イエメン再訪前にドバイに立ち寄る
※2022年2月に始まったロシアによるウクライナ軍事侵攻の陰にすっかり隠れてしまった感があるが、イエメンでは、2015年の内戦勃発以来、多くの人の命が失われ、また400万人以上が家を追われ、終わりの見えない紛争と食料難により人道支援を待ち続けている人が2,070万人に及ぶという(2021年3月現在の数字、国連UNHCR協会のホームページによる)。そして、国連ではそうした状況を「最悪の人道危機」としている。この旅行記はもともとは2007年8月にイエメンを旅してから、あまり時間のたたないうちに作成したものだが、掲載する写真の数は絞っていた。そこで、一日も早い平穏な日々の訪れを祈って、まだ平穏だった頃の(といいつつも穏やかではない部分も多々あったようだが)街・風景・人々などの写真や動画を追加して、旅行記をリニューアルすることにした(2023年2月)。
さて、2007年夏の旅である。
どこへ行くか? 観光客でごったがえすようなところへは行きたくない。パキスタンのフンザあたりに行きたいが、パキスタンの情勢はよくないらしい。そして、いろいろと考えているうちに浮かび上がってきたのがイエメン。近年、個人旅行者の間で静かなブームになっているらしいし、前回の訪問から10年以上経過しており、その変化も気になるところである。ということで、行き先はイエメンに決定。前回はエジプト航空でカイロから入ったが、今回は関西空港からエミレイツ航空(JALとの共同運航便)でドゥバイに飛び、そこからイエメンの首都サナアへ飛ぶことにした。
<2日目>
ドバイには早朝4時すぎに到着。サナア行きの便にはうまく接続しておらず、この日はドバイ泊である。
入国審査の列には中国人の姿が目立ち(出稼ぎ労働者だろうか)、僕が並んだ列にも大勢いたが、彼等はビザが必要らしく、空港係員にビザの列につくように促されて移動したので一気に列が短くなった。それでも30分近く並んだが。
ホテルは予約してあるが、まだ時間が早すぎるので、空港で時間をつぶしたあとバス乗り場へ。ちょうど空港バスが出発するところだったが、むりに飛び乗ることはせずに30分後のバスを待つことにした。ところが、次のバスが所定の位置からかなり離れたところから出てしまった。ボーっとしすぎだ。また30分待つのはいやなので、普通の路線バスで行くことにした。暑い国かつお金持ちの国なので、普通の路線バスだが冷房が効いている。
空港のバス乗り場。 |
適当なところでバスを降り、ちょっと歩いて9時にホテル到着。やはりまだ朝早すぎだが、うれしいことにチェックインすることができた。部屋に入ったとたん猛烈に眠くなってきたので、朝食をとったあと、かなり本格的に寝た。
13時半すぎに起きたが、窓の外の空気は直接触れなくても、その熱さが伝わってくる感じがした。実際、部屋のバルコニー(一応ついていた)に出るとクラクラするほど。外を歩く人がほとんど見当たらないのもうなずける。軽く40度は超えているだろう。
近年、ドバイは高級リゾートとして脚光を浴びているようだが、リゾートにはあまり興味が湧かない。旅行会社の主催する砂漠サファリなるアクティヴィティもあり、砂漠好きとしては食指が動きかけるが、やはり積極的に行こうという気にはなれなかった。結局、ドバイは市内を少しだけ散歩することにして、午後もずっと部屋でゴロゴロして、16時すぎやっと思い腰をあげた。しかし、外は殺人的「暑さ」というか「熱さ」。
ドバイのホテル。普通の部屋です。ふとんが乱れているのは、昼寝した後に撮ったから。 |
ホテルの部屋からの眺め。 |
ドバイ・クリーク(運河)。アブラとよばれる乗り合いの水上タクシーからの眺め。画面左側に見える屋根付の船がアブラ。 |
ホテルはデイラ地区にとっていたが、写真はバール・ドバイにあるバスタキア地区で、昔の街並みが再現されている。ゲストハウスもある。 |
バスタキア地区。 |
バスタキア地区。 |
バスタキア地区。 |
バスタキア地区からドバイ・クリーク越しに対岸を望む。 |
バスタキア地区。 |
バスタキア地区。 |
バスタキア地区近くの道。どうということのない光景ですが、自分の記憶の補助として。 |
ドバイ博物館。こんなふうにロウ人形で昔のドバイの様子が再現されており、なかなか興味深かったが、一番よかったのは涼しかったこと。 |
ドバイ博物館。 |
バール・ドバイにあるドバイ・オールド・スークの入口(だと思う)。 |
日がだいぶ傾いてきた。これはデイラ地区に戻る際にアブラから撮ったもの。 |
これもアブラから撮ったもの。 |
デイラ地区の夜。 |
一つ上の写真とほぼ同じ場所。 |
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