イスファハン再訪(テヘラン-イスファハン) <8月21日>飛行機はほぼ定刻で出発。テヘラン到着はトルコ時間の深夜0時頃だが、トルコとイランの時差は1時間半あり、イラン時間だと午前1時半だ。96年もそうだったが、イランは外国人の到着が深夜になるようにコントロールしているのではないかと思いたくなるような、フライトスケジュールである。トルコ航空にしてみても、1日あれば往復できる距離にあるテヘランに、飛行機を一晩とめておくということは、あまりしたくないのではないか。午前中にイスタンブールを出発して現地の昼過ぎにテヘランに到着、そして、テヘラン午後出発で夕方イスタンブール到着というフライトスケジュールをとらないのは、イランがそのようなスケジュールを受け入れていないから、としか考えられないのだ。とにかく、深夜到着というのは、旅行者にとって最悪のスケジュールだ。 イランは旅行者に対するホスピタリティーあふれる国である。入国審査を受けた後、税関を通る前に、必要な書類をもらおうと思い空港内の職員に声をかけたところ、「まず水でも飲め」とコップ一杯の水を勧められてしまった、「冷たいぞ」と。まずいことになった。いきなり現地の生水を飲まなければならないとは。昨年の経験からいうと、イランの飲み水は大丈夫なのだが。 飲まなければ書類を出してくれないような感じなので、エイヤッと飲み干した。そして何とか書類をもらったが、こうゆうところのホスピタリティーは、どうもありがた迷惑である。しかし、このおじさん、やはりすごく親切で、その後、税関の前の長い列に並んでいる僕のところへやって来て、「お前はこの列に並ぶ必要はない、あっちへ行けばよい」というように、指示してくれた。どうやら、申告するものが何もないような旅行者は、その列とは別の係官のところへ行けばよいようなのだが、かなり遠くからわざわざ歩み寄ってきて教えてくれるのだ。 2時頃には税関を通り到着ロビーに出たが、深夜というのに出迎え客でごった返していた。イランでは出迎えは相当盛んらしく、到着ロビーには入国審査・税関を通って出口に向かう人たち写すテレビモニターまでおいてある。出迎え客はそのモニターをみて、「あっもうすぐ出て来る」とかいって、出口のところへ向かうのだろう。 到着ロビーでは、まず席を一つ確保した。ホテルはもちろん予約していないし、この日のうちにイスファハンまで行くつもりだったから、空港で夜明けをまち、それからバスターミナルへ向かうつもりだ。 しつこく闇両替を求めるタクシーの運チャンを無視して、うつらうつらしようとしたら、今度はアフガニスタンからの難民と称する青年に声をかけられた。目をつぶって休息を取るのをあきらめて、この青年と話をすることにする。家はマシェッドというところにあって、今しがたオランダに行く兄の見送りを済ませたところだという。 難民というと、着の身着のまま逃げてきて、ぎりぎりの生活をしているというイメージが強いが、彼を見る限り豊かな生活をしているようだ。彼は英語があまり得意ではなく(自分のことは棚にあげるが)、あまりこみいった話はできなかったが、どうやら日本に来たいらしい。日本は外国人の労働者の入国を厳しく制限しているので、日本人とコネを作ってなんとかビザを入手したいらしいのだ。彼には悪いが、身元引受人になる気はないので、彼の話が理解できないふりをしておく。 6時近くなって空が白んで来た。しつこく寄って来るタクシーの運転手兼闇両替屋と、バスターミナルまでいくらで行くかの交渉を開始する。最初5万リアル(約2100円)といっていたが、何とか3万リアル(10ドル)まで下げさせた。これでも高いように思うが。 6時10分ころ空港を出発。運転手は途中盛んにガイドする。もしかして、ガイドをしたんだから少し金額に色をつけろといってくるのではと思ったが、もしそんなことをいってきたら、「俺はガイドを頼んだ覚えはない。お前が勝手にしゃべっただけだ。」と言って、無理やり3万だけ渡してタクシーを降りる覚悟を決める。 6時40分、イスファハン方面行きのバスターミナルの横に到着。朝の空いた道をかなりのスピードで飛ばしたのに30分ほどもかかった。空港からの距離は相当あるようだ。これで10ドルならば昨日までいたトルコの物価感覚からすると、なんとか許せる。3万払って降りようとすると、「両替をしろ両替をしろ」とうるさい。運転中は1ドル3500(公定レートは1ドル=3000)だったが、4000になった。ただ、空港で100ドルも両替したので、もうこれ以上イランリアルは不要だ。ということで、運転手の両替しろ攻撃を振り切ってバスターミナルの中に入った。 しかし、情報をあまり持たずにきたので、正規レートで大量に両替したが、こんなに簡単に闇両替ができるとは。空港で両替しすぎたなあと若干後悔。
