アジャンタ

<7日目続き>
バラナシからの列車が何時発だったのかは、メモがなくわからない。

しかし、すっかり暗くなってからだったことは確かで、駅舎の外はとても暗く、そこに寝転がってたり、座り込んだりしている人たちにぶつかったりしないよう注意深く歩いたことは覚えいている。

また、ホームに乗客の名簿が貼り出されるというインド独特のシステムがあるのだが、そこに自分の名前を見つけるのを面白がっていたのだと思う。



<8日目>
自分は夜行列車では、たとえそれが寝台車であってもなかなか熟睡はできないのだが、その夜はとてもよく眠れた。揺れが少なかったのだ。しかし、揺れが少なかったのではなかった。ずっと停車していたのだ。

明るくなってからはスピードを上げているのかそうでないのかはわからないが一応ちゃんと走っていた。列車の窓ガラスはひどく汚れていて、また、日差しよけのためか、もともとちょっと色もついていて車窓の眺めはあまり楽しむことができなかった。しかし、農作業をする女性が鮮やかな色のサリー姿で、野良仕事もサリーなんだ、と感動したり、町場の近くの川で朝の用を足す人を見て、やはり衛生状態には気を付けて旅を続けなければと思ったりした。



<9日目>
列車が何時間遅れているのかわからなかった。

そうこうしているうちに深夜になった。マンマード到着の定刻が22時17分ということはわかっていたので、遅れを加味すると、そろそろマンマードなのではないかと気になって仕方がなかった。

しかし、眠い。油断していると寝落ちしてしまう。寝ているうちにマンマードに着いてしまったらどうしよう。そんな思いで、列車の乗員(車掌ではなかったと思う)に「まだか? 何時に着くのか?」とか尋ねると、「大丈夫、寝ていろ」という。これで少し安心して寝たと思う。

マンマードに到着する少し前、乗員が起こしてくれて、無事マンマードで下車。3時15分だった。定刻から5時間遅れだった。

さて、マンマードからのチケットはまだ持っていない。はたしてアウランガーバードまでのチケットは買えるのだろうか。というか、そもそも駅の窓口は開いているのか? 杞憂だった。アウランガーバードへ行く5時10分発の列車のファーストクラスのチケットがあっさり買えた。当初から乗車する予定の列車である。

マンマードは暑くはなかったが、湿気た空気が体にまとわりついた。ホームにある待合室の奥にトイレがあったように思う。中に入ると巨大なゴキブリが何匹もうごめいていた。

ホームでチャイを飲んだ。インド独特の、紅茶がよく煮だされたほどよくスパイスが効いた甘いミルクティーだ。うまかった。

どこから来たのかはわからないが、アウランガーバード行きの列車は20分遅れの5時30分にやって来た。ファーストクラスのコンパートメントには先客が1人いただけだったろうか。

8時10分、定刻よりも20分も早くアウランガ―バードに到着。

ついにアジャンタ観光の拠点にやってきた。法隆寺金堂壁画の源流となっているとされる壁画が見られるのだ。

宿泊はITDC(インド観光開発公団)直営のホテルを選択(たぶんITDCの経営だと思う)。そこからアジャンタ、エローラへのツアーバス(移動のみ)が出でており、便利だったからだと思う。

ホテルで朝食をとると、すぐにインディアン・エアライン(インディアン航空=その後、エア・インディアに吸収された)のオフィスへ行った。観光よりも、まずは次の移動の足の確保だ。

4日後の午後ボンベイを出発する便で帰国することになっているので、3日後のボンベイ(現在のムンバイ)行きの便を希望したが満席。仕方がないので、いったんホテルに戻った。

帰国便の出発日と今後の観光予定を考え合わせて、旅程を練り直したのだと思うが、当時のインドの飛行機の運航状況の不安定さから考えて、帰国日にボンベイへ飛んで、そのまま乗り継ぐというのは危険すぎる。ということで、ほぼ鉄道の一択ということだったのだと思う。ただ、どんな時間に列車があるのかわからないし、こちらも大幅遅延の恐れがある。

昼食後、アウランガーバード駅へ行った。幸い、2日後のボンベイ行き列車のファーストクラスの席があっさりとれた。



<10日目>
8時半、アジャンタへのツアーバスが出発。

アウランガーバードからアジャンタまでは104㎞。メモには到着時刻が書かれていないが、11時半くらいに着いたのだろうか?

