カシュガルからウルムチまでタクシーを雇う

タシュクルガン出発からどれくらいたってからだろうか。進行方向に向かって右側に大きな雪山と湖(道路脇の案内板によりカラクリ湖という湖であることがわかった)が見えてきた。よく晴れているのだが、山の裾野の方はぼやけていて、雪をいただいた山の上の方が宙に浮いているように見える。まわりは、木一本はえていない乾燥しきった景色で、その中に見える雪山と湖は非常に神秘的だ。

16時頃、タシュクルガン出発後、二度目の検問。このあたりから急に高度を下げ始め、気温もだんだんと上がってきた。



バスから撮ったものだろうか?わかりにくいが雪をいただいた山が見える。




バスから撮ったものだろうか?




パミール高原。3000mを軽く超える高度らしいが、こんな平坦な道が続く。




検問で小休止。



カラクリ湖畔でバスが故障。




カラクリ湖と雪を戴いた山(コングール山=7649m)。今となっては前方の土が盛り上がったところの向こう側まで行って撮っておけばと悔やまれるが、いつバスが出発するかわからず、高地なので駆け足でバスに戻ることに不安もあったため無理をしなかったのだと思う。




同じく、カラクリ湖と雪をいただいた山(ムスタグ・アタ山=7546m)。



17時すぎ、大きなオアシスに入った。緑がずっと続くのでカシュガルかと思ったが、同乗の中国人に尋ねると、カシュガルまではあと1時間くらいだという。こんな所で休憩などとらず、さっさとカシュガルへ行けばいいのにと思うが、どうも運転手の腹が減ってきたらしい。バスは運転手の都合で走るのだから仕方ない。

運転手の食事が終わるとすぐに出発。18時40分、カシュガルの新しい大きなホテルの前に到着。しかし、僕は4年前に泊まったカシュガル賓館(新賓館)に行くことにした。少々懐かしさもあった。

ホテルに行く前に、飛行機の混み具合を確かめるため中国民航の営業所に寄ることにしたが、街の中心に出てびっくりした。4年前とはまったく別の街だ。改革開放の影響はこんな奥地の街にも及んでいるのか? 確かに団体客が山ほどやってくる観光地になってしまっているようで、4年前に来ておいてよかったというのが実感だった。

4年前にはボロ小屋といった方が当たっていた民航も、ホテル併設の鉄筋コンクリートの建物になっていた。中に入ると幸運にも客は少なく、すぐに窓口の人と話すことができたが、ウルムチ行きの便は1週間先の29日まで満席だと言うではないか。

9月5日には日本に着いていたいが、29日までカシュガルにいると、何かアクシデントが起きたら危ない。ウルムチ-北京の飛行機の席もおそらくとれないだろうから、汽車ということになるだろう。30日にウルムチを出発すると北京には4日後の9月3日に着けるが、もし寝台が取れなければ、これは大変な難行苦行となる。それに、ここは中国だ。何が起るかわからない。4年前にも鉄道事故があり、今回乗るのと同じ路線で北京到着が1日遅れたし、北京-成田便がすぐに買えるという保障もない。そして、これだと帰途にどこにも寄ることができない。今回の大目標であるフンジェラーブ越えは無事終了したから、それでもいいのだが、張掖の大涅槃仏や炳霊寺の大仏も見たい。2泊3日かかってもバスでウルムチに行った方がいい。明日、バスのチケットを買おう。そう決心して民航を後にした。

新賓館までは、長距離バスターミナルのあたりにたむろしていた軽トラックのタクシーで行った。街の主要な交通手段も馬車から自動車に変わったらしい。いつまでも、馬車が主要交通機関であって欲しいというのは旅行者の勝手な願いでしかない。

新賓館の前のポプラ並木の道は大幅に拡幅されていて、すっかり雰囲気が変わっていた。

新賓館に入ると、フロントは4年前とは別の建物に移されていたが、ホテル自体に大きな変化はないようだった。もう古くなってしまったからか、団体客の利用は多くはないらしく、バス・トイレ付きのツインルームが確保できた。

