1.イランのビザ待ち5日間(トルコ)(このページ)
2.イスファハン再訪(テヘラン-イスファハン)
3.炎熱地獄のなかのバス3連泊(イスファハン-クエッタ)
4.ピンディへの移動を開始(予定)
5.ヘロヘロの状態でギルギットへ移動
イランのビザ待ち5日間(トルコ) 上海~イスタンブール間陸路の旅の残された区間は、イスファハン(イラン)~ギルギット(パキスタン)となった。きつそうな区間だが、フンジェラーブ峠越えよりは楽だろう。そう思いながら計画を練った。ただ、やはり問題はイランのビザである。前年と同じ旅行社を使って、ビザを取得するという手もあるのだが、今回は何としてもすべて自力で進めたい。大統領が交代したのでビザ発給の状況も変わったのではと思い、イラン大使館に電話をかけると、団体ツアーで行く事を勧められた。 ガイドブックによると、イスタンブールではパキスタンのビザを持っているとトランジットビザ(通過ビザ)ならば問題なく取得できるらしい。問題はビザ発給までの日数だが、2~3日で何とか発給されるとも書いてある。大好きなイスタンブールにも寄られるということで、イスタンブール経由でイランに行くことに決めた。旅行期間は24日間、最近の旅では異例の長さである。これぐらいあれば、ビザ取得に手間取っても全行程の踏破は可能だろう。 1997年8月13日午後1時半頃、マニラ・バンコク経由、カラチ乗り継ぎ、アブダビ・アンマン・ダマスカス経由、総時間27時間をかけて、イスタンブールに到着した。夏だというのに肌寒く、雨も降っている。この季節にこの気候は珍しい。東ヨーッロパの異常気象がトルコにまで及んでいるらしい。 久し振りで旧市街のホテルに部屋をとったが、ガイドブックに載っている地図を見ると、イラン領事館はすぐそばだ。わかりやすいところに領事館があってくれてよかった。 <8月14日> この日も小雨が降り続いていたが、イランのビザ取得申請を行うべく8時半ころから行動開始。 まず、ビザ発給の便宜をはかって欲しい旨が記された添え状をもらうため、新市街のタキシムにある日本領事館へ向かった。旧市街から、ガラタ橋を渡り、チュネル(世界一短い地下鉄)に乗り、さらにトラム(路面電車)に乗りタキシムに着くと、9時を回っていた。もう領事館の業務を開始しているだろう。ちょうどよい時間だと思って、日本領事館へ行くと工事中で、領事館らしきものがないではないか。移転の張り紙などもなく、前途多難の様相だ。かつて日本領事館のあった通りをずっと歩いてみても、それらしき建物もなく、どこかまったく違う場所に移転したらしい。仕方がないので、すぐ近くのドイツ領事館の警察官に、日本領事館はどこに移ったのか尋ねた。英語は通じなく、「この通りにあるはず」というような感じで、いましがた僕が歩いてきた通りを指さす。仕方がないので、今度は、ドイツ領事館の門の前の受付みたいなボックスにいる、領事館に務めるトルコ人のおじさんに尋ねた。中には英語を少し解す人もいて、日本領事館の移転先を調べてもらった。移転先は「スイスホテルの中」。まったく知らない地名がでてきたらどうしようかと思ったが、スイスホテルならば泊まったこともあり、よく知っている。おじさんたちにお礼を言って、タクシーでスイスホテルへ向かった。 日本領事館はスイスホテルの別棟にあった。2階ワンフロアー全部が日本領事館らしく、エレベーターをおりると、目の前に危険物所持の有無を調べるエックス線のゲートがあった。添え状は15分ほどで発行され、大急ぎタクシーで旧市街に向かった。イラン領事館場所は知っているが住所はわからないので、ガラタ橋を渡ったところでタクシーを降り、急ぎ足で領事館に向かった。10時50分ころ着いたが、11時を過ぎると、入り口の扉が閉められた。どうやら、この手の申請の受付は、9時~11時らしい。ぎりぎりだった。 ビザ受付の窓口には人が横に広がって何人も張り付いおり、彼らとの戦いに勝たなければならない。ビザ申請もなかなかほねが折れる。日本領事館の添え状を、窓口のガラスに押しつけてアピールした甲斐があって、すぐに申請用紙がもらえた。必要事項を記入して係官に渡すと、ビザの有効期間は5日で、「5日後に来い」という。 「有効期間、5日しかないんですか。」 「何日イランにいたいのか。」 「一週間くらい。」 「それならばトランジットビザでは駄目で、観光ビザになる。」 「観光ビザもとれるのですか?」 「もちろん。」 予想外の展開だ。それならば「観光ビザを」というと、「10日後に来い」と言う。「10日後?」それは冗談がきつい。トランジットビザの5日後というのも、非常に痛いが10日待つよりはよい。ただ心配なのは、事前に得ていた情報によればトランジットビザは陸路入国、陸路出国が原則らしいということだ。発行に5日もかかるのならば、テヘランへ飛行機で飛ぶしかないのだが、それがだめなら10日待って観光ビザを取得するしかない。 「飛行機でテヘランから入国してもオーケーか?」と尋ねると、係官は「大丈夫だ」と言って、申請用紙に「バイ・エアー」とメモした。 5日でイランを通過するのは少々きついが、いざとなったらビザを延長すればいい。「ところで5日後は何日?」と聞くと、カレンダーを見て、「20日だ」という。これでは6日後だが、日曜日はカウントしないようだった。 (2018年4月にこの旅行記を書き直しているのだけれど、今ならばネット上にビザ情報がたくさんあり、もっとまごつかずにビザを取得できただろう。年月を感じてしまう。) ビザが2日くらいで発給されるならば、イスタンーブールからエルズルムまで飛行機で飛び、そこからイランへ陸路で行こうと思っていたが、5日もかかるならば、飛行機でテヘランまで飛ぶしかない。さっそく、21日のイスタンブール~テヘランの航空券を購入。357ドル(約45000円)。かなり痛い出費だ。 さて、本日やるべきことはすべて終了。ということで、午後は、イスタンブールまでの機中で一緒になった高校の世界史の先生とイスタンブール見物。
