フンジェラーブ峠越え

  21日。
6時頃起床。7時半少し前にホテルを出て、バスステーション(とはいってもおんぼろの堀建て小屋のような切符売場兼小さな待合室)に行って、パキスタン側のボーダーの町スストまでのチケットを買った。

8時、バスは予定通り出発。フンザ川に沿って、かなりの断崖の上なども通りながら、段々と高度を稼いでいった。あいにくの曇天で山々の姿は今一つはっきりみえない。日程に余裕があれば、世界一の長寿郷の一つとして知られるフンザの村に2~3日滞在して山でも眺めていきたいが、何せ2週間で日本に帰ろうというタイとな日程だ。まっすぐスストに行くしかない。



途中何回か小休止した(乗り降りもあったと思う)。




フンザ川に沿って進んでいく。




小休止の際に出会った子供たち。やはり彼らから撮ってくれとお願いされた。当然写真はあげることができないのだけれど、撮られるだけで満足という感じ。




とある村での小休止。写真に写っているのが僕の乗ったススト行きのバス。



2時頃、無事スストに到着。国境を越える旅行者のための町で、旅行者用の施設しかない、まさしくボーダーの町だった。

バスを降りると、中国側からやってきた日本人に会った。カシュガルの状況を聞くと、ウルムチへの飛行機のチケットは1週間先のでなければ買えないという。即日買えた4年前とはだいぶ状況が違うようだ。ウルムチから先の交通機関のチケット入手で相当てこずるのではとは考えていたが、カシュガルでいきなりそういう状況だとは。9月5日には絶対日本に着いていないといけないのに、まずいことになってきた。

ホテルを確保して少し遅い昼食をとった後、すぐにカメラを持って外へ出た。雲が流れ去って、山が綺麗に見える。小走りに走りながら、数枚写真を撮ったが、なんとなく体がだるい。かなりの高地で空気が薄いのだろうか? ホテルに戻って主人に高度を聞くと、「3100メートルくらいだ」と言うから、それほどでもない。しかし、用心するにこしたことはないので、部屋でのんびりすることにした。



ススト。国境越えの人たちのため作られたボーダーの街。その後、中パ国境越えの状況も変わったようで、この街がどうなったもわからず。



ススト。この道を進んでいくとフンジェラーブ峠。




スストの街からちょっとだけギルギット方向に戻ったところからの眺め。なんとい名の山かはわからないがとても気に入っていった眺め。




中国側からやってきたバス。なぜかパキスタンから中国へ行く場合、これには乗れなかった(つまりカラの状態で中国側へ戻ったということ)。




スストのホテル。パキスタン・ルピーがかなり残っていたのでピラリ1番(と思われる)ホテルに部屋をとった。しかし、窓は完全には閉まらず隙間風が。とはいえ、明日はフンジェラーブ峠越えだと思うと満足感が沸き上がって来たのを覚えている。



7時ころ夕食をとるために部屋を出ると、ホテルの主人が「バスのチケットは買ったか」と言う。「まだだ」と言うと、バス会社に電話をして開いていることを確認してくれた。明日の朝になってからでも何とかなるだろうと思っていたが、ホテルの主人が言うからには、前日に買っておいたほうがよいのだろう。急いで、バス会社まで行き、中国側のピラリまでのチケットを買った。300ルピー(約2100円)。初日に両替したルピーは使い切れそうにない。


 22日。
フンジェラーブ峠越えの朝が来た。ところが朝食をとりに部屋を出ると主人が、「今日は中国に行けないかもしれない」と言う。「ストライキ」で「いつ終わるかわからない」らしい。ホテルのすぐ横にある出国手続きの事務所もに閉まっている。

これは困った。ここで、あまり時間がかかってしまうと、中国内での移動の困難さも考え合わせると、仕事に間に合わない可能性が出てくる。何としても今日中に国境を越えたい。

こんなこともあろうかと、かなり多めに金は持って来ているので、ホテルの主人に車をチャーターできないかどうか尋ねてみる。しかし、答えは絶望的なものだった。公的に認められた輸送機関でなければ国境越えは駄目とのことだ。団体客などがあれば、それに便乗することも可能なようだが、あいにくこの日は団体のツアー客はいなかった。

