京都の紅葉(Olympus XZ-10の再活用テスト)(2024.12)
<2日目>
いつもと同じように四条河原町のホテルに宿泊したので、早朝、清水寺まで散歩した。

清水寺の拝観時間は日の出から日没までということになっているが、実際には日の出少し前から拝観が可能。

6時15分ころホテルを出発して6時40分ころ清水寺到着。



仁王門の左側にあった紅葉を撮ったが、まだ夜が明けず鮮やかな色は撮影できず。




だんだん夜が明けできた(若干明るく補正)。中央に京都タワーが見える。




ピンクがかった雲に露出を合わせてみた。




本堂(清水の舞台)から子安塔方向を撮った(若干明るめに補正)。「昨日あたりが一番よかった」「今日はちょとくすんできた」というお寺の人の会話が聞こえてきたが、まだ十分鮮やか。




同じく子安塔の方向を撮ってみた(これも若干明るめに補正)。




奥の院から本堂を望む。




奥の院から少し子安塔の方へ進んだあたりから本堂・三重塔などを望む。子安塔までは行かず、奥の院方向へ戻った。




奥の院の舞台に何重にも並ぶ観光客。日本人とインバウンド客が半々といった感じだったか。早朝、清水寺を独り占めという感覚はもう味わえなくなってしまったのか? 季節によると思うが、そのうち梅雨時とかに行って検証してみたいと思う。




清水の舞台を見上げる。確かにお寺の人たちが話していた通り、紅葉の色は少しくすんできていた。




日中は行列ができる音羽の滝。地元の人が水を汲みにきていた。




音羽の滝から出口(仁王門方面)向かい、振り返って撮ったカット。




阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)の碑。朝廷は東北地方の政府に従わない人々を蝦夷と蔑称した。平安時代初期、朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣し、蝦夷はこれに屈し、田村麻呂は首領・アテルイとその同胞のモレを京へ連行した。田村麻呂はアテルイ、モレの武勇、人物を惜しみ朝廷に助命嘆願したが容れられず、2人は802年河内国で処刑された。
1989年ころから関西在住の岩手県水沢市(現奥州市水沢)周辺出身者で組織する関西胆江同郷会がアテルイとモレの供養碑を建立しようと活動を開始、坂上田村麻呂開基の清水寺に対し碑を建立したい旨の要望書を提出し、1991年に清水寺が応諾を正式決定。水沢においてもアテルイを顕彰する会が設立され、1994年平安建都1200年祭の年に合わせて建立された。




7時を回り、だいぶ明るくなってきたが、まだ若干明るめに補正している。






昼前の便で東京へ移動。京都から東京への移動は新幹線の方が便利だが、空からの眺めがなかなか面白いので飛行機を選択。



伊丹から羽田への飛行ルートは色々あるのだろうが、基本、いったん房総半島上空まで飛び、そこから飛行方向を西に変えて羽田へ向かう。写真は日本製鉄の君津工場(正式には日本製鉄・東日本製鉄所君津地区というらしい)。



終わり。