嘉峪関で後輩とバッタリ
ウルムチで1泊した後、列車で酒泉に向けて出発した。
国際旅行社を通じて購入したのは、14時16分発成都行き直快の硬臥(二等寝台-三段ベッド)。僕のベッドは下段だったが、昼間、下段は必然的に共用の座席になるので、上段、中段の人もすわる。僕のボックスには、解放軍兵士1人、女の人が3人、中学校の先生1人が一人いた。全部中国人である。
だんだん、車窓から、水気が無くなってゆく。そして、暑くなってゆく。17時51分、トルファン発。ここからは、未乗車区間だが、景色はずっと同じである。しかし、日が暮れると、窓から入る風が肌寒くさえ感じるようになってきた。
こんな感じの景色がずっと続く。 |
中学の先生をしている男性はマーさんといい、英語で話したり、英語に漢字混じりで筆談をした。彼に日本のことなどを話すと、彼はそれを回りの中国人に通訳した。
マーさんは、柳園で降りて、一緒に敦煌へ行って、その後、彼の故郷(だったと思う)玉門へ行こうと言ってきたが、僕は「柳園の先の酒泉まで行くから」といって断った。敦煌に行くには柳園からの方が圧倒的に近く、かつ酒泉まで行ってから敦煌へ向かうというコースは、逆戻りする形になり時間の無駄が大きいのだが、寝台券を確保できる可能性を考えるといったん酒泉に行った方がよいだろうと考えたのだ。
当時、寝台券の確保は困難を極めていて、敦煌の国際旅行社に依頼した場合、5:6日後以降の切符しか確保できないと思われたが、そんなに待っている時間的余裕はない。そして、当時、鉄道の切符の販売開始は乗車の3日前からだったので、いったん酒泉に行き、駅で3日後の北京行の列車の寝台券を確保したのち、敦煌へ行き、敦煌観光、そして酒泉に戻って北京に向かうというのがよいだろうと考えたのだ。
なぜ、そんなに寝台券にこだわるのか? それは硬座(背もたれは垂直で座席は文字通りの硬座)や無座(これも文字通りの無座で、通路にすわるしかない)は何としても避けたかったからなのだ。
乗車2日目の8時35分定刻通り柳園着。マーさんとは「敦煌のバス駅で会いましょう」と約束して別れた。
柳園を出てから6時間半、車窓には、相変わらず砂礫がごろごろとして、草がポツポツと生えているだけの、ゴビタンが続いている。最初のうちは、この乾燥しきった風景も珍しく楽しかったが、もう完全に退屈になってきた。そうすると、左車窓のはるか向こうに何やら城のようなものが見えてきた。嘉峪関だ。嘉峪関からは、かつての長城の残骸がこちらに向かってのびている。明日は、あそこからこちら側を眺められる。
車中から望んだ嘉峪関。ウルムチ-柳園-敦煌-酒泉というルートをとっていたら見られなかった景色だ。 |
嘉峪関を過ぎると酒泉はすぐだ。15時50分、定刻通り酒泉の駅に着く。駅で翌日発売の北京行の切符のことを尋ねようと考えないでもなかったが、当時の中国の鉄道にはサービスという概念が無く、「明日来い」の一言でかたずけられる可能性が高いので、すぎに駅舎を出た。
駅前には何もなかった。どうやら、街は相当離れた所にあるようだ。酒泉駅で降りた外国人は僕一人。駅前には、すぐにバスが来た。なんだかよくわからないが、おそらく酒泉市街行きのバスだろうと思い飛び乗る。バスは畑作地帯をしばらく走る。車掌が乗車券を売りに来たので、適当に金を出すと、切符とおつりをくれた。おんぼろバスに揺られること20分、街の中に入って行く。窓の外には酒泉のシンボル鼓楼が見えてきて、バスは、そのすぐ近くで止まった。ガイドブックの地図を頼りにちょっと歩くと、めざす酒泉賓館はすぐにみつかり、部屋も確保できた。
鼓楼。 |
酒泉の街。今はすっかり変わってしまっているのだと思う。 |
翌日、6時頃、まだまっ暗なうちに起床。北京までの寝台券を買うための早起きだ(競争率が高そうなので出遅れは致命傷になる)。
外に出ると、鼓楼近くにある長距離バス乗り場では、敦煌行きと蘭州行きのバスが発車を待っていた。客達は例によって、大きな荷物を屋根の上に上げている。翌朝、自分もこのバスに乗って敦煌に行くことになっている。
6時半、酒泉駅行きのバスが来た。すいていた。車中はあかりもなく、ほとんどまっ暗で、人々は無言だ。窓から入って来る風が冷たい。途中で明りがついて、車掌が切符を売りに来た。そして、切符を売り終わるとまた明りが消された。
7時前、まだ、薄暗いなか酒泉駅に着いた。切符売場をのぞくが、壁の張り紙で、酒泉駅には北京行き70次列車の寝台券の割当てのないことがわかった(当時切符の販売はオンライン化されておらず、各駅に割り当てられていた。基本、途中駅に割り当てられる数は少ないのだがゼロとは)。
これで、帰りは、ほぼ確実に無座だ。半ば覚悟を決めて、街へ行くバスを待った。
かなり明るくなった7時20分頃、西安からの直快列車が着き、たくさんの客が降りた。その中に日本人とおぼしきバックパッカーがいた。「日本人ですか」と一応確認する。この確認、ちょっと滑稽でもあるが、この確認をせずに話をすると香港の人だったりする可能性もないわけではない。バスが来たので、まるでガイドきどりで「これです」とかなんとかいいながら、乗り込む。運賃も知っているから教える。
僕は日本人氏を酒泉賓館まで案内し、朝食をとってから嘉峪関へ向かった。
嘉峪関行きのバスは、西に向かうまっすぐな並木道を走って行き、30分くらいで嘉峪関の街に着いた。
ここから嘉峪関の砦までの行き方がわからなかったが、すぐにワゴン車がやってきて、客引きが降りて来た。砦に行く車だった。
砦に着くとのすぐにその上に登った。雪を戴いた祁連山脈が美しい。ずーっと、ボーッとしていたい気持ちだった。しかし、そのとき、僕の視野に見覚えのある顔が入った。まさか、大陸の奥深いこんな所で……。その顔は、大学の研究室の後輩のようにも見えたし、違うようにも見えた。女友達と2人連れだったので、よくいる香港人のカップルかとも思えた。顔は確実にあの男なのだが、場所が場所だけに確信できないのだ。こちらから声をかけることはできなかった。その男は、だんだんこっちへ近づいて来るし、どうしようかと思っていると、向こうが「アーッ」と言って指をさした。やっぱり、I君だった。何と言っていいのかわからない感じだった。砦の上で、自分の世界に浸り切っていたのだが、いっぺんに現実に引き戻されたような感じでもあった。
I君は、広州から入国して、桂林、蛾眉山、成都を経てここまでやって来たとのことだった。
I君達とは、砦の上で別れ、僕は向こうの線路を通るSLをカメラで狙う。しかし、なかなか通らない。別に鉄道写真を撮りに来ているわけではないので、SLの写真はあきらめて、カメラに残ったフィルムの最後の一コマで砦の写真を撮って出口へ向かおうとした。しかし、その時、遠くから汽笛の音。しかし、ホテルにフィルムを置いてきてしまったので、最後の一コマを撮った後、新しいフィルムを入れていない。祁連山脈をバックに長城の残骸を横切るSLの写真に未練を残しながら僕は酒泉へ戻った。
嘉峪関の門。 |
嘉峪関から祁連山脈を望む。 |
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