桂林から昆明へ

<6日目>
*この年の4月から北海道の地方都市のとある高校の教員になったのだが、図書委員から図書新聞に載せるための旅行記を依頼されて、そこに桂林から昆明へ移動したときのことをけっこう詳しく書いていた。ということで、このページはその旅行記を元に書くことにします。


11時、朝から体がだるいので熱をはかると38度近くあった。これはまずい。ホテルはすでにチェックアウトしてしまったし、おまけに、その夜から列車で約33時間かけて昆明まで移動することになっている。そして、列車には寝台はおろか座席すらとれていない。恐怖の”無座”である。中国の鉄道は基本指定席で、指定券が販売予定数に達した後は席がないことを承知で乗らなければならない無座のチケットが売られる。あまりに乗客が多いと無座すら販売が停止されるようなので(別の旅で無座のチケットの販売も拒否されたことがある)、チケットが入手できただけでもよかったのかもしれない。

乗車予定の列車は上海から昆明まで走る列車で、桂林を21時55分に出ることになっている。ということで、本当ならば桂林のあちこちを観光する時間がたっぷりあったのだが、これ以上体調が悪化してはまずいので、昼過ぎ桂林飯店というホテルへ行き、メモ用紙(※)に「今日の夜列車で桂林を出発するが、気分が悪いので休みたい」というようなことを書き、ドミトリーのベッドを一つ確保した。そして、持参の薬を総動員して夜まで休息をとった。熱はそれ以上あがることはなかったが、下がることもなかった。

※中国では筆談が意思疎通の重要な手段となるので、メモ用紙(罫線のない切り離せるタイプ)を持ち歩いていた。



桂林飯店から。体調は悪かったが、奇峰を見て、やっぱりすごい景色だと思うだけの余裕はあったようだ。



昆明への列車では広州から一緒の京都の学生2人と行動をともにした。

無座ということで、乗車後は座席、もしくはスペース争奪戦が繰り広げられることが予想された。ということで、確か、桂林の一つ手前の桂林北駅まで移動して列車に乗車したのではなかったか?(国際旅行社のマーさんのアドバイスがあったような)

改札が始まると、『地球の歩き方』にあった「本当にそんな状態になるの?」という光景を目の当たりにした。改札を抜けた乗客たちが硬座車(当時の硬座車の座席は文字通り硬かった)へ猛然とダッシュするのだ。目的は少しでも条件のよい所に自分の居場所を確保すること。

我々も負けじとダッシュ。当然のことながら各車両の入口はすごいことになっていた。やっとのことでデッキに上がったが、超満員にさらに「超」の字をつけたくなるような満員。これじゃあ体がもたない。何せ33時間である。

しかし、かすかではあるが列車の中で寝台を確保できる可能性は残されていた。列車長に掛け合うのである(※)。一緒に行動している2人と、まず、今乗車した車両担当の服務員に声をかけ、外国人旅行者であることをアピールした。というのは、当時の中国は外貨不足に悩まされており、外国人になるべくたくさんのお金を使ってもらいたい。そこで、列車にも外国人料金というものがあって、外国人は中国人の約2倍の料金を払わなければならないことになっていた(現在外国人料金は廃止されている)。したがって、外国人は上客ということになる。上客相手にしては愛想が悪いのだが、外国人だと2倍とれる、国のためになる、ということになるのである。そこで外国人であることをアピールしたのである。ただ、外貨収入のため頑張るという服務員ばかりであるとは限らないのはいうまでもなく、運が良ければということでの行動だった。

※無座の乗客が寝台を利用したい場合、車内にある列車弁公室に行くという方法がシステムとしてあったが、列車内のことを取り仕切っている列車長と交渉する方が手っ取り早かった。

外国人であることをアピールするなどということはできればやりたくなかったが、背に腹は代えられない。そうしたら、がっしりとした女性服務員(服務員は女性がほとんど)は、ついて来いというジェスチャー。しかし通路は歩けたもんじゃない。2両ほど移動したが、たくさんの人が床に座り込んでいるし、寝ているしで床面はまったく見えず、相当の人の体を踏みつけた。そうしてどつかれた。しかし、そんなことを気にしていたら、その服務員のあとについてゆけない。暑いので腕まくりをしていたが、故意か偶然かタバコの火で火傷も負ったし、何が原因かわからないが、中国人同士が猛烈な喧嘩を始めるしで、まさに修羅場であった。