僕は1日2日待つ覚悟を決めた。3日たってもストが終わらなければ、パキスタン旅行に切り替えて、イスラマバードかカラチから日本へ帰ろう。フンジェラーブ越えは次の機会に譲ろう。そう思って、部屋のベッドで体を伸ばした。もう焦っても仕方ない。

12時半頃、昼食をとりに食堂に行くと、主人が「今中国に行く車があるから行けるかもしれない」と言う。あわててホテルを出て出国手続所に行くと、何だかわけがわからないが、ギルギットからスストまで一緒だった西洋人達がパスポートに出国のスタンプを押してもらっている。ここで乗り遅れてはならぬとかなりあせってホテルに戻り、主人へのお礼もそこそこにチェックアウトした。車の定員があるので、一人違いで出国できない可能性もありそうだったが、何とか出国スタンプをもらうことができた。

車はマイクロバスで新疆ナンバー、中国の車だ。何かの用事でパキスタンに来て、空で帰るのももったいないから、乗せて行ってやろうかという感じだ。

しかし、それにしても不思議なのは、パキスタンから中国側に行くには、基本的にはパキスタンのバスでなければいけないということで、中国のカシュガルからのバスは、スストまで来ているのに、それには乗ることができず、そのバスは空で中国に戻ってしまうのだ(あくまで91年の状況です)。昨日みかけた二台の中国のバスは、そういえばいつの間にかいなくなっていた。

さて、客は8人(西洋人5名、パキスタン人2名、そして僕)しかおらず、無事出国できることになった。パキスタンのバス会社の建物は鍵がかっており、チケットの払い戻しはできず。おそらくバス会社に払った300を捨てても今日出発したいという人間は8人だけということなのだろう。料金は400ルピー(2800円強)。

マイクロバスには、昨夜、僕の横で特別に作った中華料理を食べていた数名の中国人達も乗ってきた。彼らは公用らしく、車も彼らの乗ってきた車らしかった。

1時に出発したが、すぐに停車して、「後ろからきたランドクルーザーに2人移れ」といわれる。結局、僕ともう1人西洋人が移ることになった。なぜ、移されたのだろうと思っていると、何と車はUターンしてスストに戻るではないか。出国手続きはちゃんと済んでいるし、金の交渉もしてあるから大丈夫なはずなのだが。

結局、スストにいた中国人1人を乗せてて、中国に向けて走り出した。 道はところどころ崖崩れの跡があり荒れているものの、どうしようもないというほどではなかった。それよりも、確実に高度を上げているはずで、高山病の症状が出るのではと緊張してきた。スストの高さには一晩で慣れたようだが、何せこれから行く峠は5000メートル近いのだ。普通に呼吸するだけでも平地とは大分違うのではと思っていた。

3時、かなりあっけなく、あこがれのフンジェラーブ峠に着いた。峠は広々としており、高さを感じさせない。ここで先を走っていたマイクロバスとともに車は停車し、しばしの休憩時間となった。峠を素通りされたらどうしようと思っていたが、幸い止まってくれた(一応国境を見張る兵士がいて素通りはできないようだが)。少し強めの風の吹く中、国境の標柱の前で記念撮影をして、付近を少し歩き回った。深呼吸をしながらゆっくり歩くが息苦しさはなく、空気の薄さも感じられない。スストとは1800メートルくらいの高度差があるのだが、僕は高所順応しやすい体質なのだろうか?

ここでバスの代金の集金があったが、手持ちのルピーが200しかないので、米ドルキャッシュを混ぜて払う。



フンジェラーブ峠。現在は立派なゲートが設けられているようだが、当時は写真のような柱しかなかった。これはパキスタン側から撮ったもの。




柱の中国側。




道のもう一方の端にあった柱。




峠の開通式典を記念して建てられたものだと思う。




一応、峠の周囲をぐるっとカメラに収めたのだと思う。



峠からの下りの道は非常によく整備されていた。車の性能のせいもあるが、道のよさも手伝って1時間弱で中国側の入国審査所のあるピラリに着いた。

無事入国手続きも済ませ、両替をして(こんな辺境でもちゃんと両替ができるのはうれしい)中国元も手に入れることができた。あとは役人を峠に近い駐留場所に送りに行ったランドクルーザーが戻ってくるのを待つばかりだ。できることならば、快適な車でなるべく早くカシュガルに着きたいということで、150元で便乗させもらうことにしていたのだ。しかし、車が戻ってくると許可が出ないから乗せられないという。

