<目次>
1.3度目のトルコ入国(このページ)
2.カッパドキア再訪(1)
3.カッパドキア再訪(2)
4.アンタルヤ周辺の遺跡
5.パムッカレ再訪
6.アフロディシアス
7.エフェス遺跡再訪
8.ロードス島再訪
1.3度目のトルコ入国(このページ)
2.カッパドキア再訪(1)
3.カッパドキア再訪(2)
4.アンタルヤ周辺の遺跡
5.パムッカレ再訪
6.アフロディシアス
7.エフェス遺跡再訪
8.ロードス島再訪
3度目のトルコ入国 これから作成する旅行記は1992年3月のものだが、これを書いているのは2020年1月。実に28年前の旅行だ。旅先はトルコとギリシャ。この2か国には1988年10~11月、1990年3月にも訪れている。1990年の旅はエジプトを皮切りにヨルダン・シリア・トルコ・ギリシャと回るもので、トルコとギリシャは付け足しにすぎなかったが、1988年の旅は全旅程25日くらいのうち3週間をかけてトルコ各地をめぐったもので、自分のその後の旅行傾向を決定づけるものとなった。自分の旅行傾向を決定づけたとかたいそうな書き方をしたが、88年の旅ではその最後の最後で撮影済みのフィルムすべてを失うという大チョンボをおかしてしまったのだ。詳細はいずれ書くかもしれないし、書かないかもしれない。その失われたフィルムに写っていたはずの景色などを再度見て回ろう。それが、自分の旅のモチベーションの大きな部分となった。 88年と同じ季節に同じ日程で旅できればよいのだが、実際問題、それは不可能なので、出来る範囲でトルコを訪れるということを繰り返した。そうした旅の始まりが、この1992年3月の旅で、その後、トルコ旅行を繰り返すなかで、新たに行きたいところもできて訪問回数が膨大なものになっていった。 <1日目> 1992年3月、成田からアエロフロート機でモスクワへ向けて飛び立った。 最終目的地はイスタンブールだが、同日乗り継ぎができないフライトスケジュールで、モスクワのトランジットホテルでの1泊が必要だった。(以前は無料だったが、この時は日本円で7000円かかった-航空券購入の際支払い) 搭乗した機材はソ連製のイリューシンで、通路を挟んで3列・3列という座席配置。映画のサービスはもちろんオーディオサービスもなかったが、エコノミークラスにしてはシートピッチが広い飛行機だった。 約10時間かかってモスクワ・シェレメチボ空港に到着。 パスポートチェックを受けて、乗り継ぎのエリア(というのか)にあるトランジットホテルの表示のあるところで案内を待っていると、日本人だけ集められた。何か変だが指示に従うしかない。そこへ私服の女性がやってきて「これからトランジットホテルに行くが、その前にモスクワ市内を案内する」と言う。もう日が暮れかかっており、街の様子はあまり見られないだろうに。 料金は一人1500円。すぐにホテルに移動して休みたいというのは通らない感じだ。 暖房の効きの悪いバスに乗せられてモスクワ市内に出た。前年の8月革命以後の市民生活の様子はバスの中からだけではあまりわからないが、所々に屋外ブラックマーケットが黒山の人だかりができていた。ガイドの女性(さっきの私服の人)は「店の中には何もないが、外にはたくさんある」と説明している。 マクドナルドの横も通ったが、すごい行列だった。すでに真冬の厳しさはないにしても、夕暮れ時、寒空のなか並んでいる。そして、そこで食べるハンバーガー・ポテト・ドリンクのセットが平均的な人の月収の10分の1もするというではないか。 そうこうするうちに赤の広場の入口に着いた。1988年にもイスタンブールからの帰国の途次モスクワのトランジットホテルに泊り、モスクワ市内観光バスに乗ったのだが(このときはホテルで希望者を募っていた)、入国はしていないのでバスからは降りられなかった。しかし、今回は外を歩いてよいと言うではないか。こんなのがありなのか? (実はこの後、1994年の夏にもトランジットの際、モスクワ市内観光バスに乗り、この時にも車外に出ることが許された)
