張掖の大涅槃仏と炳霊寺の石窟、そして北京の天壇

 27日。
朝、徒歩でウルムチ駅まで移動。
9時25分発の鄭州行の特快に乗りたい。めざす張掖着は翌日午前中11時半ころの到着予定。しかし、前夜ウルムチに着いたばかりなので、もちろん乗車券は買っていないし寝台券が取れる見込みもない。

どうするか?

当時は乗車券なしで列車に乗り込み、車内で購入という手が使えたので、その手を使うことにした。

改札が開始され列が進んで自分の番になり、改札の駅員が「トルファンか?」と聞いてきた。近距離ならば乗車券なしでもいいけど、という雰囲気だったので、「そうだ」とうなずいてホームに出た。

乗車後、車内の切符売り場で寝台にあきがあるかと尋ねたが「ない」と言われ、硬座のチケットを購入。しかし、まだ、寝台の確保はあきらめない。軟臥車の通路にある収納式の腰掛にすわって時間をすごした。ちょっと体調悪いんです、という表情をしながら。そして、列車長に寝台にあきがないかと尋ねるチャンスをうかがった(普通、何かのために寝台が1つか2つ確保されているらしいので-確保されているのは軟臥であるというのが通説だった)。我ながらセコイ作戦である。

作戦は成功。14時30分すぎ、軟臥がとれた。



 28日。
11時30分すぎ、張掖到着。駅前で地元の若者に声をかけられた。(あとから楊君という蘭州大学の学生であることがわかった)。

張掖に来た目的はただ一つ。この街に残る、マルコポーロも見た大涅槃仏を見ることである。

まずは腹ごしらえということで、楊君に勧められるまま、街中の食堂で牛肉麺を食べた。列車内でも、食堂車で夕食・朝食ともに肉絲麺(豚肉の細切り肉の入った麺)だったから3食連続で麺である。ちなみに昼食は食べていない(体調が悪いことになっていたので-笑)。

実は、この食事、楊君のおごりだった。この時は、まだ、彼が何者なのか知らなかったので、一応警戒すべきシチュエーションではある。

この後、楊君の案内で大仏寺へ。



大仏寺の参観券。これとは別に大仏殿内部の写真も載せてあるパンフレットをもらった。




大仏寺の山門。




大仏寺の大仏殿。大仏寺は11世紀末西夏の時代に創建された寺。この中に巨大な涅槃仏(35m)が安置されているのだが、残念ながら内部の撮影は禁止。




大仏寺殿前で記念撮影。




大仏殿の裏側。涅槃物とそれ以外仏像群以外にも見どころが色々とあったようだが、詳細を記したガイドブックがなかったのでかなり見落とした模様。



大仏寺の後は通称木塔寺という名の通り、木造の塔が残る寺を見物(万寿寺木塔)。



木塔寺。張掖中学校内にあって寺は中学校の物置代わりに使われていたらしく観光地としてはまったく整備されていなかった。






木塔寺。創建は6世紀末だが、清朝期に強風で倒壊し現在の塔は1926年に建てられたもの。



この後、張掖の街を少し歩いた。





張掖の街の中心部。道の奥に見えるのは鐘楼。今ではすっかり変わってしまったんだろうなあ。




屋台街みたいなところ。




街歩きの最後に撮った写真。何の写真だろうと思ってwebで近年旅した人たちの旅行記を見ると、大仏寺の塔だということがわかった。これは街中から撮ったものだが、あの時、なぜ寺の境内にいるときに撮らなかったのだろう?



街歩きの後、楊君は彼の家に招待してくれた。恐る恐るついていくと、素朴で優しそうな彼のお母さんに迎えられ、近所に住む彼の友人もやって来た。

今晩の列車で蘭州へ行くということを話すと、彼や彼の友人もこの日の夜の列車で蘭州に戻るということで、駅に行って僕の分の切符も買ってきてくれた。自分で並ぶ手間が省けただけでなく、中国人の彼が購入してくれるということで外国人料金でもない(当時はまだ外国人料金というのものがあったのだ)。

楊君の家で夕食もご馳走になり、20時半すぎの列車で蘭州に向かった。細かいメモがなく記憶も定かではないが、ちょうど夏休みが終わり、学生が故郷から大学のある街に戻る時期だったらしく、列車ではフフホトの大学に戻るという学生たちとも同席となり、中国人の大学生たちは酒を飲んで大盛り上がりだった。



 29日。
昼の12時少し前、蘭州到着。
楊君の案内で蘭州大学へ。彼が教えてもらっている先生を紹介される。先生としても、いきなり外国人を紹介されても困るという感じかと思いきや、そういうことはまったくなく、そのあと、食事だけでなく(もしかしてご馳走になってしまったか? メモがないのでわからないが)、なんと、蘭州でのホテル確保、次の移動のチケット確保につきあってくれた。



 30日。
前日、最大の関門と思われた北京までの航空券も確保できたので、残されたやるべきことは炳霊寺の石窟見物だけでる(炳霊時は黄河北岸に穿たれた石窟寺院で、4世紀から作られ始め、唐代に最盛期を迎え、明代まで作られ続けたらしい)。

ちょっと疲れ気味なので、午前中はホテルでのんびりして、午後2時、前日も世話になった旅行会社に炳霊寺ツアーについて問い合わせに行った。が、16時にもう一度来いとのこと。なかなか事が円滑に進まない。

16時に再度行ってみると、ツアーは催行されないとのこと。これはきつい。個人で車などを手配しないとならないし(当時は公共交通でのアクセスは難しかったと思う)、途中からは船に乗らねばならないが、そうれはどうなるのだ?

