カルタゴ <7日目(8月22日)続き>シディ・ブ・サイドで昼食をとったあと、TGMでハンニバル駅まで戻り、そこからカルタゴの遺跡巡りに出た。 カルタゴは紀元前9世紀にフェニキア人によって町が創建されたといわれ、その後、海上貿易などで栄えた。しかし、やがて地中海に勢力を拡大してきたイタリアと戦うことになり、第一次ポエニ戦争(BC264~BC241)・第二次ポエニ戦争(BC218~BC201)をへて、ついに第三次ポエニ戦争(BC149~BC146)で、ローマ軍によって徹底的に破壊されてしまう。ちなみに、上記ハンニバル駅は第二次ポエニ戦争で活躍した名称ハンニバルの名にちなんだものである。 一度廃墟となったカルタゴであるが、BC29年にローマの植民都市として再興され、2世紀には多くの巨大建造物が構築された。今見られるカルタゴの遺跡は、このローマ時代のもの。 さて、カルタゴにはすでに2度訪れているが、最初は春の冷たい雨のなかの観光、2度目は軍港のあたりのみの見学で、一番の見所であるアントニヌスの共同浴場は雨の中の訪問だったためあまり良い印象がない。ということで、今回はアントニヌスの共同浴場を中心に攻めていくことにした。 ハンニバル駅から地中海に向かって歩いて行くと、めざすアントニヌスの共同浴場があるのだが、僕は逆方向に歩き出した。目的地は円形闘技場。ここカルタゴにも円形闘技場があるのだ。ただ、保存状態はそれほどよくないということで、過去の訪問ではパスしてた。ハンニバル駅から1.5㎞はあり、炎天下歩くのはきつそうだが、幸い、この日は殺人的な暑さではなかった。やや迷いながら歩くこと30分ほど、木立に囲まれた円形闘技場らしき遺構が見えてきた。先客は西洋人の家族連れのみ。地元の人間につかまってしまったのか、ガイドされている。僕はそれを横目に遺跡を一回りした。
アントニヌスの共同浴場を出た後、ローマ人の住居、さらに劇場を巡った段階で、午後5時すぎ。夏季なので、博物館はまだ開いているが、歩き疲れやら、日に当たり疲れやらで、さすがにもうひと観光するガッツは残っていなかった。TGMの1等に乗り(2等とほとんど変わらないのだが、ちょっとはすいているので、座れる可能性が高いと思った)、チュニスへ戻った。<BR>
4度目のチュニジア訪問も終わりを迎えた。正直、チュニスにはそろそろ飽きたかもしれない。しかし、いざ去るとなると、やはり名残惜しい。何があるわけではないのだが、街のメインストリート、ハビブ・ブルギバ通りの真ん中にある遊歩道を歩いてから、今回のチュニジア最後の夕食ということにした。
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