現在、車は石窟群からかなり離れた場所までしか入ることができず、シャトルバスを利用して、さらに移動しなければならないようだが、この時は石窟群のすぐ下までバスが行っていたと思う。



アジャンタの石窟はこんなところにある(1819年イギリス騎兵隊士官によって発見された)。石窟が開かれたのは紀元前1世紀頃と、5世紀。前者の時期の窟は、仏像がなかった時代なので窟も簡素。後者の時期に属す窟に仏像や壁画が見られる。




1992年当時のチケット売り場(だと思う)。グーグルマップのストリートビューを見ると、この事務所みたいな所(閉鎖されている)は、一つ上の写真を撮った位置より手前にあるので、先へ進んだ後、戻ってきて撮ったのか(どうでもよい情報ですが超個人的なメモとして書いています)。




第1窟の蓮華手菩薩。これを見るためにここへ来た。高校の日本史で勉強した法隆寺金堂壁画の源流となったもの。図説集みたいなものには蓮華手菩薩がクローズアップされたものが載せられていたが、壁面のこんな場所にこんな構図で描かれていたことを知ることができて感動が倍増。




蓮華手菩薩だけ拡大してみた。しかし、よくここまできちんと撮れたものだと思う(ブレブレなのだけれど)。1992年の旅行なのでもちろんフィルムカメラ。フィルムのISO値はたぶん100か200。400になるとプリントにしたときに粒子の粗さが目立つので利用を避けていた。壁面は電球でほのかに照らされていたが、壁画保護のため光量は抑えられて、写真撮影には極めて厳しい環境だった(その後、照明は暗いものの改良されデジカメを高感度に設定すると、そこそこ撮れるようになったと聞く)。もちろん絞りは開放だったと思うが、それでもシャッターは超スローだったと思う。よくこの程度のブレで済んだと思う。しかし、この菩薩のポーズ、容貌等々がどのような経路・経緯で日本まで伝播したのか興味がつきない。




金剛手菩薩。手ぶれがひどいが、個人的な思い出のためということで。。。




釈迦の前世を描いたもので、マハーシャーナカ王子が王宮で灌頂を受ける場面。




第1窟の仏像。




たぶん第2窟。




一つ上の写真と同じ場所。天井に壁画が残っている。




第2窟。




第2窟。




釈迦誕生の場面。スィッダールタ王子を抱えるブラーフマー神とインドラ神とわが子を見つめる王妃マーヤーということだが、小さい子スィッダールタ王子で右側の女性がマーヤーということはわかるが、神の方はどういう構図になっているのかさっぱりわかりません。ところで、フィルム節約のため、むやみやたらと撮ってはいないものの、有名な場面はそれなりに撮っている。おそらく団体ツアーが時間をかけてガイドの説明を受けているのを見て撮ったためだろう。




第9窟か?




第9窟か? 




第16窟だと思う。梁を支える力士像。




第17窟。明るいので油断したのか、かなりぶれてしまった。




第17窟。窟の外側にある絵で宮殿生活を描いたものらしい。




第17窟。これも窟の外側にある絵。美しい女性の絵と天井の装飾。




第17窟。本生譚(ジャータカ)で六牙白象本生というもの。像自らが牙を抜き猟師に布施しているところらしい。入口側の壁にあったことを記憶するため、敢えてトリミングしないでおく。ところで、この時は何となく壁画を見ていたのだが、仏教説話についての予備知識を持って見るととても面白いと思う。




たぶん第19窟。




第19窟。




第26窟。右端の人、ちょっと、ちょっと、という感じだけれど。




第26窟。涅槃像。写真ではわからないと思うが、そこそこ大きい。




第26窟。涅槃像を柱越しに撮ってみた。柱があるので、像の大きさがわかるかと思う。




第26窟。涅槃像を正面から撮ってみた。この窟の彫刻はすごいようだが(たぶん見物した時には感じていた)、残念ならが、光量不足か、例によってフィルム節約のためか、あまり写真を撮らなかったことが後悔される。涅槃像は複数枚撮っているのだけれど(これはたぶんに前年夏中国の張掖で巨大な涅槃像を見たということも影響していると思う)。




たぶん第26窟。窟のファサード全体がわかる写真を撮らなかったことが悔やまれる。




見物できる窟で一番奥にある第26窟を見終わり、出口方向へ向かう途中撮った写真。真ん中のちょっと高さのある窟は第19窟(だと思う)。



メモには何時ころ見物が終了したか書かれていないが、けっこう駆け足だったことは確かだと思う。もう一度、ゆっくり見物したいが、そんな機会が訪れることはあるのだろうか(と思う、コロナ禍にある2021年の2月)。