ヘロヘロの状態でギルギットへ移動 <8月26日続き>窓側のおじさんが僕に英語で話しかけてきた。この時、彼がアフガニスタンからの難民であることを知ったのだが、この短い旅の中で、アフガン難民に2度も会うとは。いかに多くの人たちが戦火を逃れて祖国から離れているかが実感できた。おじさんは、もうすぐ内戦は終わるだろうと、楽観的な話をしていた(その後、タリバンというイスラム原理主義勢力がアフガンのほぼ全土を制圧したが、2001年9月のアメリカにおける同時多発テロの発生に対して、テロを行ったアルカイダとの関係が深いということで、アメリカがアフガン攻撃を行い、タリバン政権が倒壊したのは承知の通り) こうした列車の中では、よく食べ物を勧められるのだが、このおじさんも、リンゴを僕に勧めてきた。ナイフで半分に切ってくれたのだが、衛生上非常に不安だ。しかし、なかなか断りにくい。結局、受け取ってかじった。腹にこないことを祈るだけだ。 話が一段落すると、おじさんは席の上の棚のようなところに上がっていった。どうやら4人のうち1人は、この棚に寝る権利があるらしい(あとから聞いたのだが、100ルピーだかを余計に払うと、この棚=寝台の権利が得られるらしい)。おじさんが上に上がっている間は、おじさんの席があくので、バックパックを下の席におろしておく。 停車する度に時刻表(クエッタ駅で入手)で、遅れを確認していたが、15時50分、シビ・ジャンクションというところでは、遅れを取り戻していた。
夜10時半、ローリ・ジャンクション到着。僕の席の2人連れの男性が下車したが、新たに乗って来る客はなく、席を独り占めして眠れると思いきや、向かいの家族連れの父親がこちらの席に移って横になった。結局、彼が頭を通路側、僕が頭を窓側に置くという形で横になったが、席の奥行きはそんなに広くないから、そうとう無理がある体制だ。彼も起きているうちは、こちらのことを気遣ってくれていたようだが、眠りに落ちてからは、こっちのことはおかまいなしに足を伸ばしてくる。眠りにつけなかった僕は、結局、体をおこして、すわって一夜を過ごすことにした。 <8月27日> 深夜2時ころからだったろうか、吐き気をもよおしてきた。乗り物酔いになったような感覚だったので、酔い止めを飲んだ。しかし、吐き気はおさまらず、明け方からは寒気もしてきた。ちょっとまずい。食中毒の症状だ。昨日のリンゴが悪かったのだろうか? 途中下車して休息すべきか、無理してピンディーまで行ってしまうか、それともラホールまで頑張るか、それとも、ムルターンで降りてしまうか。 旅行日程に余裕があれば、なんのためらいもなくムルターンで降りる決心がついたのだが、ムルターンで降りると、そこからピンディーまではバスだと2日はかかる。そうなると、そこから先の日程がまたきつくなる。鉄道だと1日で行けるのだが、ムルターン始発のピンディー行きはないので、チケットの入手は難しそうだ。迷った。 列車は1時間くらい遅れていた。完全に夜が明け、向かいの家族全員が起きた。父親が、僕が具合悪そうにしているのを見て、上で休んだらどうかと勧めてくれた。好意に甘えて、横になったが、まだ、どこで降りるべきが決心がつかない。ここで横になれるのならばラホールくらいまではいけそうかなという気もおきた。 8時ころ、わりと大きな駅に着いた。1時間遅れの状態ならばムルターンのはずだ。降りる決心のつかない僕は、横になったままでいたが、具合は一向によくならない。「よし」と決心して、駅名表示を確認するためホームに出るとムルターンだった。急いで車内に戻り、荷物を持って列車から飛び降りた。列車はゆっくりとホームから離れていくところだった。 駅舎を出て、オートリキシャーやタクシーが客待ちしているところに歩いて行くと、たちまちドライバーたちに取り囲まれた。