ホイアン

<8日目>
6時半、ホテルをチェックアウトして、タクシーで空港へ向かう。

8時すぎに出発した飛行機は、9時15分ころダナンに到着。

空港からタクシーでバスステーションに移動して、そこからミニバスに乗りホイアンへ向った。



ダナンのバスステーション。



これでもかというくらい客を詰め込んだミニバスに揺られること約1時間半弱、11時半にホイアンに到着。

ホイアンは、トゥボン川が南シナ海に流れ出る三角州に形成された町で、その歴史は紀元前までさかのぼるという。8~9世紀には、アラブのイスラム商人が東南アジア地域に来航するようになり、東西貿易の要衝として栄えたとのこと。16~17世紀には、このあたりを支配する江南玩(グエン)氏の交易の中心地として栄えた。江戸時代初め=17世紀初めの”鎖国政策”が実施される以前の日本は、朱印船貿易を盛んに行い多くの日本人が東南アジア各地へ渡航し、そこに住みつくものも多くいた。そのため、日本人による自治が行われた日本町なるものも各地に形成された。ここホイアンもそんな場所の一つで、江南玩(グエン)氏が貿易興隆のため外国人居住区を設け自治を認めるなど保護を与えた。ちなみに高校の日本史の教科書にはホイアンではなく、フェフォという名前で記されているようだ。

しかし、徳川幕府の鎖国政策の結果、日本町は衰退し、その後、華僑の人々が多く住んだためか、街には中国の雰囲気が残っている。「日本橋」と呼ばれている橋(正式名称は来遠橋)が残っていて、昔、日本人が住んでいた痕跡をその名に残している。また、ホイアン郊外には日本人の墓が残っているとのことだったが、時間がなく訪れることはできなかった。

ホテルを確保した後、翌日のフエまでのバスチケットを確保し、街歩きをした。



街を歩いて最初に撮った1枚。地元の画家のギャラリーみたいなところ。




ホイアンの街。改めて写真を見て気が付いたが、道の両側に絵を飾っている店というかギャラリーがある。観光客相手に絵を売る店が多かったのか? しかし、近年ホイアンを訪れた人にこの写真を見せて「ホイアンの写真ですよ」と言っても、すぐには信じてもらえないだろう。例によって、この旅行記を作成するにあたって(2022年5月)、ネットで多くの旅行記を見たが、現在のホイアンの街はまったく別の街に変わっているので。ホイアンは、ここを訪れた2年後の1999年に世界遺産に登録されているので、その後観光客が激増して、街も変貌をとげていったのだと思う。




やってきました「日本橋」へ。橋の右には、またまた絵を展示する店が。写真の左側には誰かがフレームイン。トリミングしてしまおうと思いましたが、超個人的な旅行記なので、残して起きたいと思い、そのままにしておくことにしました。




一つ上の写真でフレームインしてきたのは、天秤棒をかついで歩いている男性。しかし、天秤棒が現役だったのか、当時は。。。ところで、これを書いている今はコロナの影響で観光客も少ないと思うが、ネットで色々な旅行記を見ると、「日本橋」は観光客から通行料を取るほどの名所になっているようだ。




橋の中にある祠。上に「来遠橋」という額がかかっている。




橋を渡って振り返ると、自転車に乗った女性が。子供は何をみているのか?




「日本橋」の全景。橋の下はかなり汚いどぶ川だった。これも1997年当時の実際の様子ということで、トリミングしないでおきます。




トゥボン川。




華僑の家などいくつかの建物が公開されていたが、上の写真はその一つ。




上の写真の建物の内部かどうかは不明。




土産物屋? 陳列されているのはお酒?




人々で賑わう通りと中国風の建物。これは寺院か?




影が長いので、午後の遅めの時間に撮ったものだろう。街の中心部から少し離れたところという記憶がある。ベトナムは近代にフランスの統治下におかれていたが、このあたりのコロニアルな雰囲気はフランス統治下にあった名残りか?




一つ上の写真とほぼ同じ通りを角度を変えて撮ってみた。




トゥボン川。




市場。




市場。市場の賑わいといえば、”朝”と相場が決まっていると思うのだが、夕方に近づいた時間帯なのに、この賑わい。




船の古さが時代を感じさせます。







この日の宿。



ネットで観光地としてのホイアンに関するページを見ると、現在はランタンに彩られる街というような記述や写真があふれている。1997年当時は、そういう雰囲気の場所はなかったと思われ、夕食をとった際の街の印象は何も残っていない。おそらくちょっと観光客が多めの田舎街という感じだったのだと思うが、その変貌を見るため再訪出来る日が来るといいなあと思う。