列車が15時間余り遅れる(柳園-北京)
敦煌3日目。10時頃チェックアウトし、バス駅へ向かった。これで敦煌ともお別れで、この旅の名所・旧蹟めぐりの部分は終わりである。しかし、まだ、一大旅行が残っている。
バスは満員の客を乗せて定刻通り柳園に向けて出発した。3時間と少しの道のりだ。ゴビタンの中をひたすら走るが、やがて、大きくうねった乾燥した大地を過ぎ、割と大きな集落が現われると、そこが柳園だった。
柳園駅は小さな駅で、切符売り場の列もたいしたことはなかった。敦煌のホテルで同室だった西洋人の女性の一人もその列の中にいた。一応、顔見知りだったので挨拶をすると、「中国語はできるのか」とか、「どこまで行くのか」とか聞かれた。お互い言葉も不自由だし大変ですね、という雰囲気で話した。彼女は取り敢えず蘭州まで行って、そこで蘭州始発の列車の切符を手に入れるつもりらしかったが、僕には時間的余裕はないので、北京までの無座の切符を買う。
3時40分頃、北京行き70次列車の改札が始まった。とにかく、乗ったら寝台を確保する努力だけはしてみよう。そう思ってホームに立った。そして、包子を買込み、腹ごしらえをした。
3時47分、定刻通り緑色の長い編成の列車がホームにすべり込んできた。中国人達は、例によって入口に殺到するが、比較的客が少ないため、たいした混雑にはならず助かったと思っていると、一人の男を別の男がゴムチューブを振り回して追いかけてきた。逃げている男の方が、僕の乗ろうとしていた入口に飛び込んだ。すると、追いかけている男が振り回しているチューブが僕の顔面を直撃した。その男はもちろん詫びを言うわけもない。そのまま、逃げる男を追いかけて行ってしまった。前途多難を思わせる乗車だった。
乗車後すぐに列車弁公所という、車内の切符売場に並んだ。寝台を確保しようというい中国人もたくさんいたが、僕は列の一番前の方で、絶対割り込ませないぞと頑張っていた。しかし、係りの列車員が来て、中国人乗客と話しているのを聞いていると、「寝台はまったくない」と言っているようである。しきりに「メイヨウ(没有=ないという意味の言葉で、かつては中国旅行をしているとニイハオ(こんにちは)・ザイチェン(さようなら)・シェシェ(ありがとう)以外では一番最初に覚える言葉であった-今はそうでもないらしい)」と聞こえてくるのである。念のため、紙に「寝台はあいていないか」と書いて尋ねたが、答えは「没有」であった。
硬座車は超満員というほどではなく、まだ、通路は楽に通れる状態だった。「まあ、これならいいか」と思いながら、最後の望みを列車長との交渉に託した。
食堂車に行くと列車長がいた。腕章をしているからすぐにわかるのだ。こわそうな女性だった。そこでは、さっき弁公所で列車員とかけあっていた黒ぶち眼鏡の割と品のよい中国人のおじさんが、彼女と話をしていたが、どうも交渉不成立のようであった。
彼の後、僕は笑顔で、寝台の有無を尋ねる紙片をさし出した。笑顔を作ったのは、ここで列車長の機嫌を絶対に損ねないためである。彼女の機嫌を損ねては、あるものも「ない」と言われかねない。
彼女は「どこの国の人間だ」ということを紙に書いたので、「日本人」だと答える。そうしたら、軟臥(一等寝台)ならあるという文字が書かれた。ラッキーである。柳園で降りて敦煌へ行き、そこから酒泉に出てから北京行きに乗っていたら、寝台はなかっただろう。遠回りをしたが、無駄ではなかった。
すぐに「可以(OK)」と書いた。横で僕の交渉を見ていた、さっきのおじさんが、「可以」の文字を見てびっくりしたように笑った。「こいつ金あるなあ」と思ったのだろうか、それとも「中国語のそんな表現知っているのか?」と思ったのだろうか。
列車長は、何やら紙に書いてこれを弁公所に持って行けと指示してくれた。言われた通り弁公所に行きその紙を見せると、何も言わずに切符を作ってくれた。さっき、「寝台はない」と言っていた列車員がである。
その切符を持って、再び食堂車に行くと、隣りに連結されている軟臥車に案内された。四人部屋のコンパートメントの三つのベッドはうまっていて、先客はかっぷくのよい中国人のおじさん達だった。僕のベッドは上段。
軟臥車全体を見回すと、あいているベッドはそこだけのようだった。連れがいたら、列車長に「メイヨウ」と言われて、硬座車の床にでもすわっているところだった。
列車の中で一人の日本人男性(N氏)と出会い、招かれるまま彼の部屋へ行った。西洋人、中国の青年、ウイグル族のおじさん、そして彼がそのコンパートメントのメンバー。
西洋人は、トルファンから乗車したドイツ人で、なぜか二人で一つのベッドしか使わせてもらえず、交代で寝ていた。変則的な使い方だが、これも列車長の判断なのだろう。そのおかげで、僕が一つのベッドを使わせてもらっているのだが。
中国人青年は、ウーさんといい、商用を終え、ウルムチから武漢に帰るところだという。
ウイグルのおじさんとは、あまり話をしなかったが、お共の青年を一人つけており、共産党のお偉方であることが、後で手帳を見せてもらってわかった。