    
 24日。
午前中、ウルムチまでのバスのチケットの入手を試みるが、27日まで一杯だという。これならば29日の飛行機の方が早く着く。どうするか。

まず、国際旅行社へ行き、急いでいることを話した。すると、ウイグル人の服務員は、親切に応対してくれ、「民航にトライしてみましょう」と言うではないか。今までの中国旅行では「そんな切符とれるわけないでしょう」という顔をされるのが常だったから、「もしかして」と期待した。しかし、民航はちょうど昼休みに入っており、北京時間の午後5時にまた来るように言われ、それまでカシュガルの街を歩くことにした。

まずバザールを覗いたが、4年前の混沌とした雰囲気は失われ、すっかり整然としたものになっていた。バザールを出て、カシュガルの中心にあるモスク、エーティガール寺院に行くと、ちょうど祈りの時間となりアザーンが流れてきた。寺院の中庭の木陰のベンチで祈りにくる人々の様子を眺めた。祭りなどの時はこの中庭も礼拝の人で埋めつくされるのだろうが、今日は閑散としている。時間に遅れて来て、寺院の中に入らず、中庭でお祈りをする人もいる。

祈りの時間が終り、人々は三々五々帰って行く。僕もモスクを後にして、再び国際旅行社に向かった。

5時ちょうどに国際旅行社に着くと、さっきの彼が待っていて、すぐに民航に電話をかけてくれたが、やはり駄目だった。そこで、「車をチャーターしたい」と切り出した。日本円で6万位で何とかなるのではという計算もあった。

ウルムチまでの距離は約1500キロ。念の為にどの位時間がかかるかを聞いてみると、2日だという。バスより1日速い。問題の料金は3500元だという。高い。約9万円だ。カシュガルであと6日待って飛行機に乗るべきか? が、急がねばならない。「3000(約78000円)ではだめか」となんだかんだと理由をつけて値切った。「北京までの交通費もかかるし、日本までの航空券もまだ買っていない」と。むろん航空券はクレジットカードで買う気でいるのだが。彼は「運転手が何と言うか。運転手次第だ」と言う。どうやら観光タクシーやマイクロバスと違って交渉で料金を決めるらしい。観光タクシーは当時1キロ1元(車と運転手だけ)という相場があり、僕の提示した額は、車がカシュガルまで戻ってこなければいけないこと、泊まりがけなのでその分運転手も経費がかかることなどを考えて、これくらいならば何とか受けてもらえるだろうという、細かい計算をしたうえでの金額だったのだが。これでだめと言われたら、言い値で行くしかないだろう。何せ、こちらは圧倒的に弱い立場に立たされているのだ(今考えると2500元でもいけたかもと思うが・・・)。

料金交渉のためにタクシー会社の電話をしてくれるが、今度はタクシー会社と電話がつながらない。7時に来てくれと言われ、銀行へ行き大量に両替した。4000元近くの金を50元紙幣で受けとったので、貴重品袋はパンパンに膨れ上がった。少し緊張しながら国際旅行社に戻ったが、また少し待たされた。

待つこと1時間半、運転手が来た。そうすると、どうもこっそりという感じで車の所に連れていかれた。やはりこれは正式な国際旅行社ルートの車ではないらしい(確かめようはないが)。車は古いソビエト製のものらしく、料金は3000でいいとのこと。翌朝、10時半に新賓館に迎えに来てもらうということで話はつき、運転手は帰った。僕は国際旅行社の建物の中に戻り、3000元を支払った。そうしたら国際旅行社の用紙に受け取りを買いてくれ、それと彼の名刺をくれた。受け取りには、日付・雇主・車の色・ナンバーなどかなり詳しい内容が記されていた。ここまでやって翌日の朝になったら彼等はドロンということはないだろう。中国では外国人に対する罪は重いという話だし。



カシュガル賓館(新賓館)の客室。4年前はドミトリーに泊ったが今回はツインの部屋を選択というかドミトリーはなくなっていた(?)。レセプションで久しぶりで中国語をしゃべったが(「2人部屋はあいているか?」とか「いくらか?」とか「お金は今払わなければならないのか?」のレベルだが)、ちゃんと通じてうれしかったことを覚えている。




