<目次>
 1.ベルベル人の村へ(このページ)
 2.クサール・ウレド・スルタン
 3.少しだけ砂漠をのぞく
 4.カルタゴとブラ・レジア
 5.チュニス
 6.なぜかアルベロベッロ(イタリア)
 

  ベルベル人の村へ

1995年春、新たな旅先としてチュニジアを選択した。

チュニジアのことは何も知らなかったが、1988年の秋から何となく意識していた。

88年の秋、ギリシャ、トルコを旅した帰り、アエロフロートが用意したトランジット・ホテルに泊った。

夕食時(だと思う)、レストランで何人かの日本人(確か自分を含めて5人)とテーブルをともにしたのだけれど(たぶん集められたのだと思う)、その中にチュニジアへ行って来たという50~60だろうか(これから行くということだったかもしれない)、落ち着いた感じの男性がいた。

その男性は、「どこへ行っていた(行くの)ですか?」の問いに対して、観光旅行者にありがちな高揚感がまったく感じられないトーンでぼそっと「チュニジアです」と答えるだけだった。服装も旅行者のそれではなかったので、何か仕事か? 海外雑貨の買い付けか? とか想像したのを覚えている。

その男性が何者だったかは知る由もないのだけれど、僕のチュニジアという国のイメージはその男性のちょっとミステリアスな雰囲気と結び付けられる形で残った。

そして、95年春の旅である。
イスラム圏の雰囲気が気に入っており、また、砂漠にも魅かれるものあったので、チュニジアという国を目的地として選択したのだと思う。

当時、『地球の歩き方』にチュニジア編はなく、『地球の歩き方 フロンティア』というガイドブックとしては中途半端な、写真が多めのチュニジア紹介本という感じのものしかなく、旅の下調べはあまりできず出たとこ勝負で行くしかなかった。(東京駅八重洲口側にあった鉄鋼ビルに観光文化資料室というものがあって、そこでロンリープラネットの一部をコピーしたことがあるが、それはこの旅のときだったと思う。ちなみに、観光文化資料室はその後「旅の図書館」と名を変え、場所も南青山に移転して存続している)

ところで、あまり情報がないのは不安だったので、あまりメジャーではない国を得意としている旅行会社(その名も日本特殊旅行)で航空券(チュニス・イン、ローマ・アウトのアエロフロート便)とチュニジア1泊目のホテルの手配をお願いして、それと引き換えにチュニジアの情報というか雰囲気というか、そういうものを得ることにした。

日本特殊旅行に期待した情報の一つは、チュニスとイタリアのシチリア島とを結ぶフェリーの運航日・運航時刻だった。(今だと、そのような情報はネットですぐに見つかると思うが、95年当時はそうした情報の入手は困難だった)。

さすが日本特殊旅行はフェリー情報を持っていて運航の曜日を教えてくれたが、それだと今回確保できた日程にうまくはまらない。ただ「もしかすると、運航日が変わっているかもしれません」ということで、チュニジアからシチリアへの船は現地で確認することにした。


<1日目(2月28日)>
前置きが長くなった。
1995年2月末、アエロフロート機でモスクワまで移動。同日にチュニジア行きには乗り継げないので、トランジットホテルで1泊。


<2日目(3月1日)>
6時20分、ホテルのおばさんが起こしに来た。

6時45分ころ部屋を出ると、5~6センチくらい雪が積もっていた。モスクワの春はまだ遠い感じ。

7時5分、空港へのバスが来た(定刻は7時、出発便に合わせて来る)。バスには先客がいたので、ほかにもトランジットホテルがあって、そっちを回って来た感じ。

7時30分、空港到着。このとき搭乗券をもらった。その後、搭乗券を見せて朝食券をもらってレストランへ。

9時10分、チュニス行きの搭乗待合室への案内ランプが点灯。

9時30分から40分にかけて搭乗(この辺、やたらメモが詳しい)。

9時50分、出発、12時15分(現地時間)、チュニス到着。

入国手続き、両替を済ませ、出迎えの車でホテルへ移動(13時15分ころ到着)。

部屋に荷物を置いて、すぐに外出。

まず、チュニジア情報が欲しいということで観光局をめざした。

やや迷いながら観光局にたどり着き、地図をもらおうとしたが「明日入る」といわれてしまう。

その後、フェリー会社に行くが事務所は閉まっていた(ラマダンと何か関係があったのか?=ラマダン中だった)。

フェリーの運航スケジュールの確認はあきらめて、チュニス駅へ行き、翌日のガベスまでの列車の乗車券を購入してホテルに戻った。


<3日目(3月2日)>
6時25分ころ、ホテルをチェックアウト。

駅まではそこそこ距離があるのでバスを利用した。

チュニジアは元フランスの植民地でフランス語がかなり通じるので、フランス語で駅に行くバスを教えてもらおうと、その辺の人に尋ねると(フランス語はしゃべれないので「ガール(駅)」に行きたいという感じを強調)、その人が駅に行く人で問題なくバスに乗車。