硬座車の次には食堂車があって、その先に軟臥車(一等寝台-4人部屋・2段寝台・文字通り柔らかいベッド)、硬臥車(二等寝台・3段寝台・文字通り難いベッド)が連結されていた。食堂車手前の車両のデッキまで行ったところで、その服務員は持ち場に戻ってしまった。この先は自分で行けということだと思って、先へ進もうとしたのだが、ドアには鍵がかかっているではないか。これでは列車長との交渉ができない。中国国際旅行社のマーさんの話だと、中に必ず空きのベッドがあるということだったが、この分では息もできないほどのデッキで一夜を過ごさなければならない。

どれくらい辛抱しただろうか。食堂車の鍵があいた。食堂車に入っていくと列車長がいた(食堂車の隣の軟臥車に列車長の部屋があって食堂車でくつろいでいたのだったか?)。威厳のある女性だった。交渉も何もなく「寝台はない」と即答された。しかし、幸い、その夜は食堂車の座席に座らせてもらうことができた(有料で)。混乱のなかで、何故か熱は下がっていた。



<7日目>
食堂車では5時くらいから朝食の準備が始まった。厨房では火が赤々と燃え上がっている。さすが中国料理の国だ。

7時、朝食の食券を売りにきた。麺であった。まずかった(別の旅行の際、中国の食堂車で麺を食べる機会があったが、その時はうまいと感じた。この時は体調的に味を判別できる状態ではなかったのか?)。



食堂車の車窓の景色。空が白み始めると、奇峰の影が車窓を流れて行った。不思議な感じだった。これはすっかり夜が明けてから撮ったものだが、桂林と同じような奇峰がずっと続いていた。












食事が終わると、当然そこにはもう居られない。我々3人は硬座車への通路へ追い出された。

その後、約9時間、すし詰めのデッキで立ったり座ったりしてすごした。デッキには湯沸し機があって、石炭だろうか火をたいて湯を沸かしていた。持参のお茶っ葉を入れた瓶(ジャムなどの瓶の直径や高さを大きくした感じのもの)で頻繁にお茶を飲む中国人にとってお湯は必需品だ。というこで、彼らの要求に応えるため、こうして常にお湯を沸かしているのだ。「湯」を意味する「開水」という語は中国でもっともすぐに覚えた言葉の一つである。

満員であるのに加えて火を焚いている湯沸かしのせいもあってか、酸欠気味で、頭が痛くなってきた。乗降口は開けっ放しだが焼け石に水だ。

昼、そのすし詰めの車中を弁当売りが通る。「来(ライ)、来(ライ)、来(ライ)」と叫びながら。弁当売りのワゴンは細くて混雑した車中でも通りやすくできているが、通路は乗客でいっぱいなのでスムーズに進めるわけがないと思ってみていた。しかし、弁当売りの勢いに押されてか、乗客はけっこう協力的でワゴンは割りとすいすいと進んでいった。ワゴンの中の弁当の中身がチラッと見えたが、見ただけで吐き気がした。食欲はゼロだった。



硬座車内はこんな感じ。高いところに人がいるが、座席は人が一杯なので、背もたれの部分に腰かけて、足は座席に座っている人の間に入れているのだ。通路に座っている人は自分の荷物に腰を掛けるというのが基本パターン。座席下の空間に寝転んでいる猛者も多数。こんな車中でも人々はお茶を飲んだり、ヒマワリの種や果物やお菓子を食べたりする。そして食べ粕、果物の皮などのゴミは床か窓の外へ。服務員が時々掃除してくれるが焼石に水。当時、硬座車で一日過ごすと靴がドロドロになるというのは中国旅行あるあるだったと思う。



何度が列車長と交渉したが、貴陽という駅から軟臥ならあくかもしれないと言われた。16時前、食堂車へのドアの鍵があけられ、やっとのことで軟臥車に移った。体はなんとかもったが危なかった。

車窓には、カルスト地形独特の山々が流れたり、菜の花の黄色いじゅうたんが広がったりした。デッキからも見えた景色だが、まったく別の景色に見えた。



菜の花畑が続いた。当時の中国の鉄道の車両は窓を開けることができたので、写真を撮るには適していた。ということで、ここから先の車窓風景は窓ガラス越しのものではありません。




菜の花畑の前に並ぶ木の箱は養蜂のためのものか?




線路の本数が多い。たぶん、貴陽を出てからあまり時間がたっていない頃撮ったものだろう。







だいぶ日が傾いてきた。




西日に照らされた菜の花畑と農村の風景。ポカポカとした陽気で気持ちが良かった。