ばっちり空調のきいた部屋のよいベッドで休もうと、この街一番のホテル、ホリデイ・インの名前を出した。しかし、体調も悪く、おまけに高級ホテルに泊るつもりでいるのに、節約旅行が続いているせいか、むこうの言い値では乗りたくないという気持ちが頭をもたげてきた。まったくアホである。結局、100ルピー(約320円)というのが80(約250円)まで下がったところで手をうった。 車に乗り込むと、ドライバーの売り込みが始まった。タクシーで観光しろと言うのだ。「具合が悪い」と言うと、「じゃあ明日はどうだ」と言う。「先を急いでいる。明日はラホールに行く」と言うと、観光を勧めるのをやめたが、あきらめきれないようだ。ムルターンに寄る気はなかったので、どんな街か、何があるのかなど、まったく調べてきていなかったが、結構見所の多そうな街だ。しかし、観光は次の機会に譲らざるを得ない。 ホテルには5~6分で到着。はたして部屋はあいているのか? それよりもまずこの薄汚い格好でまともな対応をしてもらえるのか? やや心配だった。 レセプションでは、笑顔をつくりつつも、なるべく疲れきった具合の悪そうな素振りを見せ、「予約はないのですが、部屋はあいてますか? 列車内で気分が悪くなったので、予定を変更して、ムルターンで下車したのですが…」ときりだした。 レセプションの女性は、すごく心配そうな顔をして、「まず、あそこに腰掛けてください」とロビー内のソファを指差した。そうすると、アシスタントマネージャーの名札をつけた男性がやってきて、「紅茶かコーヒーでもお飲みになりますか? 医者をお呼びしましょうか? 薬は持っていますか?」と言ってくれた。「じゃあ紅茶を下さい。今のところ医者は必要ないです。薬も持っています。もし少し休んでもよくならなかったら、医者を頼みますので。」 まだ、朝の9時で部屋の準備ができてきないので、宿泊カードに記入してから、しばらくロビーのソファにすわって待った。部屋の準備ができるとアシスタントマネージャー自らが、部屋に案内してくれた。「バッグを持ちます」と言ってくれたが、みるとあまりに汚い。「汚いから自分で持ちます」といって断った。それにしても汽車の床に置いていたわけではないのに、ひどいほこりまみれだ。そういえば、車内のあちこちには、中途半端ではない量の砂埃がたまっていた。これを大量に吸い込んだせいで具合が悪くなったのかもしれない。 部屋に落ち着くと、早速熱をはかった。38度ちょっとだった。 ベッドにもぐりこみしっかりと毛布をかぶったが、なかなか寒気がおさまらず。しかし、しばらくすると、カーッと体が暑くなってくると同時に猛烈なおう吐に襲われた。ベッドから飛び出し、トイレへ駆け込んだ 。 吐いてしまうと少し楽になった。汗も出てきて、熱は徐々に下がっていった。 夜8時すぎ、チキンサンドと紅茶のルームサービスを頼み、さあ食べようと思うと、また吐き気をもよおしてきた。トイレに駆け込み、上げると、腹具合もかなり安定した感じになった。サンドや付け合わせのフライドポテトを食べても、もう何ともなさそうだ。思ったより軽い症状で済みそうだ。明日はバスでラホールへ行こう。 <8月28日> 6時30分ころ朝食をとり、7時半すぎにはチェックアウト。 前日、ホテルの人に列車の切符はとれないかと尋ねたが、結局、無理なようで、バスでラホールまで行くことにした。 『歩き方』の地図によると、ホテルから歩いて15分くらいのところに、ラホール方面へのフライングコーチ(バス)の発着所があるらしいので、そこまで歩いて行ったが移転していた。近くの店で尋ねると、紙切れにピンディ行きのバスが出るバスターミナルに行きたい旨(たぶんそうだと思う)をウルドゥ語で書いてくれた。 その紙切れを見せながらあちこちで尋ねながら、ミニバスに乗ったり、最後は親切なパキスタン人が自転車の荷台に乗せてくれたりして、9時頃バスターミナルに着いた。