン朝時代の市場を改装して設けられたトカット博物館。何と入場無料。




トカット博物館には近郊の遺跡からの出土品などが展示されており、写真はローマ皇帝ハドリアヌスの彫像。




ヒッタイトの時代のブロンズ製神像。




特に有名なモスクというわけではありませんが、一応。




トカットはこんな岩山のそばにある街。




トカットで泊ったホテル。写真の通りリビングと寝室が分かれているスウイート・ルーム風。これで日本円で4000円ちょっと(朝食込)だったか?