日本がいわゆる”鎖国”の時代に入る前には、交易のため東南アジアへ渡航する日本人も多く、東南アジア各地には日本人による自治が行われた日本町も形成された。プノンペンにも日本町があり、アンコール・ワットを訪れた日本人も少なくなかったとみられる。上の写真は森本右近太夫が残した”落書き”で、これについて、たまたまみつけた論文「アンコール・ワットに墨書を残した森本右近太夫一房の父・森本儀太夫の墓をめぐって」(中尾芳治)に詳しかったので、これに依拠して、この”落書き”について記すことにする。17世紀前半、森本右近太夫という武士をはじめ多くの日本人がアンコール・ワットに参詣していたことがアンコール・ワットに残された14カ所の墨書によって知られる。森本右近太夫は寛永9(1632)年正月、アンコール・ワットの2カ所に墨書を残している(二十日と三十日)。そのうち、十字回廊の南廊石柱に残る墨書が上の写真。そこには以下のように記されている(原文を読みやすく書き改めた)。
寛永九年正月に初めて此処に来る。生国日本、
肥州の住人、藤原朝臣森本右近太夫
一房、御堂を心がけ、数千里の海上を渡り、一念
の儀を念じ、生々世々娑婆寿世の思いを清める者なり。
その為に仏四体を奉るものなり。
摂州津国池田の住人森本儀太夫
右実名一吉、善魂道仙士、娑婆のために
是を書くものなり。
尾州の国名谷の郡、後、その室
老母の亡魂、明信大姉の後世のために是を
書くものなり。
寛永九年正月廿日
当時、多くの日本人がアンコール・ワットを訪れたのは、当時の日本人がアンコール・ワットを仏教の聖地「祇園精舎」の遺跡と考えていたことにある。
ちなみに森本右近太夫の経歴はよくわからないが、その父森本儀太夫は加藤清正の武将として著名な人物で、城普請でも知られた存在であった。 |