バスは車掌から乗車券を買うという昔ながらのシステムだったが、この車掌、何と運賃を取らなかった(不案内な外国人旅行者に対する厚意だったのか?)。

6時50分、駅に到着。

列車は、7時20分、10分遅れで出発。



チュニス駅のホームで列車を待つ。




円形闘技場があるエル・ジェムを出た直後に撮った写真か? いずれ来たいと思った(実際、その後2回訪れた)。




14時10分ころ、ガベス到着。チュニスの空はどんよりと曇っていたが、乾燥帯に入ったからだろうか、青空が広がっていた。



ガベスはチュニジア南部の都市で砂漠地帯の入口に位置するところだ。

チュニジア南部はサハラ砂漠の東端に位置しているが、「サハラ」というのが何とも魅力的で、そこにはベルベル人の興味深い村があった。『歩き方 フロンティア』にあった「岩山のふもとからてっぺんまで階段状に家が造られ、一村落が形成されているのだ。山=村、すごい所だ」という文に惹きつけられて、「まずはここだ」と考えたのがシェニニというところだった。そしてシェニニ観光の拠点となるタタウィンへの中継点となるのがガベスだった。

ガベスからはルアージュという乗り合いタクシーでタタウィンまで移動(15時出発、16時15分到着)。



タタウィンで泊ったホテル(到着した翌日の朝撮ったものか?)。




<4日目(3月3日)>
当時、公共交通機関でシェニニに行くことは難しかったのでホテルに頼んで車をアレンジしてもらった。

9時15分、シェニニに向けて出発。

9時40分、シェニニ到着。

ドライバーは「2時にここに来い」という。自分がシェニニを見物している間、別の客を運んで稼ぐのだろうかと思ったが、この場所で4時間半近くもすごすのはちょっと長すぎる。おおまけにまけて「1時ではだめか?」というと、「1時半」で手を打たれてしまった。

シェニニの歴史は古く11世紀に村が作られたらしい。
岩山に横穴を堀り、石を積み上げて壁を作り、木製の扉をつけた独特の住居と石造の倉庫(ゴルファという)の集合体であるクサールが並ぶ村である。交通の不便な所にある村だが、特異な構造の住居が山の斜面の全体に並ぶという珍しさのためか、当時からヨーロッパのツアー客が沢山訪れる観光地だった。

この特異な村はベルベル人がアラブ人からの防衛のために築いたものということだが、7世紀後半にケロアンにモスクが作られたように、チュニジアはかなり早くからアラブ化、イスラム化していたので、11世紀にアラブ人からの防衛のためシェニニのような構造を持った村が作られたのはどうしてなのか?という疑問が残る。

ということで、手もとにある「すばらしい世界の国々シリーズ『チュニジア』」という本にチュニジアの歴史がけっこう詳しく書かれてれているので、11世紀くらいの状況を記しておくことにする。

10世紀の初めにチュニジアを支配したファティマ朝(シーア派)が東へ勢力を拡大し、10世紀後半には首都をカイロに移転してチュニジアはベルベル人に任せた。そのベルベル人による王朝がジール朝(ジリ朝)という。そのジール朝がスンニ派に転向し、ファティマ朝の敵スンニ派のアッバース朝と結ぼうとしたので、ファティマ朝のカリフが怒って制裁のためアラブの遊牧民(ベドウィン族)の大軍を送り込んだ。この大軍はチュニジア全土を荒らしまわり「ヒラリアの破局」と呼ばれるらしい。シェニニのような村の建設は、このような状況と関係しているのだろう(より詳細なことを調べることができていないので「だろう」という表現にしています)。



『地球の歩き方 フロンティア』には写真が載せられておらず、文章から想像するしかなかったシェニニ。95年段階で、ここの住人はだいぶ減っていたようだが、手もとにある04~05年版の『歩き方』には「200人くらいが実際に生活している」とある。現在(2020年)はどうなっているのだろうか? ちなみにネット上にある近年の旅行記を見るとここの住人は増えている感じで、それは観光地化が進み収入が期待できるようになったからだろうか?




すぐ上の写真に写っているモスクのあたりから、村がある山の外側を眺める。サハラ砂漠の一部ということだが、この辺りは砂砂漠ではない。ただ、砂漠だけあって水気のない荒涼とした大地が広がっている。




石造りの建物はゴルファ(穀物、ナツメヤシの実などを貯蔵するための倉庫)だと思う。







山の上の方は廃墟と化していた。




たぶん住人のいなくなってしまった住居。




生活の痕跡(大きな甕)。




倉庫群を見上げる。




村人たち。子供たちは心なしかおめかししている感じだった。この後、知ったのだが、この日はラマダンが明けた日だったのだ(正月のようなもの)。




モスクの向こうの山に多くの住居(跡)やゴルファ(倉庫)が見える。青空に真っ白なモスクが映える。




手前の住居は山の上の方にある数少ない住人のいるもの。




長い時間をすごさなければならたかったからか、ここでは珍しくけっこう沢山写真を撮っていた。そのなかに倉庫が並んでいる感じがよくわかる写真もあった。高いところに倉庫が沢山あるのは、アラブ人の略奪から穀物を守ろうとしたということか?




山に横穴を掘って住居とし、その前に塀や倉庫か(?)、家畜小屋か(?)わからないが、建物を築いて住んでいる様子がわかる。




現役の住居の多くは山の麓に近いところに並んでいた。