マドリード、トレド、アランフェス <21日目>たぶん、朝バルセロナからの列車でマドリードに到着し、まず、宿を確保したのだと思う。 この日はちょっと忙しくて、午前中プラド美術館へ行き、午後、トレドを観光した。 プラド美術館はスペインの巨匠ばかりではなく、外国作家のコレクションも膨大なのだが、美術に詳しいわけでもないし、そこまで興味があるわけではない。時間も限られているので有名どころの作品にポイントを絞って鑑賞することにした。 そうしたなかで、とても魅かれた作品がフェリペ4世付の宮廷画家ベラスケスの「ラス・メニーナス(1656年)」だった。バルセロナのピカソ美術館で、ピカソ風「ラス・メニーナス」を見たことが影響していたとは思うが強く印象に残った。 「ラス・メニーナス」とは「女官たち」という意味で、構図の中心にいる王女マルガリータを世話する女官たちが描かれているため、そう呼ばれているようだが、これは19世紀に付けられた題名で、もともとは「王家一家」とか「家族の絵」という題名だったとか。 「王家一家」というのに、王フェリペ4世とその妻が鏡に写っている姿が描かれていて、さらに描いているベラスケスもその構図のなかにいるという不思議な絵である(興味のある方はネット上のあちこちに画像があります)。 プラド美術館の有名どころの作品を駆け足で鑑賞した後、当時、別館に展示されていたピカソの「ゲルニカ」を見に行ったのだったか(もしかするとこちらが先だったかもしれない)。 1937年、内戦状態にあったスペインで、反政府側のフランコ軍を支援するナチス・ドイツがスペインのバスク地方の町ゲルニカを無差別爆撃した。当時パリに住んでいたピカソは、この殺戮を知っって怒りや悲しみをこめてゲルニカを描いた(縦3.5m、横7.8mの大作)。この作品は1937年のパリ万国博覧会スペイン共和国館に展示された。その後、亡命スペイン共和国政府による反フランコ政権のプロパガンダにこの作品は利用され、第2次世界大戦の戦火から守るためニューヨーク近代美術館に預けられた。スペイン内戦ではフランコ派が勝利、フランコ独裁に反対するピカソとニューヨーク近代美術館との間には、スペインが自由を取戻したならば同作品をスペインに返還するという約束をかわされており、大戦後のフランコ政権による返還要求に応じることはなかった。 1973年、「ゲルニカ」のスペイン返還を見ぬままピカソは死去した。その2年後、フランコが死去しスペインが民主化へ向かうと、この作品をスペインに戻すべきという声が高まり、1981年スペインへの返還が決定され、プラド美術館の別館に展示されることになった。そして、1992年9月からはマドリードのソフィア王妃芸術センター開館とともにここへ移された。この旅をしたのは1991年3月なので、プラド美術館の別館で鑑賞したというわけだ。 「ゲルニカ」がスペインに戻ったころ、スペインには旧フランコ派が存在しており、「ゲルニカ」は攻撃される恐れがあったらしく、プラド美術館別館では防弾ガラスに覆われ、周囲を武装した兵士が警備していた。自分が行ったときもそういう厳重な警戒体制が敷かれていたようだが、そのことはすっかり忘れている。 午後は鉄道でトレドへ行った。 今となっては、トレドにもっと時間を割かなかったのだろうかと思うが、この時はちょっと街並みを味わって来ようくらいの気持ちしかなかったようだ。
ネガを見ると、なぜか一旦街の外側に出ている。 グーグル・アースを見ながら自分の撮った写真と突き合わせてみたところ、街を突っ切って、アルカンタラ橋とは反対側にあるサン・マルティン橋の方へ向かったことがわかった。
再び、サン・マルティン橋を渡りトレドの街中へ戻った。
当時、カテドラル(大聖堂)とかキリスト教建築や芸術にはあまり興味を持てず、一応、エル・グレコの名作「オルガス伯の埋葬」があるサント・トメ聖堂には入ったようだが、あとは街中を適当に歩いただけだったと思う。
<22日目> カスティーリャの荒涼とした大地に並ぶ風車。ラ・マンチャのカンポ・デ・クリプターナに、そんな景色を見に行こうと思った。 しかし、大きな失敗をしてしまった。ホテルを出るのがちょっと遅くなってしまい、乗るべき列車のチケットを買う時間がなくなってしまったのだ。 スペイン国鉄のシステムの詳細は知らなかったが、何らかの事情でチケットを買うことが出来なかった場合、列車内で車掌から買うということができるのではないかと考え、予定していた列車に飛び乗った。幸いというべきか何というべきか、スペインでもホームに入るときの改札はなかったので。 1本遅い列車でという選択肢がなかったのかと思うが、カンポ・デ・クリプターナはマドリードから150㎞離れており、上等列車(急行とか)でなければ、かなり時間がかかるという理由で、そのような選択をしたのだと思う。 しかし、乗った列車は急行か何かで座席が予約が必要だったのだと思う。座席にはつかず、デッキで車掌が通るのを待った。 車掌が通りかかり、チケットは持っていない、車内で買えないか? ということを尋ねたと思うが、次の停車駅アランフェスで降りるように言われ、マドリード、アランフェス間の運賃を支払ったのだと思う(メモには金額しか書かれていないので車掌に払ったのか降りた駅で払ったのか不明)。 ということで、まったく予定外のアランフェスを歩くことになった。 アランフェスには16世紀にフェリペ2世により建設が開始され、18世紀、カルロス3世の時代に完成した王宮がある。とりあえずせっかく来たのだから王宮だけは見ておこうということで歩き出した。
この後、王宮へ向かった。
アランフェスを昼前に出る列車でマドリードへ戻った。
マヨール広場を出た後、王宮に行ってみた。
翌日の朝の便で帰国の途につくことになっていたが、当時のメモには旅の終わりにあたって書いたものがあったので、それを書いておくことにする。 「20:04、今回の旅も最後の夜となった。たぶん疲れているのだと思う。緊張が解け気味なのも加わってだるさが一段と増してきた。さっき、機内食を除く、この旅最後の夕食を食べてきた。昼が遅く、ボリュームもあったのでマクドナルドで済ませた。この国のマクドナルドも長い行列ができていた。店員も疲れた表情で応対している。やっと自分の番になって注文し、お金を渡し、商品を受け取った際、グラシアス(ありがとう)と言うと、微笑みながら何か言葉を返してくれた。 19時すぎ、食事を終えて街へ出ると、夕暮れが近づきつつあった。かなり冷え込んできたが、土曜のプエルタ・デル・ソルには人の波が続いていた。昼間マヨール広場でも見かけたギター2人、クラリネット、フルートの4人組が何かを演奏していて、人々は立ちどまり彼らの演奏に耳を傾けては立ち去り、ギターケースに小銭を入れていく人も多かった。長く漂っていたい雰囲気だったが、ただ疲れた。明日の朝は早い。6時にはホテルを出なくてはならない。」 <23日目> 朝9時マドリード発のJAL便で帰国の途についた。 終わり |