ラホール行きの次の便は9時半だというので、すぐにチケットを購入。バスはエアコン付の大型バス。客の集まりが悪かったためか、20分遅れの9時50分出発。しかし、このくらいの遅れならパキスタンでは上出来といえるだろう。 ラホールへの道のりは長かった。本来ならば、6~7時間くらいもあれば着く距離らしいが、市街地を通過するたびに、車が詰まって動けなくなり8時間半以上かかってしまった。市街地では道路がいたる所で水没しているのだ。どうやら少し前に大雨があったらしく、排水設備などというものもなく、水の行き場のない市街地では、なかなか水がはけないらしい。 18時半過ぎ、薄暗くなったラホールに到着したが、どのあたりに着いたのかわからない。市街地に入ってから地図を見ながら来たので、駅に近そうなことはわかる。バス会社の人に駅の場所を尋ねて指を差された方向に歩いて行くと、巨大なラホール駅が見えてきた。 駅前にはホテルやフライングコーチの発着所が集中しているので、このあたりに宿をとって、明朝早々にピンディーに向かうことにするが、一つ問題があった。ここラホール駅近くの安ホテルは泥棒宿として有名なのだ。とくに客引きの出ているホテルに連れて行かれるとかなりの確率で寝ている間に荷物などをやられるらしい。それで、ちょっと駅から離れた信用のおけそうなホテルを探すことにした。迷いながら歩いているとホテルの客引きが寄ってくる。その度に調べておいたホテルの名前を出し、「ここに行くつもりだ」と逃げる。 すっかり暗くなったこともあって随分道に迷った。駅から10分ほど離れた何軒かのホテルで、部屋を見せてもらったが、なかなかいいところがなかった。エアコンのあるホテルで熟睡したい。病み上がりなのでシャワーはお湯を使いたい。道路に面していない静かな部屋がいい。この条件をクリアする部屋はなかなかなかった。夜8時を過ぎて、疲労と空腹が極値に達したので、薄汚いが一応エアコンのあるホテルにチェックインした。よく見ると、ヤモリが2匹部屋の壁に張り付いているし、壁のペンキがボロボロ崩れ落ちている。お湯は出るがシャワーはない。これで1泊400ルピー(約1300円)は高いかも。 食事をルームサービスしてくれるというので、言われるままにチキンライス(スパイスの効いた鳥肉ピラフ)を頼んだが、これが辛かった。パキスタン料理はインド料理よりは辛くないのだが、病み上がりの体には厳しい味だった。コーラで強引に流し込んではみたものの、半分も食べられなかった。 <8月29日>
ホテルの近くの食堂で、パキスタン人の好奇の目にさらされつつ朝食をとった後、チェックアウトして、フライングコーチ乗り場へ向かい、8時ころ到着。 8時半発のバスがあったので、そのチケットを買ったが、やはり定刻通りには出発しなかった。客が集まるまで出発しないのである。エアコンが寒いほど効いた日本製のマイクロバスに乗り込み、待つこと1時間半余り、9時50分になってようやく出発した。 前日とはうってかわって道がいい。バスは快調に走り、午後3時40分ころ、ピンディーに到着した。 タクシーに乗って目ぼしをつけていたホテルへ向かったが、運転手の話によると「ピンディーも先日の大雨で水浸しになった」ということだった。どうやらパキスタンの多くの地域で被害があったらしい。 さて、今回の旅の最終目的地、ギルギットまでどのようにして行くか。上海-イスタンブール間の陸路の踏破が目的なので、当然、往路か復路のどちらかを陸路で行かなければならないのだが、イランからずっと陸路やってきたのだから、そのまま陸路、ギルギットまで行くのが本筋だろう。しかし、何せ少々疲労気味である。それに、このアジア陸路の旅も、ずっと同じ方向へ移動し続けて来たわけではない。ギルギットまで飛行機で行って、帰りに陸路を踏破しても問題はない。取り敢えず飛行機でギルギットまで行こうと考えた。 パキスタン航空へ行き、帰国便のリコンファームをした後、ギルギット行きの便の予約状況を尋ねると「明日の便は満席。明日午前中に来れば明後日のチケットなら可能性がある」といういうではないか。ギルギット便のチケットの入手は相当難しそうな感じだ。 これは、600キロ余りを15~16時間かけて陸路ギルギットに向かう方がよさそうだ。帰りも陸路になる可能性があるが、飛行機のチケットが手に入るまで待っている時間はない。
