カトマンズ~ラサ、陸路ヒマラヤ越え

18日朝6時少し前、旅行社へ行った。ツアー参加者は僕以外に日本人の学生2人、男性1人・女性2人というイスラエル人グループの計6名。これにガイドが1名同行する。

6時10分ころ出発。7時半から30分ほど朝食休憩。

11時すぎ、土砂崩れの箇所に到着。ここでこの先の車を雇うため1人30ドルずつガイドに渡す。ちょっと高いが同意の上でのツアー参加である。

土砂崩れの箇所は6箇所くらい。これらを徒歩で越え、土砂崩れと土砂崩れの間の距離があるところはトラックなどで移動。



カトマンズを出て最初の土砂崩れの箇所。ここではまだ写真を撮る余裕もあった。このあと小さな川のようになったところを渡ることもあり、靴と靴下を脱いでビーチサンダルに履き替えた(海に行くわけでもないのにビーチサンダルを持っていくのは、通常ホテルにスリッパがないから。バックパッカーはたいてい持っている)。




一つ上の写真に写っている坂道か?




トラックの荷台から。




どこで撮った写真だろうか? デジカメと違って撮影時間の記録がないのでわからない。



途中、チベット側からやってきた中年の日本人旅行者とすれ違った。「チベット側はもっとひどいことになっているよ」とのことだった。土砂崩れの箇所の一部では雨水が川のように流れ下っているほどなのだが、チベット側がもっとすごいとは! ラサにたどりつけるのだろうか。

12時過ぎ、ネパール側のボーダーの街コダリに到着。ここで昼食をとり、さらに小型トラックの荷台に乗り中国側へ向かう。中国・ネパール国境の川にかかる友誼橋を渡り少し行くと車をおろされた。ここから中国側のボーダーの街ジャンムーに向かって上り坂が続くのだが、何故かショートカットの九十九折りの急坂を登らされた。どうやら道が使えないらしい。かなり登ったところから、またトラックの荷台に乗り、30分弱でジャンムーに到着。ネパール時間の14時半、中国時間の16時半。一気に2時間時計の針が進んだ。両国の出入国は何の問題もなく完了した。



ジャンムーの街。



ジャンムーからは中国側のガイドに代わり、車はランドクルーザーとなった。しかし、車が1台しか用意できず、イスラエル人3人と我々日本人3人のどちらかが、車が用意できるまでジャンムーで待たなければならないことになった。コイントスの結果、我々日本人組が一足先に、次の街ニェラムへ行くことになった。



ジャンムーを出て少し行ったところから見おろした景色。



ニェラムへの道がすごかった。筆舌に尽くしがたいとは、まさにこのことで、大雨の影響でいたるところで道は寸断寸前の状態。土砂崩れでふさがれた道を車1台がかろうじて通れるだけ、土砂や岩をどけてあるだけの箇所だらけ。さらに、あちこちでまるで滝のようにというべきか、滝の水が道に流れ落ちており、その下を通るたび、水が車の屋根を打ち、一瞬前が見えなくなる。雪のない季節はこの道を定期バスが走っているとのことだが(月に数便というから旅行には使えない)、「バスでは無理だろう」という感じの道である。



小休止。



ジャンムーを出発して1時間半ほど、8時すぎ(とはいってもこれは北京時間なのでまだ薄暮)ニェラム到着。標高3750m、ジャンムーから一気に2250mものぼったことになる。雪域旅館(スノーランドホテル)という宿に投宿したが、部屋がある2階への階段を昇るとき少しクラッときた。早くも高山病の症状が出たのか?



ニェラムのスノーランドホテル。



寒い寒いと言っていると、宿の人たちのプライベートの場所だろうか、台所のような土間に連れて行かれた。電熱器でお湯を沸かしており、その前に座って、あたたまれというジェスチャー。こんな小さな火ではさっぱり暖かくないが、せっかくの好意なので有難く手をかざさせてもらった。そうしているとバター茶を持ってきてくれた。決してうまいというものではないが、チベットへやってきたなあ、という感慨が湧いてきた。ちょっと温まった後、2人の学生をさそって、すぐ向かいの食堂へ行った。用意できる食事は麺とチャーハンだけ。完全に漢式の食堂だった。


