アンコール遺跡群(4)

<4日目続き>
バンテアイ・スレイの次に行ったのはタ・プローム(12世紀末)。取り除かれずに育ち放題に育っている熱帯の木の根に侵食されている様子が印象的な寺院だ。もともとはジャヤヴァルマン7世が仏教寺院として建設したが、後にヒンドゥー教の寺院に改められたと考えられている。



写真に写った影からみて、西門から入ったようだ。




『地球の歩き方』には「自然の力を明らかにするために、樹木の除去や本格的な積み直しなど修復の手を下さないまま据え置かれている」とある。




一つ上の写真にある樹木の根っこを低い位置からも撮ってみた。




建物のあちこちが樹木の根が。。。







木の根っこに目が行きがちになるが、あちこちにたたずむデバターも趣がある。




一つ上の写真をデバターがよくわかるようトリミングしてみた。



タ・プロームで午前中の観光は終了したが、ホテルに戻る前、ドライバーにアンコール・ワットに寄ってもらった。前日見忘れた、17世紀前半、森本右近太夫が書き残した"落書き"を見るためである。



日本がいわゆる”鎖国”の時代に入る前には、交易のため東南アジアへ渡航する日本人も多く、東南アジア各地には日本人による自治が行われた日本町も形成された。プノンペンにも日本町があり、アンコール・ワットを訪れた日本人も少なくなかったとみられる。上の写真は森本右近太夫が残した”落書き”で、これについて、たまたまみつけた論文「アンコール・ワットに墨書を残した森本右近太夫一房の父・森本儀太夫の墓をめぐって」(中尾芳治)に詳しかったので、これに依拠して、この”落書き”について記すことにする。17世紀前半、森本右近太夫という武士をはじめ多くの日本人がアンコール・ワットに参詣していたことがアンコール・ワットに残された14カ所の墨書によって知られる。森本右近太夫は寛永9(1632)年正月、アンコール・ワットの2カ所に墨書を残している(二十日と三十日)。そのうち、十字回廊の南廊石柱に残る墨書が上の写真。そこには以下のように記されている(原文を読みやすく書き改めた)。
  寛永九年正月に初めて此処に来る。生国日本、
  肥州の住人、藤原朝臣森本右近太夫
  一房、御堂を心がけ、数千里の海上を渡り、一念
  の儀を念じ、生々世々娑婆寿世の思いを清める者なり。
  その為に仏四体を奉るものなり。
  摂州津国池田の住人森本儀太夫
  右実名一吉、善魂道仙士、娑婆のために
  是を書くものなり。
  尾州の国名谷の郡、後、その室
  老母の亡魂、明信大姉の後世のために是を
  書くものなり。
       寛永九年正月廿日

当時、多くの日本人がアンコール・ワットを訪れたのは、当時の日本人がアンコール・ワットを仏教の聖地「祇園精舎」の遺跡と考えていたことにある。

ちなみに森本右近太夫の経歴はよくわからないが、その父森本儀太夫は加藤清正の武将として著名な人物で、城普請でも知られた存在であった。



前日同様、昼はホテルに戻り休息(隣のレストランで昼食)。

14時半ころ、午後の観光に出発したが、遺跡巡りに出かける前にシェムリアップの中心部で翌日のプノンペン行きの船のチケットを購入。

まず、向かったのはプリア・カン(12世紀末)ジャヤヴァルマン7世によってチャンパとの戦いの戦勝記念として建設された仏教寺院。しかし、その後の仏教とヒンドゥー教の宗教闘争の後、仏教が衰退し、ここの仏教的なもののほんとんどはヒンドゥー教徒によって削り落とされたり、破壊されたりした。



リンガを模した砂岩彫刻が並ぶ参道(西側の参道か?)




屋根の上にあったユニークな彫刻。




よくわからぬまま適当に歩き回った。




手前は頭部が失われた(破壊された?)仏像か?