その他、硬臥車に一人ドイツ人女性がいて、その部屋によく遊びに来ていた。
柳園から北京まで、この人達と列車の中で「生活」することになったが、食事の時はだいたいウーさん、N氏と僕の三人で食堂車に行った。ウーさんは、小さなダンボール箱いっぱいのブドウを積込んでおり、それをしょっちゅう回りの人間に配ってくれたので、食事の後には、必ずデザートがつくことになった。
乗車2日目、この日は、午前中ちょうど峠越えがあり、線路が蛇行しているので先頭車が見えて面白かった。見ると、SLの二重連ではないか。3000メートル級の峠のはずだから、随分高い所を走っているのだ。ただ、一気に3000メートルを登るのではなく、海抜0メートルより低いトルファンからじょじょに高度が上がって来るという地形なので、驚くような急勾配をのぼるわけではないが。高原を走っているせいか、景色も違う。緑も多い。
峠越えにかかる70次列車(軟臥車の部屋から撮影)。こんな光景が見られたなんて、今(2007年)考えても本当にラッキーだった。 |
車窓の景色がまた水気のないものに変わって、5時少し前、甘粛省の省都蘭州に着いた。さすがに人口200万を数える大都市の駅だ。たくさんの人が降り、そして乗った。
食堂車。朝のメニューは麺のみだったが、昼・夜は何種類かの料理があった。軟臥車には食事時が近くなると食堂車の係員が食券を売りに来る。麺は牛肉麺というやつで、あっさりしていてけっこういけた。 |
蘭州駅。ホームまで車が入って来るとはびっくりだ。くる。 |
蘭州駅にて。 |
約15分の停車の後、列車はゆっくりと動きだした。ほこりっぽい、緑の少ない、いかにも暑そうな街並を抜けると、進行方向左手に炎とともに黒煙が上がっていた。列車はその横をゆっくり通り過ぎていった。見ると、たくさんの人が集まっていた。それも野次馬ではなく、ジープ、トラックに乗った解放軍の人達だ。相当な事故のようだが、我々の列車には影響はなさそう、と思った。
しかし、列車は、なぜか黄河を渡った。西安方面に行くならば、渡らないはずだが…。しばらくして、どうしてかわかった。車内放送を聞いたウーさんが、紙に書いてくれたところによると、蘭州で石油車の爆発事故があり、列車が進路を変更して、銀川、包頭といった内モンゴル自治区(京包線)を経由して北京に行くことになったということだった。そういえば、蘭州駅では、「西安どうのこうの」というアナウンスが流れていた。しかし、それにしても、鄭州で乗り換えて武漢に向かうという予定が目茶苦茶になってしまったウーさんは、たいして気にしている風でもない。大陸人気質とでも言うのだろうか。
京包線経由の蘭州-北京の特快列車の時刻表を頼りに、北京到着時刻を推定すると、2日後の朝4時ということになる。当初の予定では、北京着が夜11時近くで、ホテル捜しをどうしようかと思っていたが、その必要がなっくなったとN氏と喜ぶ。
乗車3日目。一夜明けると、景色はすっかり変わって、一面の草原となった。時々、羊の群れも見かけられる。鄭州で黄河鉄橋を渡るのを楽しみにしていたが、内モンゴルの方もまたいい。思わぬ進路変更は楽しいものとなった。<BR>
内蒙古自治区の風景。最初は新鮮だったが、平原がずっと続くので、そのうち飽きてくる。 |
午後7時頃、割と大きな駅に着いた。どこかと思ってホームに出るて駅名標を見ると包頭だった。蘭州を出た後たてた計算よりも7時間も遅れている。あまり遅れられるのも困ったもので、明日の午後の便で帰国できなくなる。しかし、京包線に入って、どんどん遅れが増しているようだ。もっと遅れることを覚悟しなくてはいけないと考えなおす。
乗車4日目。朝食は麺だけの単一メニュー(朝食はずっと麺)。これが、この列車での最後の食事になるかどうかは、まだわからない。ただ、今日じゅうには、北京に着けそうだ。
12時過ぎ、車窓に万里の長城が現われた。車中から長城が見られるとは。これも、進路が変わったおかげだ。
青龍橋という長城を横切る位置にある駅に停車すると乗客達は、どっと見物に降りた。僕もカメラ片手に飛び出す。2~3日前には考えられなかった鮮かな緑の中に、うねうねと長城が伸びている。旅の締めくくりは、素晴らしいものとなった。
ホームに発車のムードが漂い乗車する。青龍橋駅は、スイッチバックになっていて、いま来た方向に列車は動き出す。しばらくすると、食事の用意ができたと食堂車の方から連絡があった。最後の食事も麺であった。
青龍橋駅と万里の長城。 |
ちょっとわかりにくいが長城が見える。しかし、窓から顔出し放題。 |
2時半頃、北京到着。まる3日(3泊4日)の汽車旅も終わった。ウーさんは駅から出ずに、武漢に向かい、N氏と僕はホテルを捜しに北京の街に出た。3日前までにいた西域とはうって変わって、北京の空気は湿気を含んで重かった。
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