翌(19日)朝、起きると頭が重かった。やはり高山病だ。中国・パキスタン国境にある4900m余りのフンジェラーブ峠を越えて泊まったタシュクルガンの街も3700mあったが高山病の症状は出なかった。あのときは峠越え前に3000m余りの所で一泊したので高山病にならなかったのだろうか。

高山病の症状が出たときは、寝ころんでいるより、ゆっくりと動いていたほうがよいということがガイドブックに書いてあったので散歩にでた。するとヤクの群れがホテルの前の道を通っていった。首にはカウベルのようなものがついており、カラン・カランというのどかな音。おそらくこれから放牧の場へでも行くのだろう。ヤクたちの歩みは遅く、フラフラしていなければ走って部屋にもどりカメラをとってくるところだが自重。貴重なシャッターチャンスを逃してしまった。

ジャンムーからの後続部隊はなかなか到着しなかった。14時すぎにようやく到着し、昼食後、15時過ぎ出発。途中5000mを越える峠も越え(旅に出る前に購入した高度計つきの時計で計測)、夕暮れ後、雨の中、宿に到着した(後述のような混乱の中でガイドに聞くこともなかったで、どこの何というホテルかはわからない)。この道を走るトラックの運転手用の宿のようであった。平屋の建物で、部屋にはベッドが並ぶだけの簡素な宿。我々6人には1部屋があてがわれた。別棟に食堂があって、トラックの運転手たちだろうか、意外なほど沢山の客でにぎわっていた。すいとんのようなものを食べたよう記憶がかすかに残っているが(平打ち麵を使ったトゥクパ?)、高山病のため食欲が全然なかったことは鮮明に覚えている。ところで、トラックの数からみて客が多すぎるような気もした。ちょっとした街がそばにあってそこの人たちが集まっているのだろうか?  



峠で強風にひるがえるタルチョ(奥の方)。タルチョは地水火風空を表す5色の旗で安全と仏の加護を祈るためのもの。手前の石を積んでヤク(?)の角を立ててあるものは何だろう?




タルチョだけを撮ってみた。あいにく空はほとんど雲におおわれており、青い空にはためく五色のタルチョという”いかにもチベット”という光景は見られず。







小休止。わかりにくいが、車の向こうに建物が見える。




名前もわからぬホテル。



ところで、ここで大きな問題が起こっていた。同行の日本人学生の1人が風邪による発熱と高山病でダウンしてしまったのだ。ジャンムーの宿でも具合悪そうにしていたので、ここで車を雇ってネパールへ戻る勇気も必要かもしれないとアドバイスしたのだが、大丈夫と言って出発した。移動中からかなり調子悪そうにしていたが、宿に着いた時には、自力で車から降りられないほどになっていた。4000mを超える高地でこの状態は危険だが、どうしようもない。皆で彼を車から降ろし宿のベッドの上に移した。解熱剤を飲ませ、夜中、部屋の皆が、頭に載せた濡れタオルを何度か交換した。幸い、一夜明けると彼の熱は下がっていた。僕はといえば、横になると呼吸が弱くなるためか、息苦しさが増し、結局、一睡もできなかった。軽くではあるが頭痛も続いていた。


(20日)9時ころ、また厳しいドライブが始まった。空は曇天で、晴れていれば見えるはずのチョモランマ(エベレスト)は見えなかった。5000m超の峠も越えたが、雲の向こうに山らしきものがうっすら見えるだけで、はためくタルチョが唯一チベットを旅していることを感じさせるものだった。



小休止。




峠で小休止。



道はいたるところで寸断されていた。ランドクルーザーが何のためにあるのかがわかるような道だった。しかし、こんな高地にも関わらず、やはり中国とネパールを結ぶ重要なルートということなのだろう、重機を使っての復旧作業が行われていた。



工事待ちの小休止だったか?







