ぺトラ遺跡再訪 9日目(3月19日)
6時半、バスターミナルへ行くと、夕べ「ぺトラ行きはなくマアン乗換だよ」と教えてくれた兄ちゃんが、この朝早くにもう仕事をしていた。 マアン行きに乗り込んだが、カナダ人夫妻が現れない。そして席は全部埋まり、ほどなく出発。我々が乗ったのは7時ではなく、6時半のバスだったのか? それで、あの夫妻と会えなかったのか? それとも彼らは車でも雇って移動したのか? ところで、ヨルダンからはガイドブックのない旅となった。当時、『地球の歩き方』にヨルダン・シリア編はなく、『地球の歩き方フロンティア ヨルダン・シリア』という、都市や遺跡は紹介しているものの移動手段・ホテル・レストランなどの情報がほんとんど載っていない本しかなかったのだ。『ロンリープラネット』という英語のガイドブックはあったと思うが、それを使うという発想はほぼなく、少ない情報だけで出かけて細かい情報は現地で、という覚悟で旅をしていた。一応、90年3月にこのルートを旅しているので、ヨルダン・シリアのことはだいたいわかってはいたのだが。 9時ころマアン到着。バスの中で「助けてあげるよ」と言ってくれた、ぺトラへ行くというおじさんが、街の人に色々と聞いてくれるが「ぺトラ行のバスはない」という(おそらくぺトラ近くのワッディームーサ行きならばあったのかもしれないが、何せガイドブックのない旅をしているのでワッディームーサのことは知らないから聞きようもない)。) しかし、幸いにして、地元の人の足となっているらしいピックアップトラックに乗せてもらいぺトラへ向かうことができた。車は細い道に入って行ったが、どうやらおじさんの家によっていくらしい(今思うと寄ったのはワッディームーサだったのかも)。パターン的には「俺の家に寄っていけ」というシチュエーションなのだが、予想に反して何も言われずあっさりと別れ、我々は細い道を通ってぺトラ遺跡の入口に着いた。 しかし、まずいことに料金交渉をしていない。あのおじさんにまかせっきりだったから。運転手は「5ディナール」という。途中で降りたおじさんは2ディナールを払っていたので、2人で5ディナールは適正だろう。車を降りると、帰りも乗らないかという。運賃はやはり5ディナールだという。 運転手に何時に来ればよいかと聞かれたが、さて、何時に来てもらったらよいものか。現在時刻は10時20分。3年前の記憶を頼りに遺跡で使う時間を考えて決めた時刻は3時半。まあ少しくらい遅くなっても、細かいことはいわれないだろう。 運賃を払って遺跡へ向かったが、大きい荷物を持って歩きたくない。ということで、大きな荷物はビジターセンターに無理をいっておかせてもらった。 この3年間で観光化が著しく進んだようで、このビジターセンターも真新しい建物に代わっていた。 例によってシクを進み、エル・ハズネの威容に息をのみ、どんどん奥へ進んだ。 そして、まず一番奥(上)のエド・ディルへ急ぐことにした。 11時50分、思ったよりも早くエド・ディルに着いた。 12時半ころ、下り始める。 割と時間に余裕がありそうなので、エド・ディルへの登り口あたりにあるレストランで昼食をとり、また遺跡を回った。
約束通り、15時半、ぺトラ遺跡の前を出発。 マアンからは16時発のアンマン行のバスがあった。 19時10分、アンマンのバスターミナル(どこのターミナルかは不明)到着。マイクロバスの運転手にに泊る予定のホテルをつげると「行くよ」というので乗ったが、全然知らないホテルの前で停まった。どうやらどこかのホテルに行けばよいのだと思われた模様。だめだこりゃということで、タクシーで勝手知ったるキャラバンホテルへ移動(ここだとダマスカス行きの乗り合いタクシーが出発する会社にも近い)。 10日目(3月20日) 午前中、Tさんのシリアビザ申請に付き合う。代書屋がいて書類を書いてくれる。ビザは即日発行だった。 ビザが発行されるまでの間にダウンタウンへ出かけ、昼食はローマ劇場でサンドイッチをかじったのだったろうか。 午後13時半にシリアビザを受領。 シリアへの足としてバスも候補に考えていたので、一応、ジェットバス・ターミナルへ行ってみたが、結局は乗り合いタクシーを選択することに。 ところでジェットバスターミナルまで足を運び時間を使ったことが、思いがけない人との再会につながった。15時頃、どこでだったろうか、インドネシア人青年とバッタリ再会したのだ。縁があったんだなあと思う。
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