メクネス~ティトゥアン

3月9日午前中、鉄道でフェズからメクネスへ移動した。所要時間は1時間弱。

メクネスは、17世紀に約半世紀、アラウィー朝の首都とされた街で、メディナが見所らしい。しかし、マラケシュ、フェズとメディナを見てきたので、正直お腹一杯という感じだった。

メクネスからシャウエンという白い街並みで有名な町へ行こうと思っていた僕は、まず、シャウエン行きのバスの便を調べた。12時発のがあることがわかったが、もうちょっと早い便があれば、と思いつつ予定を決められず、メクネスの街を歩いた。



北アフリカで最も美しく、有名な門の一つといわれるマンスール門。しかし正直な感想は「そんなに美しいか?」であった。



門(リフ門)の奥に続くまっすぐな道は「風の道」と呼ばれる。



風の道。



ムーレイ・イスマイル廟。


3月10日朝、たいした印象も持たぬままメクネスをあとにした。

もう帰国が迫っており、3月13日にマドリッドから日本へ向けて出発する予定である。あまりのんびりしていられないが、もう一日だけモロッコにいようと思う。そこで、どこに泊るかだが、シャウエンはいまだ捨てきれなかった。しかし、前述の通り、メクネス発のバスは12時で、ちょっと遅い。もしかしたら、タンジェまで行った方が、シャウエンへは行きやすいかも、と思った。それで、7時半過ぎの列車でタンジェへ向かった。12時半すぎ、タンジェ到着。

腹ごしらえをしてから、シャウエン行きのグランタクシーはないかと探した。タクシーの運転手に助けられながら、グランタクシー乗り場まで行ったが、結局、シャウエン行きは見つけられなかった。そこで、第2候補のティトゥアンへ行くことにした。こちらの方がタンジェからの距離も短く、スペイン領セウタへも行きやすい。

ティトゥアンにはあまり期待していなかった(世界遺産に登録されているらしいが、いつ登録されたのだろう?)。

タンジェを2時過ぎに出たグランタクシーは3時半にはティトゥアンに到着。すぐにホテルへ入り、少々疲労気味だったこともあって、部屋で横になった。この時は、夕食時にちょっと街の雰囲気だけ味わっておこうとしか思っていなかったが、歩いてみるとなかなよい街で、到着してすぐに散歩に出ればよかったと後悔した。

この時の旅のメモ帳に次のような走り書きをしていた。
 「夕方、夕食がてら街へ散策へ出た。そうするとどうだろう。街が人であふれているではないか。部屋にいるときから、外から聞こえてくるざわめきに、「盛り場」のど真ん中のホテルに泊ってしまったのか? と思っていたのだが、そうではなかった。街じゅうが人で賑わっているのだ。まるで祭りの夜のように。ティトゥアンの街並みはスペイン統治時代の影響のため、アンダルシアのような白塗りの建物が続き、それが街灯や商店の明かりで薄ぼんやりと浮かび上がっている。王宮前のハッサン広場に出ると、緑の縁取りのある王宮の真っ白な壁が暗くなりかかった広場に明かりを投げかけていた。そして、その脇のメディナの入口は、出る人、入る人の波が途絶えることなく続いていた。モロッコ最後の日をティトゥアンにしたのは正解だった。」



なぜか強く印象に残ったティトゥアンのハッサン広場。



ティトゥアンのメディナの入り口。



翌朝、ティトゥアンを出る前に、もう一度ハッサン広場に行ってみた。



朝のメディナの入り口。



朝のティトゥアン市街。


3月11日。今日は国境越えの日だ。9時過ぎ、グランタクシーでスペイン領であるセウタとのボーダーへ向けて出発。10時過ぎ、ボーダー到着。スペインへ入国しようというモロッコ人たちの長い列ができていたが、外国人の窓口は比較的すいていた。しかし、最初勝手がわからず、長い列の最後尾についたたこともあり、国境通過に1時間あまりを要した。

11時20分(スペイン時間12時20分)、スペイン入国。ここからバスに乗って港へ移動。

13時15分発のフェリーに乗船(出航は遅れて13時40分すぎとなった)。

15時10分、アルへシラス到着。そのままアルへシラスに泊るのも面白くないので、カディスへ移動。ここからなら、翌日、列車でコルドバへ移動して、メスキータを見たあと、マドリッドまで出ることが可能だ。


メスキータ。後ウマイヤ朝の8世紀末に建設が始められ、9世紀から10世紀にかけて計3度拡張されたモスクを、レコンキスタの後、16世紀にカルロス5世がカテドラルに改造。



メスキータ。



メスキータに隣接するユダヤ人街。写真は、「花の小道」と呼ばれる有名な観光スポット。路地の奥に見えるのは、メスキータの塔(ミナレット)。



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