<目次>
 1.北京郊外の古刹潭柘寺(このページ)
 2.サリム湖
 3.トルファン
 4.ピチャンで大砂丘を見る
 5.交河故城
 6.南山牧場
 7.楽山大仏
 8.成都
 

  北京郊外の古刹潭柘寺

1995年夏の旅である。

この夏、中国へ行くことは前年の秋には決めていた。というのは、1994年秋短期の中国旅行に出かけた際、片道の航空券で行き、帰りに北京発の成田との往復のチケットを買っていたからである。ノーマル運賃ではあるが、当時、中国発の航空券の価格は日本発のものよりかなり低額だったので、利用上の自由度を考えると割とリーズナブルなものだった。

<1日目>
8月某日、JAL便で成田から北京へ飛び、タクシーで予約しておいたホテルへ移動(旅行会社に北京のホテル、北京-烏魯木斉(ウルムチ)間の航空券、烏魯木斉1泊めのホテルの予約とビザをセットでお願いしたのだと思う)。

たぶん、現地時間の15時くらいに北京に到着し、ホテルに着いたのは16時ないし17時くらいだったと思う。

この日は観光はせず。


<2日目>
この日は夜遅い便で烏魯木斉へ向かうことになっていた。

9時半、ホテルをチェックアウト(荷物は預かってもらう)。

北京郊外にある潭柘寺(たんしゃじ、中国読みではタンチェースーだったか?)へ向かう。
創建が晋代(265~420年)と言われている古刹で長い歴史を持つこと、それから山中に伽藍があるという立地に魅かれて訪れたのだと思う。

創建が晋代であるといっても、もちろんそんなに古い物が残っているわけではなく、文化大革命により破壊もされたらしい。文革期に閉鎖されたこの寺は、その後、復旧作業が行われ1980年から一般への開放が再開された。

ホテルからバス・地下鉄を乗り継ぎ苹果園まで行き、そこからバスで河灘へ移動、さらにバスを乗り継いで、寺に着いたのは13時20分だった。メモによると11時に河灘に着いたのだが、潭柘寺行きのバスに乗ったのは12時25分で、当時は交通の便が相当悪かったようだ。(昼食は寺に入る前に食べたか?)



拝観券。




山門(帰りがけに撮っていないことに気付いて撮ったものだと思う)。古刹というイメージからはかけ離れた新しい感じ。。人の波が途絶えてから撮ればよかったが、この頃はまだその辺には無頓着だった。




大雄宝殿。




毘廬閣。




屋根の端っこの飾り。




山寺という感じ。




日本の中国風禅寺(例えば宇治の万福寺)にある時刻を知らせるために叩く木製の魚と同じものがあるな、と思って撮ったのだが、なんと隕石を用いて(本当?)作った魚で重さ150キロもあるとか。病気の治療や厄払いに特にご利益があるとか。柵で守られていたので只魚(只者)ではないと思ったが、かなり貴重なものらしい。




何というお堂かはわからず。




雰囲気がよいので1枚。




再び大雄宝殿。




何か寺の行事の練習?



15時20分のバスで北京市内への帰途につく。

16時半ころ苹果園駅到着。(帰りは乗り換えなしだった)

17時半ころホテルに戻り荷物をピックアップしてタクシーで空港へ向かった。

空港で夕食をとったあと、到着ロビーで日本から仕事上の知り合いであるS氏の到着をまっていた。

実はS氏と自分の共通の知人が北京大学との協力を得てだったか提携してだったかで(詳細は忘却)、20人くらい(だったか?)の大学生を引き連れたツアー(学習兼観光みたいな感じ)を企画し、S氏もそれに参加するため、先乗りという形で北京に到着することになっていたのだ。

このツアーの詳しい行程はまったく覚えていないが、北京大学で少し勉強したあと旅行を開始し、その主要な目的地は成都だった。たぶん『三国志』に関する学習を兼ねたツアーだったのだろう。

実は成都で少しだけ彼ら一行と会うことになっており、S氏の北京到着と自分の出発が同じような時間だったので「空港でちょっとだけ会いましょう」と、日本にいるとき伝えておいたのだ。

ところで、だいぶ待ったがなかなかS氏は現れなかった(飛行機が遅れたのか? 入国審査が混んでいたのか?)。自分の烏魯木斉行きの便の出発も近づいており会うのはあきらめて出発ロビーへ移ろうとしていると、日本人の出迎えに来ている中国人を見かけた(手にボードを持っていた?)。

声をかけるとS氏を迎えに来た人で、「待っていたけれど自分の出発が近づいてきたので、もう行きます。Sさんによろしくお伝えください」と言ってその場を後にした。

しかし、今と違って北京の首都機場もそんなに大きくなく、到着口も比較的閑散としていたからこその出来事だったと思う。