プリア・カンといえば、現在のガイドブックでは二階建ての建造物が特に取り上げられているが、この時の『歩き方』には特に記述はなかったような。。。特に意識して見学したわけではないが、たまたま撮った一コマに、その建造物が写っていた。




プリア・カンの北門前だと思う。地元の子供たちの遊び場になっていた。



次に向かったのはニャック・ポアン(12世紀末)。09~10年版『地球の歩き方』には、ニャック・ポアンにはからみ合うナーガ(蛇)の意味があり、2匹の大蛇によって基壇を取り巻かれた祠堂が中央の池に浮かんでいるとある。しかし、1997年に訪問した際には、池の水は干上がっていた。

これは仏教信者であるジャヤヴァルマン7世が貧しく病める人々に観世音菩薩の慈悲を分ち与えるために建造したもの。中央の池は病気を癒す不思議な水をたたえるという伝説の湖をかたどったもので、獣や人の首を通って四方の池(正方形の中央池の四辺の外側に小さな正方形の池がある)に流れる水は、ヒマラヤの湖に源を発する四本の川を象徴したものであるといわれている。事実、この池には多くの病人が訪れ聖水を使ったといわれる(『アンコールの遺跡~カンボジアの文化と芸術』)。



中央池と中央祠堂。基壇の右下に見える縦に出っ張った部分がからまった蛇のしっぽか? この時は、この遺跡の印象はあまり残らなかったが、訪問を繰り返すなかで、アンコール遺跡群の他の遺跡と随分異なる雰囲気が気になって行った。




中央池の水が外側に小さな池に流れ出る部分。これは象か?




中央祠堂のレリーフ。右端に、ここで遊んでいた子供がチラッと写っている。この頃はどの遺跡も子供たちの遊び場になっていた。




観世音菩薩の化身、ヴァラーハ(神馬)。これは本生譚(ジャータカ)にある話を題材としたもの。その話はこんな感じ→観世音菩薩をあがめていたシンハラという商人がいたが、ある日航海中に嵐にあい旅人たちとともにセイロン島に打ち上げられた。この島は人食い鬼の雌の住み家であったが、それとは知らずに上陸したシンハラたちを見た雌鬼どもは美しい女性に化けて彼らを歓待し、やがて旅人たちを一人一人夫にしてしまった。ある夜、皆が寝静まったころ、目を覚ましたシンハラは部屋のランプが笑っているのをみて不審に思い、その訳をランプに尋ねた。ランプは「あなたたちが寝起きしている女たちは恐ろしい人食い鬼で危険です。身を救いたければ海辺へ行きなさい。ヴァラーハという馬が待っています。ただし、馬に乗ったら向こう岸に着くまで決して目をあけてはなりません」と答えた。シンハラはすぐに逃げ出す決心をして仲間を起こし、皆は海辺へ行き待っていた馬の体にしがみつき、馬は天高く駆け上がった。この馬ヴァラーハこそが、シンハラのあがめていた観世音菩薩の化身であった。(シンハラだけが目をあけてはいけないという忠告を守り助かった)
上の写真は天高く駆け上がるヴァラーハとそれにしがみつく人々を表現した像です。




2012年12月のニャック・ポアン。写っている池は中央池の周囲にある池の一つ。立ち入り禁止区域が設けられていて中央池に近づくことができなかった。




2017年2月のニャック・ポアン。池に水がたくさんある時はヴァラーハにしがみつく人々の様は見えない。相変わらず立ち入り禁止区域が設けられていたが、2012年よりは見学できる範囲が広がっていた。ただし、中央池を一周して見学することはできなかった。




どこだ?



この日の最後はプレ・ループ(10世紀半ば)。夕日の名所の一つ。






夕日を背にする獅子とその向こうに広がるジャングル。




夕方の光線がいい感じ。




プレ・ループを正面から。日没前にここを後にしたのだったか?