さて、5日間をどうつぶすか。いろいろと、コースを考えてみるが、どうも中途半端な日数だ。結局、「カッパドキアで奇岩を眺めて来よう」ということに決め、15日朝、アジア側にあるハイダルパシャ駅から、アンカラ行きの列車に乗った。 アンカラで1泊してバスでカッパドキア地方の中心都市ネヴシェヒルへ移動。当時、カッパドキア観光の拠点はギョレメなどに変わりつつあり、そんなこともあってか、1988年に泊ったホテルは廃業していた。
<8月18日> ネヴシェヒルからセルジュク朝の都だったコンヤへ移動。
<8月19日> 朝、コンヤからの夜行列車で、イスタンブールのアジア側のハイダルパシャ駅に着いた。先日とはうってかわって空はカラッと晴れ上がっていた。 ビザ発給は「20日」と言われているが、「5日後」に発給という情報もあり、「今日」は申請から5日後だ。5日前と同じホテルにチェックインし、イラン領事館に行ってみると「ビザの用意はできている」と言う。ビザ発行の手数料は、875万トルコリラ、約50ドル(約6000円)で、近くの銀行で振り込んで来るようにと、口座番号のメモを渡された。そして、係官にパスポートを渡して銀行に走った。 振込みは非常に簡単で、領事館でもらったメモを銀行の窓口で見せるとすぐに手続きをしてもらえた。振込みの受け取りの用紙をもって、イラン領事館に戻り、それを係官に渡すと、ほどなく奥の方から、ビザのスタンプが押されたパスポートを持ってきた。有効期間はやはり「5日」と記されていた。 出発は「明日の夜」。あと1日半時間をつぶさなければならない。これから先のハードな旅のことを考え遠出はさけて、イスタンブール市内をブラブラして時間をつぶすことにした。まず、久し振りでアヤソフィア寺院に行ったが、夏のイスタンブールはラッシュ状態で、入口には長い行列。
午後は、人込みを避けて金角湾の一番奥にあるエユップ・スルタンモスクの裏山の中腹にあるチャイハネに行き、モスクのミナレットが立ち並ぶイスタンブールをしばらくぼんやりと眺めた。しかし、夏の日差しを取り戻したイスタンブールは暑く、時間つぶしもけっこう疲れる。
夜は、『ロンリープラネット』というガイドブックの中東版のイランの部分を改めて読み直し始めた。日本語の個人旅行用のイランのガイドブックがないので、これを使うしかないのだ。中東版は分厚くて重いので、出発間際に、イランの部分だけ切り取って持って行ったのだが、肝腎のイラン-パキスタン国境越えの部分がないではないか。『地球の歩き方』パキスタン編にも、パキスタンからイランへのルートは載っているが、その逆がない。まあ、あまり違いはないのだろうが、イラン側の国境の情報の少なさは困る。しかし、いまさらどうしようもない。行くしかないのだ。 テヘラン-イスファハンが8時間位、イスファハン-ヤーズドが6時間位、ヤーズド-ケルマンが8時間位、そしてケルマンから国境近くのザヘダンまでが8時間位。ビザの有効期間は5日。移動するだけならば十分だろう。問題はどの時間帯にバスの便があるのかだが、心配しても仕方がない。出たとこ勝負でいこう。 <8月20日> テヘランへの出発の日だ。しかし、出発は夜の8時すぎだから、この日もまた時間つぶしだ。 エミノニュからアジア側のユスキュダラへ渡り散歩。ヨーロッパ側に戻り、グランドバザールを散歩。そして、昼過ぎ、トプカプ宮殿へ。 この日は水曜日で、オスマントルコの軍楽隊の演奏が宮殿の敷地内でおこなわれる週に1度の日である(現在、これが行われているかどうかはわかりません)。ここでも入口は長蛇の列。中に入っても観光はせず、軍楽隊の演奏が始まる1時を待つが、演奏が行われる気配がまったく感じられない。11時を過ぎてからようやく、スピーカーの準備などが始まった。しかし、軍楽隊の楽器はマイクなどは必要のない大きな音を出すはずなので、なんのためのマイクなのだろう? 何か始まりそうな気配を感じて、大勢の観光客が集まってきた。しばらくたつと、トプカプ宮殿の入口の方から、赤や緑のオスマントルコの軍服姿の行列が例の威勢のいい音楽にのって行進してきた。その行列のまわりにはさらに続々と観光客が押し寄せて来た。大勢の観光客を引き連れた行列は、セットされたスピーカーの前に整列して演奏をはじめた。 ここでマイクが何に使われるのかわかった。そういえば、この軍楽隊は楽器の演奏にあわせて歌も歌うのだった。その声を拾うためのマイクなのだ。数曲の演奏の後、さすが親日国トルコ、「さくらさくら」を日本語で歌い始めた。哀感を含んだ曲調はトルコ音楽にもありそうなものだが、オリジナルの「さくらさくら」とは違い、太鼓などでリズムの強弱がつけられ、ややトルコ軍楽仕立てになっている。日本人観光客へのサービスなのだろうが、多くの西洋人観光客は、これもトルコの軍楽と信じて疑わないだろう。 さて、もう何もすることがなくなったので、16時すぎ飛行場へ行った。飛行機は20時45分発だから相当時間があるので、ひたすら時間の経過するのを待つ。
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