世界遺産登録前の白川郷・五箇山(1980年代半ば)
雪の合掌集落も見ておきたいということで、80年代半ばの2月、白川郷・五箇山へ向かった。

例によって、札幌を夜に出る特急列車に乗り、函館からは青函連絡船の深夜便に乗船、青森からは4時50分に出る特急白鳥に乗車。

ネットで当時の白鳥のダイヤが調べられたが、14時台に高岡到着。

おそらくこの時は高岡泊だったはず(冬期間、金沢・名古屋間を走るバスは運転されていないか、運転されていても一部分だったような記憶がある)。

翌朝、高岡から五箇山方面行きのバスに乗り(城端から乗車した可能性もある)、岩瀬家住宅がある西赤尾で下車。



岩瀬家。加賀藩の煙硝上煮役の家。煙硝は火薬の材料で、加賀藩は、幕府との関係を考慮して、山深い五箇山の地で秘密裡に煙硝を生産させていたとか。



西赤尾(岩瀬家の前)から白川郷方面行きのバスに乗車。当時、五箇山からのバスは白川郷観光の中心である荻町までは行っていなかったのか、鳩ケ谷でバスを降りて少し歩いた記憶がある。

それにしても、岩瀬家前でいったんバスを降りて、岩瀬家見学後、白川郷方面に向かう都合のよいバスの便があったのかと思うと不思議だ。当時1日2往復ぐらいしか走っていなかったようなので(ネット情報)。これも当時の時刻表で確認しなくては。



荻町に着くと、まず荻町城跡の展望台をめざした記憶がある。これは展望台への道すがら撮ったものと思われる。観光客は誰もおらず、展望台への道は湿雪が積もっていたが除雪は行われていなかった。幸い何十センチもあるわけではなかったが、ベチャベチャなので靴が濡れて難儀したのだったか?




これを見に来た。










一番奥は明善寺。



白川郷からバスで五箇山の相倉集落へ向かった。



相倉集落(だと思う)。白川郷の合掌造の建物は見事なまでに向きが同じなので、上の写真のような構図にはならないのでは?




相倉集落。電柱があって美しくない。近年撮られた写真を見ると電柱は見えないので、電線は地中に埋設されたのか?




電柱が見えないようトリミングしてみた。




上2枚の写真では道は人が歩くことが出来る程度しか除雪されていないように見えるが、一応車一台が通行可能な幅の除雪がなされていた。



相倉集落からは、再び白川郷方向へ向かった。

向かった先は、五箇山・上梨にある国民宿舎五箇山荘。もうバスの便はなかった可能性があるが、地図をみると2km強しかなく、歩いたのかもしれない。

現在、五箇山荘は立派な宿になったようだが、当時はひなびた経済的な宿だった。

刺身だったか、塩焼きだったか忘れてしまったが、宿の人から「イワナです」と言われて食べた夕食がおいしいと思ったのを覚えている。



五箇山荘の近くにあった住吉社という神社とその隣の合掌造の民家(羽馬家?)。




五箇山荘近くの道。雪に埋もれた感じがよい感じ。




雪が降ったはなから溶けて、水が流れ落ちるさまが北海道人の自分にとっては珍しくて撮ったのを覚えている。右上には加賀藩で罪を負った武士が閉じ込められた流刑小屋がある(ネットで色々調べて判明)。今思えば流刑小屋の方が重要な被写体だったのだが。




庄川を渡る橋から見た村上家(1578年の建築)。



※そのうち、80年代半ばの時刻表を所蔵している図書館をさがしてバスの時刻を調べ、2度の白川郷・五箇山旅行のより確からしい行程を推定してみたい。けっこう楽しそうだ。

終わり。