<8月30日> 昼食後、スズキ(軽トラックの荷台を客席に改良した乗り合いタクシー)に乗って、ギルギット行きのコーチの出るマシュリクホテルへ向かった。13時半ころ到着して、すぐにチケットを買い、コーチは15時発。 ギルギットに行く日本人は多く、このコーチで3人の日本人と一緒になった。1人は、仙台からナンガーパルバットをトレッキングしにに来たという社会人、1人はインド・パキスタン・イラン・トルコ旅行をしているという弘前出身のフリーター風の若者、1人はタイが大好きという東京の学生。
ピンディーを出発して1時間くらいで、徐々に道が登り坂になり、車窓からの風も冷たくなってきた。18時ころ20分程休憩時間をとった後、19時には礼拝タイムでまた停車。このころには暗くなり外の景色は見えなくなった。21時ころ夕食タイムとなったが、チャイを頼んで残り少なくなったバランス栄養食をかじる。 その後、銃を持った警察が1時間ほど同乗した。6年前には武装強盗団がよく出没した箇所らしいが、まだ危ないのだろうか。それとも、単なる客として乗っていたのだろうか。0時ころ、また休憩。けっこう几帳面に休憩をとっていく。 うつらうつらとしていると、3時ころ、我々日本人だけが降ろされた。チェックポストで、ノートにパスポートナンバーや名前などを記入するためだった。 5時ころ、礼拝タイム。そろそろ空が白み始めて、万年雪に覆われた高山も見えてきた。バスの進行方向と逆方向に見えるひときは高い山はたぶんナンガーパルバットだろう。 6時40分ころ、再びチェックポストでパスポートナンバーなどの記入。
7時頃、ついに見覚えのある街並みに入って行った。ギルギット空港の滑走路、そしてパークホテル。6年前とそれほど変わっていない感じだ。足掛け11年かかった上海-イスタンブール間の陸路踏破は完了した。 同乗の日本人はかなり疲れているような感じだが、慣れなのだろうか、驚く程疲れは感じない。時間が許せば、もう1度フンジェラーブ峠を越えて中国へ入り、カシュガル-ウルムチ間を、タクシーではなく、バスで踏破したいところだが仕事がある。これでひとまず、この区間の旅には終止符を打たなくてはならない。 バスを降りた僕達は、パキスタン人男性と結婚した日本人が経営するホテルへ直行した。ほかの人達は知らないが、僕は日本食が食べたかった。たった3週間食べていないだけなのだが。 部屋に落ち着くと、さっそくアジア陸路踏破の報告の絵葉書を何枚も書いた。そして、昼ごろパキスタン航空へ行きイスラマバード行きのチケットを首尾よく手に入れ、ホテルに帰って、念願の日本食にありついた。親子丼もどきというものだったが、ものすごくうまく感じた。どんどん喉を通り、すぐ身になっていくような気がした。アジア横断のこのルートを何か月もかけて旅する人もいるようだが、外国の食事に順応できない僕には無理だなと思った。
帰国便はカラチからだったので、もう少し旅は続いた。ギルギットからイスラマバード(ピンディー)に飛び、イスラマバードからさらにカラチに飛んだ。カラチでは、パキスタン航空が用意した空港近くのトランジット・ホテル(無料)に泊ったが、ホテルでだらだらしているのはもったいないので、昼食(これも無料)の後、カラチの街に出た。
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