ブハラ(ウズベキスタン)

8月18日、午後3時半すぎに車でウルゲンチへ移動。車はホテルで頼んだものだったと思うが、運転手は地元の学校の先生。アルバイトで観光客を運んでいるという。

ウルゲンチに近づくと運転手氏は、自分の親の家に泊れと言い出した。無料ではなく有料で小銭を稼ぎたいらしい。料金はホテルに泊るよりもはるかに安かったが(金額はメモがないので不明)、問題はレギストラーツィア(外国人登録)であった。今は知らないが当時ウズベキスタンでは宿泊する町すべてでレギストラーツィアをしなければならず、ホテルに泊った場合、パスポートを預けておけば自動的にやってもらうことができるのだが、それ以外の場合は、宿泊する家の人と一緒に移民局へ出向きこのレギストラーツィアをしなければならなかった。これをやらずにいて警察にみつかったりすると、賄賂の要求その他面倒なことになりかねないので、その件について、彼に聞いてみた。彼の答えは「レギストラーツィアをしなくたって問題ない」というものだったが、運悪く警察官に尋問されるとまずい。ということで、ホテル・ジャイフーンに泊ることにした。

この学校の先生、金稼ぎに熱心で、「明日ブハラに移動する」というと「それならば自分の車で行け」と言い出した。割とよい料金だったので、こちらはあっさり妥結。


8月19日、8時30分、約束通り昨日の先生が迎えにやってきたが、彼の車でブハラまで行くのかと思っていると、彼の親戚だったかそれとも知り合いだったか忘れたが、別の車で行くようにと言われた。

ブハラへ行く車は韓国製の軽自動車だった。ちなみに、現在の状況は把握していないが、少なくても当時はウズベキスタンは韓国との経済的結びつきが強かったようで、韓国車が非常に多く走っていたし、確か、日本からウズベキスタンへの観光旅行の主要ルートも、ソウルからアシアナ航空を利用するというものだった。

8時45分出発、暑さに耐えること6時間余り(エアコンがついていなかった)、15時すぎにブハラに到着。まず、ラビハウズ近辺のB&Bを当たってみたが、あいにく満室だった。車はラビハウズの前で手放してしまったので、炎天下、旧ブハラホテルまで歩いて行きチェックイン。ヒヴァもウルゲンチもそうだったのだが、ブハラもホテルのレストラン以外にまともな食事のできるところはなく夕食はホテルで済ませた。

8月20日、いよいよブハラ観光である。
ブハラとはサンスクリット語で「僧院」を意味するが、その名の通り多くのモスク、メドレセをもつ宗教都市であった。また、シルクロードの交易の拠点でもあり、キャラバンサライや交易所がいくつもあったらしい。現在残る歴史的建築物の数々は、ブハラ・ハーン国の首都であり商業都市としても繁栄していた16世紀のものということだ。

9時前、旧市街に向けて出発。ホテルは旧市街からは少し離れたところにあり、一番遠いイスマイール・サマニ廟までは3㎞くらいはあり、暑さのなか厳しい観光になりそうな予感。


ホテルの部屋からブハラ旧市街を望む。




タキ(だと思う)。タキとは大通りの交差点を丸屋根で覆ったバザール。




イスマイール・サマニ廟。892年から943年にかけて造られた中央アジアに現存する最古のイスラム建築。9世紀末にブハラを占領して都としたサマン朝のイスマイール・サマニが彼の父のために立てた霊廟で、後に彼も葬られた。モンゴルの来襲で街が破壊されたとき、ほとんどが土中に埋もれていたため無事だったらしい。日干しレンガを積みあげただけの建物だが、壁面の模様などが素晴らしい。




1514年建造のカラーン・モスク。カラーンとは「大きい」という意味で、その名の通りかなり大規模なモスク。実は1127年の建造されたカラーン・ミナレットとつながっているのだが、太陽の光の関係でうまくとれそうになかったので、午後の遅い時間帯にもう一度来ることに。




中央のマル屋根はタキ・ザルカラン。一番規模の大きいタキだ。左奥に見えるのがカラーン・ミナレット。手前の門はウルグべク・メドレセ(1418年創設、1585年修復。中央アジア現存最古の神学校)。




チャル・ミナル。チャル・ミナルとは4本のミナレットという意味。もともとはメドレセの門番小屋として建てられたものだが(立派な門番小屋だ)、メドレセは現存していない。



12時すぎ、いったんホテルに戻り昼食をとってしばし休憩。6㎞くらい歩いただけなのだが、炎天下のなか歩いたのでさすがに疲れた。

15時すぎ、再び外出。街の西側にあるアルク城から順光で街を望むには午後遅めの時間帯の方がよいからだ。



アルク城に入る前にブハラ・ハーン専用のモスク、バラハウズ・モスクへ。




バラハウズ・モスクのクルミの木で作られた柱。ブハラの他のモスクには見られない建築様式。




歴代のブハラ・ハーンの居城だったアルク城。登ってみた。



アルク城の城門をくぐった向こうの通路脇には土産物屋などが並んでいたが、その店の一つで店のおばさんから闇両替を持ちかけられた。タシケントのところでは書かなかったが、当時の公定レートは確か1ドル=150スムから200スムの間くらいで(実は公定レートでの両替を行わなかった)、闇のレートは公定レートの最大3倍くらいということだった。公共の交通機関や食事の支払いなどはスム払いだが、ホテル(一部を除く)や航空券、車などはドル払いが中心となるので、それほどスムは必要なく、タシケントであまり両替をしなかった(1ドル=400スム)。しかし、先々のことを考えるともう少しスムを持っていてもいいかもしれないということで、若干の両替をした。1ドル485スムでタシケントより随分よいレートだった。



アルク城から望んだブハラの街。城壁のへりみたいな所(かなり奥行きがあった)に登って撮影。




アルク城を出てブハラの街を歩く。16世紀くらいにタイムスリップしたかのような感覚になる街並み。




カラーン・ミナレット。




ミル・アラブ・メドレセ(1536年創建)。




ナディール・ディヴァンべギ・メドレセ(1622年創建)。




ナディール・ディヴァンべギ・メドレセの入口。2羽の鳳凰の間に太陽があり、その中に人間の顔が描かれている。偶像崇拝を禁止するイスラムの教義に反するものとして有名。西日が反射してよく写っていませんが。



          

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