仕方なく、ここからは、中国製のおんぼろバスで行くことにするが、ここで問題が起こった。バス会社の人間が「今日は客が少ないのでカシュガルまで1人100元(約2600円、通常は40元=約1040円)にする」と言いだしたのだ。僕はいくらでもいいから、とにかく移動したいという気持ちだったが、他の客、とくにパキスタン人が「そんな馬鹿な」と怒り出した。たしかに、客が少ないからというのは彼らの口実で、余計にとった金をポケットに入れようというのは見え見えだったのだ。しかし、バス会社(運転手と車掌)も強硬で、「それならば今日はバスを出せない」という態度をとる。

ピラリを吹く風は冷たく、この冷たい風の中、税関の脇にあるテント張りの休憩所で一夜を明かすのか、と半ば覚悟を決めかかっていた。

しかし、最終的にはバス会社の人間が折れて、通常料金でバスを動かすということになった。まあ、よく考えると、このバスはカシュガルとパキスタンを往復しているバスで、これがカシュガルにもどらなければ、向こうで待っている客が困るということになる。だから、彼らもバスを出さないわけにはいかないのだろう。同行のパキスタン人達は、そこまで読んで強硬に「40」を主張したのだろうか。



ピラリ。クンジェラーブ峠方向を望む。




なんていうことのない写真だけれど2度と行くことがない場所だと思うので載せておきます。




山々が低く見える。




ピラリ。この道をずっと行くとタシュクルガン・カシュガル。左側に写っている人たちが同行の西洋人たち。なんてことはない風景だが、僕にとってはとても思い出深い1枚。



北京時間の21時40分頃出発。しかし、パキスタン時間の時40分でまだ明るい。今日の宿泊地タシュクルガンまでは何時間位かかるのだろうか。

透き間風が入りほうだいのバスは寒く、体を丸くして寒さをこらえる。11時を過ぎると、日が暮れて益々寒くなってきた。昼食抜きでスストを出発して、その後ピラリで日本から持って行ったカロリーメイトを少しかじっただけなので、腹もかなり減ってきた。

23時40分頃、遠くにまばらに明かりが見えてきた。たぶんタシュクルガンだろう。いや、そうあって欲しい。するとバスは、方向を変えて街の中らしき所に入っていき、割と大きめの建物の前庭のような場所に停車した。ホテルだった。途中休憩ではなく、ここで泊まりだ。バスの運転手に翌日の出発時間(9時半)を確認して、一人6元(約160円)の5人部屋にチェックインした。同室はスストから一緒のパキスタン人と途中でバスの乗ってきたウイグル人。彼らはバザールに食事に行ったが、僕は一人部屋に残り、カロリーメイトをかじって床についた。明日は4年ぶりのカシュガルだ。


 23日。
朝、相当冷え込む中、別棟にあるトイレに小走りで行った。しかし、よく考えると、ここも富士山の山頂に近い高度のはずなのだが、息苦しさはほとんどない。高所にはほぼ順応したらしい。

9時少し前、まだ薄暗い中、荷物を持って別棟のロビーに行った。ロビーには西洋人が2人。「バスは何時だ」と尋ねるので、運転手は「9時半だ」と言っていたと答えると、彼らは「9時だ」と聞いたという。彼らはスストからのメンバーではないので、カシュガルからの往復か、パキスタン出国後、タシュクルガンに泊ってカシュガルに向かう旅行者で、その時の運転手かホテルの服務員が9時と言ったのだろう。運転手の気持ち次第で出発時間は微妙に変わるらしいが、9時半になっても運転手は現われず、結局、10時半の出発となった。

外は寒くバスの中も冷蔵庫のようだ。陽が高くなり低地に下って行けばだんだん暖かくなるだろう。それまでの辛抱だと思った。



タシュクルガンのホテル前の通り。