新賓館近くの道。




エーティガール寺院。



エーティガール寺院の前あたりか? 現在はまったく違う街になってしまったと思うので貼っておきます。




バザール。87年からはまったく変わっていた。




バザール。




すっかり変化したカシュガルだったが、ナイフ屋は相変わらず。




25日。
10時半、約束通り前日の運転手の運転する前日の車がやって来た。運転手は王さん。漢民族だ。

まずガソリンスタンドへ行った。道は週1回の大バザールへ向かう馬車・ロバ車で一杯だ。

スタンドに着いても王さんは給油はせず、スタンドの人と話をしているだけだった。30分くらいたって、馬車・ロバ車の洪水の中に出た。いよいよウルムチへ向けて出発かと思っていると、今度は老賓館というホテルの敷地内へ入って止まった。どうやら王さんの車はこのホテル所属の車らしく、一旦車を降りた彼は、ある建物のから、何か書類と予備のガソリンタンクを持って出てきた。しかし、またまた、すぐには出発せず、王さんは、知人と「これからウルムチだ」「ホー」「客はこの日本人一人か」「そうだ」「ホー」という感じの会話をしている。

30分くらいたってホテルを出て、今度こそ出発かと思っていると、車は学校のグラウンドみたいな所に入って行った。そこに隣接する王さんの自宅に寄ったのだ。長距離出張ということからか、上着や小さなバッグを持って出てきた。

そして12時ころ、やっとウルムチへ向かう道へ出た。

道の状態は比較的よく、90キロくらいで快走していく。太陽の光がまぶしい。

1時間半も走ると、まぶしさもあってか、眠くなってきた。目をあけているのがつらいが、眠るわけにはいかない。相当なスピードで走っているし、道もカシュガルから遠ざかるにつれて悪くなってきた。シートベルトはないし、車のタイヤも完全なボウズだ。眠っていては、ちょっとしたアクシデントがあっただけで、怪我をしてしまうかもしれない。

そう思っていると王さんが車を止めた。指で目をこすってみせる。彼も眠いらしい。我慢などせずに眠くなったらどんどん休んで下さい、という感じだ。

しかし、王さんが休んだのは、この時だけで、あとは食事とトイレと給油の時以外は走り続けた。

8時、アクスという町に着いた。カシュガルからウルムチまでのちょうど3分の1の地点である。2日でウルムチに着くためには、この日はクチャまで行かなければならないはずだ。案の定、短い夕食時間の後はまたひたすら走り続けた。

しかし、少し走ると突然、道が悪くなった。洪水で流された道の復旧工事が行われているようで、極端な徐行を余儀なくされる。徐行はかなり続いた。クチャに着けるのか? と思いながら、時計を何度も見る。途中から、また順調に走り出したが、クチャについたのは午前1時過ぎだった。

その夜はクチャ県幹部招待所というホテルに泊った。一泊56元のツインの部屋に僕1人で泊る。王さんは別の部屋で、王さんの部屋代は王さん持ちだ。

 「王さん、明日は何時出発?」と時計を指差すと、「ドアをたたくよ」というジェスチャー。一応、目覚ましを8時にセットしてベッドにもぐりこんだ。

 26日。
8時半ころベッドを出て身支度を整えていると、ドアがたたかれた。10時ころ出発ではと思っていたので予想外に早い。

9時出発。クチャの街中で、ウルムチまでどうしても同乗させてほしいというウイグル人男性2人をひろう。王さんはこれで小遣いかせぎでもするのだろう。

クチャを出てしばらくは緑の中を走っていたが、やがて何もない砂礫の世界になった。

昼前パンク。クチャから同乗した二人がタイヤ交換を手伝う。

3時ころコルラを通過。ここから、天山越えである。とはいっても低い峠を越えるだけだが。

天山越えの上り坂で、またパンクした。王さんは何か大きな声で、「何でこんなにパンクするんだ」という感じのことを言って嘆いているが、タイヤは磨り減ってツルツルという状態だから、パンクしやすいのも当然だ。

9時ころから1時間余り、道路沿いの修理工場でタイヤの修理をした。中国では、幹線道路の脇に一定の距離で、食堂や修理工場みたいなのが並んでいるところがあるのだ。

道の悪さ、峠越え、パンク、修理、と悪条件が重なって、この日も長いドライブとなった。ウルムチに着いたのは、日付が27日に変わった深夜1時近くだった。



王さん(運転手)の仮眠タイム。




どこからともなくやってきた子供たち。




上と同じ場所か?






道路沿いのスイカ売り。食べたいと思っていると王さんが車を止め購入。そして、ご馳走してくれた。もちろんぬるいのだけれど、乾燥しきった空気のなか食べるスイカは最高。




沿道の修理屋に寄る。写真に写っているセダンが僕が乗った車。