このバスターミナルには1年前にも来たのだが、その記憶はほとんど残っておらず、その規模の巨大さに驚く。円形のターミナルの建物を取り囲むように、各社のバスが発車を待っている。イランには、15社くらいのバス会社があり、それぞれがきちんとした社名をもっているようだが、ナンバー1とかナンバー15とか、ナンバーでよばれることの方が多いらしい。 去年世話になったガイドの話では、ナンバー1とナンバー15がいいということだったので、さっそくナンバー1の会社のカウンターに行った。 英語が通じることは期待できないので、窓口に向かって何度も行き先をいうしかない。ペルシャ語の「すみませんが…」という言い方を知らないので、向こうの注意をこちらにむけるため、「エクスキューズ・ミー」と大きな声を発すると、予想に反して、英語をしゃべる社員がいた。イスファハンに行きたいと言うと、7時の便があるというので、すぐにそれにしてもらった。 名前を告げるとそれをコンピュータに打ち込んでいる。「いくらか」と聞くと、「12000(約500円)」だという。イスファハンまでは8時間くらいかかるはずだから安い。お金を払おうとすると、別の窓口を指差された。どうやら、チケットの申し込みと発券の窓口は分かれているらしい。指差された窓口にいくと、チケットがプリントアウトされてきた。そこで、名前と行き先を確認して料金と引き換えにチケットをもらう。 「どのバス?」と尋ねると、さっきの英語をしゃべる社員が、「この男についていけ」と言ってくれた。言われた通り着いていくと、彼はこれから乗るバスの運転手だった。バスはボルボのデラックスバスで、チケットに指定された席は、発車間際に買ったにもかかわらず、一番前の窓側というよい席だった。 僕の隣にすわったイラン人は日本に来たことがあるという男性。東京やその周辺部で働いていたという。この男性を通じて、僕が日本人だということがわかると、バスの車掌というか、乗客の世話係の男が、何か紙を引っ張りだしてみせた。日本人のグループツアーの添乗員から客への連絡の張り紙だった。このバスは、路線バスとしてだけではなく、ツアーの貸し切りバスとしても使われるらしい。そして、どうやら彼らの話し振りによると、この運転手と乗客世話係がコンビを組んで、その日本人ツアー客の世話もしたらしい。 この運転手、運転がやたらと荒っぽく、バスの性能を目一杯使って、他の車をゴボウ抜きにしていく。途中、20分ほどの休憩をとったが、1時にはイスファハンに到着した。 さて、翌日のバスのチケットを買わなければならない。バスで隣にすわっていた日本語を話す彼に助けてもらってチケットを買うことにした。 午後のバスでヤーズドまで行き、そこで1泊してから、夜行バスでパキスタン国境に近いザヘダンに行くという予定をたてていたが、肝心のヤーズド行きの午後のバスがないという。ヤーズドはイスファハンから6時間くらいの距離だから、これは夜行バスで一気にケルマンまでいくしかない。ケルマンにはたいした見所はないようだから(※1)。、昼間ホテルで仮眠をとって、また夜行でザヘダンまでいこう。そう決めて、夜7時発のケルマン行きのチケットを買った。 (※1 この旅の数年後、ケルマンから少し離れてはいるがバムという土で作られた街の遺跡があることを知った。) イスファハンの街まではタクシーで行った。ここでもさっきの彼に料金の交渉を手伝ってもらう。市内まで5000(200円強)だというが、相場というものがまったくわからない。彼を信用するしかないだろう。 イランでは外貨払いをしなければならないある程度高級なホテルに泊まろうと思っていたので、とりあえず、アリガプホテルという比較的高級な部類のホテルまで行ってもらう。もし、そこが一杯でも、この街は二度目でホテルがどのあたりにかたまってあるかもわかっているし、去年のようにどこに行っても満室ということはないだろう(※2)。 (※2 何か大きな行事がありホテルはどこも満室だった。) しかし、アリガプホテルは満室だった。「3時になったら空きが出るかもしれないから、もし他を捜して部屋がなければ、また来きみて下さい」と言われ、ホテルが並ぶ通りを歩いて行った。二件目の中高級ホテルも満室。日差しがきつく暑い。寝ていないし、朝はろくに食べていないので、腹も減った。これ以上ホテル捜しで体力を消耗するのは避けたい。14時頃、1泊4万リアル(約1700円)のアウトバスタイプのツインルームを確保してから昼食をとった。 このホテルは小さいながらレストランが併設されている。しかし、メニューなどはなく、しかたがないので、去年の記憶を頼りに「ジュージェケバブ」とかいう鳥肉の串焼き、それとサラダ、スープ、コーラなどをとった。ちょっと注文しすぎたかもしれないと思っていると、出てきた料理は予想通りものすごい分量。ライスなどいらないのに、ひらたい皿に、ドンブリ飯にして1.5杯分くらいのサラサラのライスがついてきた。サラダやスープの分量も多く、スープにひたしてナンをかじるだけで十分という感じだ。ライスにはほとんど手をつけず、肉も3割くらい残した。 腹がくちると急激に眠くなってきたので、1時間ほど仮眠を取った。奇麗ではないが、涼しい風が入ってくるよい部屋で、よく眠れた。 15時半過ぎに外出した。今回のイランで観光する予定なのは、このイスファハンだけである。