う~むと悩みながら善後策を考えていると16時半ころ、ツアーが実施されることに(なぜ実施されることになったかはメモがないので不明-香港人グループがツアーに申し込んだため参加者数が確保されたからと思われる)。

結局、この日はツアーの申し込みを行っただけで終了。なんという無駄な時間の過ごし方をしているのかと思われるかもしれないけれど、当時の中国自由旅行は多かれ少なかれだいたいこんな感じだった。



 31日。
7時10分ころ、ツアーの出発地である蘭州飯店へ(ピックアップサービスなどはあるはずもなく、自分の泊っているホテルから路線バスで移動)。

集合は7時半ということになっていたが、出発したのは8時。
参加者は香港人4人、中国人(だと思う)1人、ドイツ人1人、そして僕。(中国人ガイド付き)

10時ころ劉家峡ダムの船着場に到着。

11時出航。途中給油のための大停船があり、15時、やっと炳霊寺到着。



船が出た場所あたり。水は透明。




黄土色の川を進んでいった。








炳霊寺が見えてきました。




炳霊寺石窟参観券。




このページを作成するにあたって、WEBで色んな人たちの旅行記を見たが、「ここまでやるか」というくらい綺麗に修復されてしまった模様。



1時間の滞在の後、16時炳霊寺を後にする。

18時20分ころ船着場到着。

20時すぎ蘭州市内到着。



 9月1日。
北京行の飛行機は2日発なので、蘭州でもう1日ある。

ということで、午前中は黄河を渡って白塔山へ行き、蘭州の街並みを眺め、午後は、ホテルのレストラン(とはいっても安いホテルでレストランもかなり経済的)で知り合った陳さんという男性と甘粛省博物館を見学。



橋の向こう側が白塔山。






果物屋と街行く人々。




白塔山から望む蘭州の街。写っている川は黄河。




中央にモスクが見える。




白塔寺。




甘粛省博物館の参観券。券面の馬の像はこの博物館一番の見ものともいわれる後漢代に作られた銅製の像。この像は武威市の雷祖廟雷台漢墓から発掘されたもので、「馬踏飛燕」、つまり飛ぶツバメを踏んで空を駆けていく馬(天馬)を題材としており、西域の「汗血馬」の伝説を想起させるものとして有名。



以上、なんともゆるゆるな1日終了。



 2日。
蘭州を去る日となった。しかし、飛行機の出発は18時半なので、まだまだ、時間はたっぷりある。でも、やることは何もない。

11時半にチェックアウト。

ホテルのレストランに行くと、また陳さんと一緒になり、食事をおごられてしまう。

振り返ると、この旅は、本当に中国の人々との交流が多かった。

14時、ホテルを後にして、空港への連絡バスが出る中国民航へ。

18時半の北京行きの便に合わせて運行されていたバスは15時30分発。まだ、時間がたっぷりあるが、1時間やそこらは長いとは感じなくなっていた。

そうこうしているうちに楊君がやってきた。空港まで見送りに行ってくれるというではないか。航空券の購入に付き合ってくれたので、どの日のどの便に乗るのかをわかっていたのだ。

楊君とは、どのようにコミュニケーションをとったのかは忘れてしまったが、おそらく英語と漢字での筆談だったと思う。彼には日本留学の希望があって、僕に力を貸してもらいたいらしかった。当時は、中国人の日本留学には相当なハードルがあったので(日本の受け入れ先の問題も含めて)。

日本での身元保証人とかにはなれないが、帰国後、何か方法はないか、一応、中国人留学生を受け入れている機関みたいなところに問い合わせてみたが、かなり難しいということを言われ、楊君にはその旨を記した手紙と、慰めにはならないかもしれないが日本の音楽のカセットテープ(自分で録音してものではなく販売されているもの)を送ったことを覚えている。

彼があそこまで親切にしてくれたのは、何とか日本留学の手がかりをという思いもあったのだろうと思う。



 3日。
帰国予定日である。しかし、帰りの航空券はまだ買っていない。
ということで、朝、まずJALのオフィスへ行った。
国際線のチケットを当日購入などということがあり得るのか? 
これについては、北京-成田便は連日満席という感じではなく、当日購入で問題なく搭乗できた。もちろん、当日に格安チケットが買えるはずもなく、ノーマル運賃なのだが、当時、中国元建てのチケット料金はかなり低額に設定されており、ものすごく高いという感じではなかった。

無事、当日16時発の成田行きチケットを購入し、その後、天壇を観光してから空港に向かった。



天壇の中心的な建造物である祈年殿。




広い!



  終わり