エローラ、ビービー・カ・マクバラー、ムンバイ(ボンベイ)

<11日目続き>
エローラのヒンドゥー教石窟群を見学した後は、少し離れたところにあるジャイナ教石窟群に向かった。


第29窟(ヒンドゥー教)のあたりから来た道を振り返った。雨季のため、けっこう水量のある滝が見られた。この滝の裏側の道をたどって来たはずだが、記憶がない。滝つぼまで画面に収めておけよ、自分、と言う感じ。ちなみにweb上にある色々な旅行記を見ると、乾季にはこの滝はない模様。また、滝の裏側にある道は通行不可になっているっぽい。



滝を通り過ぎ、第29窟を見学した後(見学したはずだが写真は1枚も撮っていない)、少し離れたジャイナ教石窟群へ向かった。



第32窟。象に乗るクベーラの像。このほかにあちこちに神像があったが残念ながら写真は撮っていない。クベーラは富と財宝の神で仏教においては毘沙門天と呼ばれているとのこと。




第32窟。エローラはアジャンタとは異なり、あまり壁画が残っていなかったが、ここには構図が見て取れる保存状態の壁画があったので撮ってみた。




第32窟。一つ上の写真と同じ部屋の天井。ちなみに、同じ部屋の天井という記憶はまったくないのだが、グーグルマップのストリートビューにはこの窟内の映像があり、いくつかある小部屋の一つで撮ったということがわかった。近年、エローラを訪れた人たちの旅行記で32窟の壁画を載せているものが見当たらないのだが、現在はこの部屋への入ることが制限されているのだろうか?




一瞬、仏教なのか? と思ってしまうが、左右にある立像は全裸であることからジャイナ教であることがわかる。ジャイナ教は徹底的な非殺生など厳しい戒律で知られ、祖師は一切の所有物を持たず悟りを開いたということで、ジャイナ教の寺院には上のような全裸像が置かれるらしい。ちなみに中央の座像も全裸ということだが、座っているので、その辺はわかりにくい。




ジャイナ教には24人の祖師がいて、それををティールタンカラといい、全裸像はティールタンカラの像らしい。




第32窟。




第32窟。




第32窟。




第33窟。web上の色々な旅行記には、第33窟は第32窟と内部でつながっており、歩いているうちに第33窟に出るとあるので、たぶん、自分も自然と第33窟に出たのだと思う。




第33窟のファサード。



これにてエローラ石窟群の見学は終了。かすかな記憶をたどると、基礎知識不足がたたり、2日連続した石窟と彫刻にやや食傷気味だったような気がする。それにフィルム節約癖が加わって、驚くほど写真も少ない(デジカメならば取りあえず撮っておいて後で確認ということをしたのだろうが)。今ならば、もっと丁寧に見学すると思う。

ジャイナ教石窟群からは、元来た道を戻ったのか、その近くに回しておいてもらったタクシーに乗り込んだのかは定かではない(ジャイナ教石窟群前に入退場ゲートがないと、この方法はとれないが、92年段階ではどうだったのか。ここを見てくれている人にとってはどうでもよい情報だと思うが、個人的には気になる)。



アウランガーバードへ戻る道すがら、タクシーは見晴らしの良い所で停まった。写真ではよくわからないと思うが、中央やや左側に白いドーム型の建物が見える。ここが次の目的地ビービー・カ・マクバラー。




アウラングゼーブ帝の第一妃の廟、ビービー・カ・マクバラー。父、シャー・ジャハーンがアーグラーに建立したタージ・マハルを模したもので、1661年完成。大理石が使われているのはドームの部分と墓標だけ。タージ・マハルに金をかけすぎたため、ふんだんに大理石を使えるような財政状況ではなかったとか。




帰り際に撮った1枚。割と気に入っている。



これで観光終了、ホテルに戻るのか、と思っていると、もう1箇所寄ってくれた。



パーンチャッキー。アウラングゼーブ帝の師であった導師ムザーファルの廟のある記念公園にあるパーンチャッキー(水車場)。10㎞離れた丘から水を引き水車を動かして製粉を行った。噴水とか人口の滝みたいなものもある。観光地としては正直しょぼいが、当時の技術のすごさを示すものだとか。