前年、何やら大きな行事のためにラフサンジャニ大統領(当時の)が来訪していたため見ることができなかったイマーム広場近くチェヘル・ソトーン宮殿、ラフサンジャニの巨大な肖像が美観を損ねていたイマーム広場、イマームのモスクなどをちゃんと見なくてはならない。 前年には入ることができなかったイマームのモスクの中に入る。外国人観光客の入場料は1万5000リアル(600円余り)。この国の物価を考えるとものすごく高い。とはいっても実はまだこの国の物価というものを実感としてはつかんでいないのだが。モスクは外観も素晴らしいが、中にも青を基調とした草花模様のタイルがふんだんに使われている。 イマームの広場の周りには、長大な回廊が巡らされている。そして、そこがバザールになっていて、ほとんどが観光客相手の店だ。その中にアイスクリーム屋があって、そこでソフトクリームを買った。350リアル(18円くらい)。僕が知り得たイランの物価の一端である。 イマームのモスクの対面には、お土産屋以外の、地元の買い物客のための店が並ぶメインバザールがある。外国人観光客の姿は少なく、強烈な客引きもいない。何を見るともなしに、バザールを一周してから、ホテル方向にのびるバザールのアーケードを歩いて行った。
<8月22日> 朝食後、自分自身を写し込んだ写真をとるために再びイマームの広場へ行った。イマームのモスクと王宮を背景にセルフタイマーで撮影。一応、これで今回のイラン観光は終了。あとは、ひたすらパキスタンとの国境をめざして移動である。
この国では、ボトリングしたミネラルウォーターが手に入りにくいが、それは、水飲み場が充実しているということとも関係しているようだ。街角のあちこちには、冷却装置付きの水飲み場があって、冷えた水が飲めるようになっている。イラン人は慣れているのだろうが、外国人旅行者が、それもたかだか4~5日しか滞在しない者が飲んで大丈夫かと思う。しかし、渇きには抗しきれず、もう随分ガブガブ飲んでいるが、下痢急降下という事態には至っていないので、水が体に合わないということはないようだ。 さて、もう一つ問題がある。トイレットペーパーだ。イランでは用を足した後、紙は使わず水をかけながら自らの手で洗う。したがって、よほどの高級ホテルでなければ、トイレに紙は備え付けられていない。それは承知しているから日本からトイレットペーパーを持参しているのだが、安ホテルが続くと早晩底をつくことは目に見えている。バザールのどこかで紙は売られているはずだが、捜すのも面倒だ。それで、この朝から中東流を実践することにした。便器は和式と同じといってよく、しゃがんで事をなす。便器の脇には水道の蛇口があり、そこに片手で持てる大きさの注ぎ口のついたプラスチック製の水差しがある。その水差しに水を入れ、注ぎ口を尻の尾底骨のすぐ下あたりにつけ水を注ぐと肛門の方に水が伝わって流れてくる。そして左手でコチョコチョと洗うのである。これは自己流のやり方だから、もしかするともっとよい水の流し方があるのかもしれない。しかし、紙でふくよりは余程お尻の清潔は保つことはできる。ただ、濡れたままだとやはり気持ち悪いので、水をふきとるために貴重な紙を少しだけ使った。 10時半ころ再び外出して、まず市内にある鉄道のチケット売場にいってみた。 イスファハンからケルマンまでは鉄道が通っているので、もしかすると寝台車で横になって移動できるかもしれない。一応バスのチケットは確保しているが、なるべく体力の温存をはかりたい。しかし、窓口氏は、イスファハンからはテヘラン行きしかないという。途中で乗り換えるという手がありそうなのだが。 バスは夜7時発だから、大量の時間をつぶさなければならない。街の中心部を東西に流れるザーヤンデ川のほとりの公園で何をするともなくボーッとする。 この日は金曜日で、イランでは休日なので、イスファハンの市民もたくさん川のほとりに遊びにきていた。女性達はこの暑さのなか例によって黒いスカーフとコートをまとっている。コートの下からみえる足にはジーンズという人が意外に多い。 行き交うイランの地元の人々を何となく見ていると、中年のイラン人男性に英語で話しかけられた。70年代末から80年代初頭までアメリカに留学していたと言う。なるほど、本格的な発音に聞こえる。 彼は留学生時代、ヨーロッパを旅したそうだ。「若い時は、どこでも眠られる。何でも食べられる。乗り物だって何だってかまわない。あなたもそうだろう。そういう時にどんどん旅するべきだ。」と言った。しかし、残念ながら僕はもうそれほど若くはない。おまけに、外国の食べ物はからきし駄目ときている。旅に年齢はあまり関係ないと思うが、食べ物が合わないというのは大きなハンディキャップである。実は、「今日も昼飯をどうしようか」と悩んでいるのである。 話題は彼の娘の自慢、僕の収入や日本人の収入というお決まりのパターンなどにも及んだ。12時半頃、「そろそろ行かなくちゃ」と会話を切り上げ別れた。 昼は「マハラジャ」といういかにもインド料理店らしい名前のレストランで食べた。ちょっと高そうだが、入国時に100ドルも両替したのはやはり失敗で使いきれそうになく、こういう店で使うしかない。地下にあるその店は奥行きがあり、奥の方では日本人の団体が食事していた。 |