チチェン・イツァー

<12日目(3月12日)続き>
僕の乗った飛行機はグアテマラ・シティー発、フローレス経由、カンクン行きだったが、フローレスから乗った客はごくわずか。そのせいなのか、なんのせいなのか、19時45分、定刻よりも20分もはやく出発した。

20時50分、カンクン到着。空港のホテル予約窓口で、ホテルを確保。カンクンは有名なビーチリゾートだが、ビーチに面したリゾートホテルは、自分にはにつかわしくないし、カンクン滞在の唯一最大の目的は、マヤの遺跡、チチェン・イツァーだ。そこへのバスに乗る便も考え、セントロの中級ホテルをお願いする。

さてホテルまでどのようにして行くべきか。なんせ初めての街で、なおかつ夜である。タクシーを使うべきかと、ホテル予約窓口の兄ちゃんに尋ねる、「コレクティーボ(乗り合いバス)の運転手に言えば、その近くで降ろしてくれるよ」という。それならばということで、コレクティーボでセントロまで出ることにした。しかし、ホテル名を告げても、運ちゃんはうんうんとうなずくだけで、結局はセントロのバスターミナルの近くで降ろされてしまった。そこからホテルまでどう行くか問うが、英語があまり通じず要領を得ない。こうなったら、空港でもらったホテルのパンフレットにある極めて簡略な地図と長年の旅行で培った、あまりあてにならない勘に頼るしかない。夜なので、メキシコシティーなら怖くて歩けたものではないが、幸いカンクンの治安はよいらしい。勘が良い方に働いて、目指すホテルはすぐにみつかった。



<13日目(3月13日)>
7時すぎに部屋を出た。バスの時刻を確認していないので、早目早目の行動が必要だ。街中で朝食をとった後、バスターミナルへ行くと、8時45分のバスがあった。

やや冷房の効きすぎるバスに揺られること約3時間、12時少し前にチチェン・イツァー到着。昼食もそこそこに、勢いよく遺跡へ飛び出していった

チチェン・イツァーは6世紀頃のマヤ古典期に属する旧チチェン・イツァーと、中央高原のトルテカ文明と融合した10世紀以降の後古典期の新チチェン・イツァーとに大別される。有名な生贄の文化はトルテカの影響が強いという。



エル・カスティージョ。この遺跡のもっとも中心的な神殿で、9世紀初頭に完成したといわれる。高さ25m。まずはここの登頂をめざして歩き出した。すっきりと晴れず残念。なお、写真向かって左側の下辺部には内部の神殿への入口があり、そこから細い薄暗い階段を登っていくと、生贄の心臓が置かれたチャック・モール像が不思議なムードをかもしだしてたたずんでいる。




チャック・モール像のミニチュア(高5.5cm、幅6㎝)。非常に雑な作りだが、その雑さになんとなく魅かれてしまう。






エル・カスティージョの上にて。




エル・カスティージョの上から見た戦士の神殿。ここは登ることができなかった。ここにもチャック・モール像があるが、本物(?)はメキシコシティーの国立人類学博物館に展示されている。




球技場遠景方向を望む。







球戯場。ここで行われたゲームは豊穣の神へささげる儀式で、勝ったチームのキャプテンが生贄となったとのこと。団体観光客がまとまっているところの壁の上の方に黒っぽい輪状のものが見えるが、そこにボールをくぐらせるというゲームだったという。




球技場。




生贄を大衆にさらす施設の台座に刻まれたさまざまなドクロ。







戦士の神殿(だと思う)。




戦士の神殿を囲む石柱群。










戦士の神殿を囲む石柱群(千本柱の神殿)からエル・カスティージョを望む。




戦士の神殿のあたり、




戦士の神殿のあたりか?




エル・カステージョ。遺跡の入口とは逆の側は登り降りはできず、閑散としていた。




記憶が定かではないが、これは、たぶん旧チチェン・イツァー。







カラコルという建物。ドーム状のものは天文台。




修復されず、崩れたままの箇所も。




旧チチェン・イツァーの奥の方にある建造物。素朴な感じの彫刻に特徴があるそうな。







旧チチェン・イツァーからエル・カステージョ前に戻って来た。




聖なる泉セノテ。日照りの時期に生贄と様々な貢物が投げ入れられた。ユカタン半島は密林に覆われた湿潤地帯だが川がない。雨は石灰岩質の地中にしみ込み、地中に水がたまる空洞を形成され、その空洞の上の地面が陥没してできたのがセノテ。



これにて今回の遺跡巡りは終了。翌朝、帰国の途についた。

終わり。