1.デリー、アーグラー(このページ)
2.ジャイプル
3.ボートからガンガーの沐浴を見る(バラナシ)
4.バラナシとサールナート
5.アジャンタ
6.ダウラターバード要塞
7.エローラ
8.エローラ、ビービー・カ・マクバラー、ムンバイ(ボンベイ)
デリー、アーグラー 1992年の夏、インドへ出かけた。旅に仕える日数は2週間くらい。予備知識がないなかで浮かんできた行きたい場所はバナーラス(ヴァーラーナスィー・ベナレス)、タージ・マハル、アジャンタ(法隆寺金堂壁画の源流ともいえる壁画が残されている)など。 インドは広い国なので上記の場所に訪れるとなると移動もけっこうたいへんだ。 デリーから入国して、タージ・マハルのあるアーグラーに日帰りして、その後、鉄道もしくは飛行機でバナーラスへ移動、さらに鉄道でアジャンタ観光最寄りのアウランガ―バードへ移動、最後はアウランガ―バードからボンベイ(その後ムンバイと名称が変更された)へ移動して帰国、という大雑把な旅程が決まった。 日本、インド間の航空券とインド1泊目のホテルのみを確保、その他は現地でということで出かけた。現地の移動手段が確保できるかどうかかなり不安だったが。 <1日目> 成田発、エア・インディア便でデリーへ向けて出発。 入国後、送迎車で日本で予約しておいたホテルへ移動。 <2日目> 1泊目のホテルでインドには何度か来ているという日本人旅行者と出会った。 これからの旅で使う革製のサンダルを買うためメイン・バザールへ行くという彼の「取りあえずメインバザールくらいはのぞいておいた方がよい」という勧めにしたがい、一緒にオートリクシャ―に乗車した。 彼はインド・リピーターだけあって、リクシャーのドライバーやサンダル屋との値段交渉も手慣れたものだった。 バザールからホテルに戻った僕は荷物をピックアップした後、インペリアル・ホテルというホテルへ移った。ここは”高級”の部類に入るホテルだったが、92年当時は一泊50ドルくらいで、インドの物価の安さを実感した。その後、インド経済の発展、インド内外の旅行社の増大に伴うホテル不足もあって、インドのホテルの宿泊料金はどんどん高騰し、インペリアル・ホテルの宿泊料金も半端ないものになってしまった(1933年に建てられた古めのホテルで施設の老朽化のため料金が低めだったものが、その後改装され料金が跳ね上がったのかとも思えるが、本当のところはわからない)。
1泊目のホテルはそのまま滞在してもよいかなというものだったが、この時の自分は西洋料理(もしくは西洋料理っぽい料理)も出すレストランを併設している比較的高いホテルに泊り歩いた(日本のビジネスホテル程度のお金を出せばけっこうレベルの高いホテルに泊ることができた)。 理由は二つ。一つは、自分は辛い料理が駄目でインド料理ではきついということ(街中で中華料理屋や西洋料理屋を探すことは当然可能だが、暑いの中レストラン探しで消耗したくない)。 そしてもう一つは衛生状態の問題。当時、インドを自由旅行した自分の知り合いのなかで赤痢にかかった人が6割を超えていた(これは分母が非常に少ないことが大きな原因なのだけれど)。衛生状態の良好なレストランをさがすのも疲れるので、ホテルの衛生状態のよいレストランで食事をとろうというわけである。 衛生状態を恐れるあまり、このときの旅では何とバックパックにヤカンを入れて行った。ヤカンといっても登山用具屋で購入したごくごく小型のものだけれど。ホテルの部屋で湯を沸かして(熱源は投げ入れ式の電気ヒーター)、その湯冷ましを水筒に入れて観光しようというわけである。しかし、今となっては「何とオーバーな!」という感じではある。 水ならばミネラルウォーターを買えばよいだろうと思われるかもしれないが、この頃のインドはミネラルウォーターにも信用のおけるメーカーとそうでないメーカーがあって、信頼しきることはできないと思ったのだ(実際には信頼できるメーカーのものが割りと手に入りやすくヤカンはほとんど使わなかったと思う)。 とにかく赤痢にでもかかって帰国後に隔離ということになったらまずいと、とても気をつかっていたのだ(仕事が請負契約という形態だったので)。 ホテルを移った後、新市街の中心コンノート・プレイスへ行った。 昼食をとるためもあったが、バナーラスまでの航空券の確保というのが最大の目的。(デリーからカジュラーホーへ行き、さらにバナーラスへというのが定番のルートだったが、何としてもアジャンタに行きたかったのでカジュラーホーに寄ることは日程的に無理だった) インディアン・エアラインのオフィスへ行き、3日後の航空券を確保。 航空券が買えなければニュー・デリー駅へ行って鉄道のチケットを購入しなければならなかった。ニュー・デリー駅には外国人窓口なるものがあって、一般の窓口よりもチケットの確保が容易ということだったが、外国人窓口へ行こうとする者に対してはけっこうな邪魔が入るという情報もあった。外国人観光客に高いチケットを売りつけたり、旅行会社に無理に引っ張って行こうとする輩がたむろしていて、「外国人窓口は閉まっている」とかいう見え透いた嘘をついたりしながらしつこく話しかけてきて、目指す窓口に容易にアクセスさせてくれないというような情報である。う~む、いかにもインドだなあと思った(エジプトに似ているなあとも思った)。 移動手段のチケットが入手できるかどうかが、この旅行がうまくいくかどうかの分かれ目だったが、何とか次へ進めるということになり安堵した。 さて、デリーでの2日間をどうするかであるが、1日はタージ・マハル観光にあてることは旅行に出る前から決めていた。ということで、ホテルのツアーデスクでアーグラー一日ツアーに申し込んだ。
<3日目> 6時半、アーグラー1日ツアー出発。ツアーの参加者は西洋人や日本人。バスはインドにしてはは立派なものだったが、エアコンが効きすぎでほとんど冷蔵庫という感じだった。インドでは冷房がサービスとして重視されているようなのだが、この時の冷房はけっしてサービスと呼べるものではなかった。窓が曇り拭いてもだめなのだ。何故か? それはバスの中が寒く、外が暑いので曇るのは窓ガラスの外側だったのだ。 12時少し前、タージ・マハル到着。タージ・マハルはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズ・マハルのために1631年から22年の歳月を費やして建設した墓だ。
タージ・マハルの後は昼食タイムをはさみアーグラー城へ移動。この城はムガル帝国のアクバル大帝によって1565年に建設されたもの。 この旅行記を作成するにあたって写真を見返したが、ここではあまり写真を撮れていない(この城の入口であるアマル・スィン門も撮っていない)。見どころが多すぎてフィルム使用のペースがつかめなかったというのもあるかもしれないが、グループから離れて自由に動くということがなかなか難しく、写真を撮るタイミングがつかめなかったのかもしれない。
メモには何時にアーグラーを出発したかは書いていないが、ホテル到着は21時半とある。 ホテル帰着後、遅い夕食をとり、長い1日が終了。 |