こんなところ(本来は川ではないが大雨で川になった?)も通ったが、僕らのランクルは余裕でクリア。






18時30分ころ、シガツエという町に到着。ラサに次ぐチベット第2の都市で、標高は3900mほど。ここからラサまでは300kmない。ラサ到着が見えてきた。宿泊したテンジンホテルは、前日・前々日のホテルとはまったく客層が違い、多くの西洋人バックパッカーでにぎわっていた(なぜか日本人は見かけなかった)。ラサを中心とするチベットの観光エリアの中心に入ってきたのである。

高山病の症状もかなり軽くなり、食欲も回復して、やっと普通の状態で旅ができるようになった。しかし、ラサまでの旅はあとわずかである。ちょっとなごりおしい。



寒々しい感じがしたシガツェの街。




シガツェのホテル。



翌朝(21日)も9時ころ出発した。するとすぐに西洋人グループが我々のランドクルーザーに駆け寄ってきて乗せてくれないかといってきた。乗せるかどうかはガイドの判断だが、車の絶対量の少ないチベットの旅では旅行者は皆必死だ。予想通りガイドは彼らを乗せることに同意した。

この日、天気は好転したが道は相変わらずひどい状態で、最後まで厳しいドライブに悩まされることになった。大雨で橋が落下してしまっている箇所もあった。そこではブルドーザーで川に石を運んで、車が通れる状態にする作業が行われていた。西洋人のかなりの大人数のツアーが通りがかっており、おじさん・おばさんたちが「およばずながら」という感じで、石をブルドーザーのそばまで運んで、作業が早く済むように手伝っていた。皆楽しんでいるようだった。僕もこの作業の輪に加わり石を運んだ。



小休止。大雨のため川(だと思う)の幅が広くなっていたのだと思う。




ひどい道を進んで行く。







落下した橋。






やっと車が通れるようになったが、出発して1時間ほどたつと今度は大渋滞だ。なぜチベットで渋滞なんだと思ったが、原因は土砂崩れのようである。ラサが近いためか交通量が多く、車の列がどんどん長くなっていく。長期戦の覚悟を決める。



やっと晴れてきた。




大渋滞。



1時間くらいたつと、道端ににわか露店が開かれた。大渋滞だから客はたくさんいる。しかし、売り手はどこから来たのだろうか。渋滞に巻き込まれた人のようでもあり、比較的近くの町から、ビジネスチャンスとばかりに、荷物を背負ってやってきたようでもある。



即席露店。帽子をかぶっているのが客だったか?



そのうち少しずつ車が動き出したが、本当に少しずつだ。18時頃やっと本格的に動き出し、渋滞の先頭がどうなっているのかが見えてきた。道がボロボロになっていて、ちょっとした上り坂を上れない車があったらしい。その現場にも、どこから来たのだろう、多くのチベット人たちが、何か見世物を見物するかのように1台1台の車が坂道に挑戦して失敗したり成功したりするのを楽しんでいた。娯楽の少ない彼らにとってよい娯楽だったのかもしれない。よく見ると道の上では水先案内ならぬ道先案内人みたいな役割を果たしている人がいて、ドライバーたちに、ここをこのように通るんだという感じで、路上を指差しながら誘導していた。いよいよ僕らの車の番になったが、さすがランドクルーザー、何の苦もなく坂を登りきった。



写真の中央は渋滞の先頭。点々と続く赤っぽい衣装は渋滞の先頭の様子を見に行く若い僧侶たち。



ここから先は順調にドライブを続け、20時少し前ラサのバナクショー・ホテルというバック・パッカーたちの集まる幾つかのホテルの一つに到着した。到着した僕らに学生風の日本人が声をかけてきた。僕らがカトマンズからやってきたことを知ると、どんな旅だったかとか興味深そう聞いてきた。チベット旅行をする人は多いが、さすがにネパール-チベットを陸路移動する人は少なく(ラサ-カトマンズの航空路もある)、ちょっとした憧れを持って見られたようだ。

体調を崩した彼が大部屋ではない奇麗な部屋でゆっくり休みたいというので、僕らはそこでイスラエル人グループと別れた。別れ際、短い旅ではあったが、ちょっとした連帯感も感じるようになっていたので、「近い将来日本に来る予定はないの? 来るなら案内しますよ」というと、「日本は物価が高いから行けない」と言う。確かに日本はバック・パッカーにとっては「高い国」かもしれない(円安が進んでいる2026年現在からみると嘘みたいな話)。



チベットのシンボル、ポタラ宮(光の加減から考えるとラサ到着翌日に撮ったものだろう)。17世紀にダライ・ラマ5世の宮殿として建設されたもの。「宮」と呼ばれてはいるが、ダライ・ラマ政権は政教一致の政権で、政庁と仏教寺院の性格をあわせ持つ。宮殿内には1000室以上あると言われているが、観光客が見られるのは、ほんの一部分。