池が2段になっている。



17時少し前、ホテルに到着。

軽い食事をとってから、18時、オートリクシャーで駅へ向かった。(アウランガーバード市内での移動はもっぱらオートリクシャーを利用したが、当時はあまり観光ズレしておらず、料金交渉にも苦労しなかった印象が残っている)。

18時10分、駅に到着。

19時56分、列車は定刻から26分遅れて出発。

乗車したファーストクラスのコンパートメントの席は全部埋まっていたか?

ところで、マンマード、アウランガーバード間とアウランガーバード、ムンバイ(ボンベイ)間とファーストクラス利用したが、いずれもACのない車両だった(つまり座席のクラスとしては、実は最上位クラスではなくAC2段寝台よりは料金が安かったと思う)。しかし、現在もACのないファーストクラスが残っているのだろうか?

ACのない車両なので窓は開け放しで、出発を待つ間、蚊が入り放題だった。ということで、持参の蚊取り線香を携帯用のケースに入れて焚いてみたところ、同室のインド人に喜ばれたことを覚えている。



<12日目>
7時30分頃、ボンベイ(現在はムンバイ)の・ビクトリア・ターミナスに到着(現在はチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス)。

さて、ホテルをどうするかだが、当時、インドのホテル料金は安く、インドでしか泊ることができないだろうということで、オベロイ・ホテルへ向かった(安いとはいっても150ドルくらいした)。大奮発してタージ・マハル・ホテルにするという選択肢がなくはなかったが。しかし、高級ホテルに予約なしで行って、レセプションで「部屋はありますか?」というのは、今だとちょっと考えられない(ネットで予約を入れてから行くと思う)。



オベロイ・ホテルの方へ向かって歩いた。霧雨が降ったりやんだりで風もやや強かった。考えてみれば雨季なのにアーグラー城でにわか雨に降られただけで、とても運がよかった。




今歩いて来たヴィクトリア・ターミナス駅(1996年にチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅と改名)方向に振り返って1枚。遠くに写っている建物はヴィクトリア・ターミナス駅(だと思う)。



部屋に入りルームサービスで朝食をとって、その後、すぐに外出した。

まず行ったのがエア・インディア。

当時、エア・インディアの座席管理は信用されておらず、再リコンファームなるものが勧められていたような記憶がある。

続いて、インド門方面へ向かった。



タージ・マハル・ホテル旧館。インドの大富豪ジャムシェド・ターターが19世紀末、外国人の友人とあるホテルへ行くと、その入口で「欧州人専用」であると言われ入場を断わられ、それをきっかけに自ら一流ホテル=タージ・マハル・ホテルを建設したとされる(1903年完成)。泊ることができないまでも見ておきたいと思った(たぶんロビーを歩いたのではなかったか?)。




タージ・マハル・ホテルの目の前にあるインド門。英国王(インド皇帝)ジョージ5世夫妻の来印を記念して1911年に建立されたもの(ということは、この門より先にタージ・マハル・ホテルができていたということ)。この近くからエレファンタ島(ヒンドゥー教の石窟寺院がある)へ行く船が出ており、それに乗るつもりだったが、天気が悪く欠航だった(という記憶があるようなないような。。。)。




左側の遠くに見える高い塔はラジャバイ時計塔で、1878年の建設で高さ85m。ロンドンのビッグベンを模したものらしい。




ホテルからの眺め。ラジャバイ時計塔も写っている。



その後、天気も悪く、夜行列車での移動疲れもあって、ホテルですごした。






<13日目>
10時40分、ホテルをチェックアウト。

11時、タクシーで空港へ向かう。

12時、空港到着。

17時、定刻から2時間遅れで出発。



<13日目>
9時半成田空港到着。

終わり。