パムッカレ再訪

<8日目>
深夜はひどい風雨で波の音も大きく、おまけに雷までなって何度も目を覚ました。
このひどい天気のなか出発しなくてはならない。行先はパムッカレ。88年秋の旅での訪問地をたどる旅に戻るというわけだ。

アンタルヤからパムッカレまでは300キロ程あるが、テレビの天気予報はよくなかった。

9時チェックアウト。
ホテルからオトガルまでは歩けない距離ではなかったが、ひどい雨なのでタクシーで移動。

10時発のデニズリ(パムッカレへの乗り継ぎ地点)行きのバスに乗ることができた。

14負45分頃デニズリ到着。このころには雨はあがっていた。

バスを降りるとすぐに若い男が「パムッカレか?」と声をかけてきた。バスの客引きかと思ったが、話を聞くとホテルの客引きだった。彼もバスに乗り込んできてセールスを開始した。シャワー・トイレ付きで1泊日本円で600円ということで悪くはなさそうだ(もちろん部屋を見てから決める必要があると思う)。しかし、今回は前回と同じ石灰棚の上にあるホテルに泊るつもりで来たの、「ちょっと高いところに泊るつもりだ」と話すとすぐにあきらめてくれ、オーストラリア人学生3人組だけを引っ張って石灰棚の麓にあるパムッカレ村でバスを降りた。

15時にデニズリを出たバス(ミニバスだったか?)は15時半ころパムッカレの石灰棚の上に到着。

15時(たぶんミニバスに乗車し)デニズリを出発し、15時半パムッカレ到着。そして、予定通り88年にも泊ったツサン・モーテルへ行った。やはりガラガラのようで、朝食込みで1泊日本円で1700円くらいだった。



下から見上げたパムッカレの石灰棚。左端の水路みたいなところを温泉水が下っていく。美しくも何ともない眺めだが、温泉水が流れるこの細い水路は88年に訪れた際の記憶として妙に強く残っている。




石灰棚の上からの眺め、92年当時、乱開発のため温泉の湧出量の減少し、冬場はここに流し込むお湯を止めており、88年とはまったく異なる風景でかなり落胆したのではなかったか? 天気も悪かったし。




空は鉛色だし石灰棚には温泉水が貯まっていないし、パムッカレの観光地としての実力の10%も発揮できていない。青空の下、石灰棚が温水をたたえた光景を想像しながら見てください。




訪れる人もまばらだった。




雨も降ってきた。




石灰棚の上の方に広がる遺跡(ヒエラポリス)の最上部に劇場がある。なぜかこのときは劇場内では写真を撮らなかった(それとも中に入らなかった?)。その後復元が進み綺麗になった模様。




この時は昔の建造物の装飾、というか「顔」に興味をそそられていたみたいだ。




顔をあしらった装飾と古代の建造物の残骸。




ドミティアン門(だと思う)。




北大浴場(だと思う)。




カラハユット方面に通じる道。このあたりはネクロポリスと呼ばれる墓地の並ぶ領域(死者の街)に入ったところだったか?




ネクロポリス。これは墓だと思う。




今はなきTUSAN MOTELのプール。その後、石灰棚の上に並ぶホテルは環境保全のためすべて廃業し壊された。




同じくTUSAN MOTELのプール。石灰棚に似せたデザイン。プールの向こう側は石灰棚で、敷地の向こう側から背伸びをすればこちら側が見えてしまう状態だった。学生風の日本人二人組が「いいなあ。こんなところに泊りてぇえなあ」と言っていた。ただ、ここはオンシーズンだとかなり高額になるらしかったが、超オフシーズンのこの時はツインルームが既述の通り1700円くらいで2人だと一人あたま850円くらいだから、彼らの予算でもちょっと頑張れば泊れたと思うが。。。




当時はフィルムを節約していたのでホテルの写真などめったに撮らなかったが、珍しく撮っていた。写真を見て思い出したが、この当時は街歩き用のバッグとして小さめのカメラバッグ使っていたのだった。この時、カメラは一眼レフとコンパクトカメラを持って行っており、意外とそのカメラ(富士のカルディアというやつ)の写りがよかったので、それが荷物を軽くしたいというのと相まって、翌年3月のカルディアだけを持っいく旅行となった。しかしやはり写りが今一つということで94年には奮発してCONTAX TVSという高級コンパクトカメラを購入し、一眼レフを持たない旅へ移行した。自分の旅カメラの変化のきっかけとなる旅だったのだ、この旅は。



          

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