<2日目> 前日、トランジットホテルに到着した際に言われた通り(〇〇行きの便の利用者は〇〇時、△△行きの便の利用者は△△時にバスが出るという感じで示された)、7時半(少しずぎていた)に空港行きのバスが来た。空港までは30分もかからずに到着。 空港の建物に入るところで朝食券を渡され、出発ロビー2階の食堂に入って座っていると、何食分もの朝食を載せた大きなワゴンがやってきた。朝食券と引き換えに食事をもらうという仕組みだった。 10時半、イスタンブール行きの便は定刻に出発。トルコ時間の12時10分ころイスタンブール到着。3度目のトルコだが、イスタンブールからの入国は初めてである。 空港からはバスでシシャーネにあるトルコ航空オフィスまで移動。翌日のアンカラ行きのチケットを確保した後、割りと近くにある2年前にも泊ったホテルに行った。 レセプションでは2年前にもいたマダムが笑顔で応対してくれたが、2度目だということを伝えるとますます嬉しそうに応対してくれた。 部屋に荷物を置いた後はすぐにイスティクラル通りに出かけトルコ音楽のテープなどを購入(このときはこの旅ではもうイスタンブールには戻ってこないつもりで、そのため早々とお土産めいたものを買ったのだと思う)。 その後、チュネルに乗りガラタ橋方面に出てみてビックリ。今までのガラタ橋の横に並行して大きな跳ね橋ができていた(完成間際だったのか?)。 さらに旧市街を歩いてビックリ。道路の中央に鉄道を敷設しているではないか。 <3日目> イスタンブール2日目。午前中、グランドバザールへ出かけた。小さめのウールの絨毯が欲しかった。しかし、そう思いながら絨毯屋の店先で立ち止まって店先にぶら下げてある絨毯を眺めたりしていたが、どの店の人も手招きすらしてこない。声をかけてくるのは、色々な小物を売っているお土産屋くらいで、このころのイスタンブールの観光化はその程度のものだったのだ。 そうこうしているうちに、やっと一軒のとても小さな絨毯屋の主人が声をかけてきた。もとより絨毯を物色中なので店に入る。そうすると案の定高価な絹の絨毯を勧めてきた。でも絹は高すぎて買う気がしない。少し話を聞いたうえで、「トルコは3回目で、すでにウールのものを3枚持っている(というのは嘘で自分が持っているのは1枚だけで2枚はお土産として親・弟にあげてしまった)。絹の絨毯を買う気はないが、もしウールの、この先旅行中持って歩ける程度のサイズで、気に入ったものがあれば買いたい」というようなことを話した。ガイドブックには畳1枚より小さいサイズにはよいものがないと書いてあったのだが。 そうすると、一生懸命折りたたんで「ほら、こんなに小さくなるだろう。本一冊持って歩くようなもんだ」と見せてくれる。エルマチャイ(りんごチャイ)をご馳走になりながら何枚か見ていると、「商売用に作ったものではなく、絨毯を織っている家で使用するために作られた」というものを出してきた。「商売用ではない」というのが、小さいものにはよいものがないという一般的な見方をされると困るので先回りして言って来た嘘なのか、それとも本当なのかはわからないが、その中にけっこう気に入ったものがあって、深く「グーッド」と言ってしまった。値段を聞くと「80ドル」という答え。ここで「チープ(安い)」と口走ってしまった。100ドルを切る値段が提示されるなんて思ってもみなかったので。不覚だった。「ディスカウントしてくれないか」とは言えなくなってしまった。勝負ありだ。 絨毯そのものの質の良しあしはわからない。しかし、自分が気に入ったものが予想よりも安く買えるのだと思い、結局購入することにした。 ガラタ橋のたもとでサバサンドを食べた後、いったんホテルにもどって一休みし、午後、また旧市街へ向かった。
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