マハディア、モナスティール <5日目(8月20日)>8時半すぎにホテルをチェックアウトし、ルアージュ・ステーションに8時50分頃到着。モナスティール行きの車のところに行くと、すぐに客がそろって、9時には出発。順調な滑り出しだ。 10時10分、モナスティール到着。 モナスティールはスースの南東20kmに位置する街で、ビーチリゾートとして有名である。しかし、その歴史を見てみると、もともとはフェニキア人によって開かれ、その後ローマの支配下となった。8~11世紀には、ケロアンを首都とするアグラブ朝によって海岸防備のための軍事基地が置かれた。 また、チュニジアがフランスから独立を勝ち取り初代大統領となったハビブ・ブルギバの出身地として有名で、彼により近代化が進められた。 長い歴史を有するものの、近代的な街、ビーチリゾートというイメージが強いので、この日は、モナスティールからさらに南東に40kmくらい行ったところにあるマハディアに移動して1泊するつもりだった。「急激に進む観光化の波を逃れ、土地の生活が守られ穏やかな空気が流れている」という『地球の歩き方』(04~05年版)の記述にひかれたのだ。 しかし、モナスティールに到着してマハディア行きのメトロの出発を待っているうちに気が変わり、モナスティールでホテルを確保して、荷物を置いてからマハディアに出かけることにした。 モナスティールはあまり見どころの多そうな街ではないが一応見ておきたい。マハディアに泊って、モナスティールに寄ってからだと、次の目的地エルジェムの到着がやや遅くなる。 エルジェムには泊らず、観光の後、鉄道でチュニスに戻るつもりなので、エル・ジェムにはなるべく早く着いていたい。ということで、メトロの駅からあまり離れていないところにあるホテルに部屋をとって身軽になってからマハディアへ向かい、マハディアから戻った後、モナスティールもちらっと観光することにした。
まず、ホテルの部屋の確保だが、すこし手間取った。まだ、11時くらいだったので、当然チェックインはできないのだが、12時にならないと部屋があくかどうかがわからないという。メモには詳細を記していないので、わからないが12時にまで待つかどうか迷ったあげく、見切り発車で荷物を預かってもらって、11時半すぎにホテルを出て、早目の昼食をとってからマハディア行きのメトロに乗車した。 メモによると、乗車したメトロは定刻12時25分発(実際には30分出発)とあるが、もっと早い列車に乗ることはできなかったのか? 13時40分、マハディア到着。 到着後、すぐにメディナへ向かった。ちなみにマハディアの駅からメディナは近い。 マハディアは小さな半島に形成された町で、ファティマ朝が最初に都を置いた場所である。海に囲まれており要塞に適しているというのが、この場所が都として選定された大きな要因で、10世紀初めに町が作られたとき、半島のほとんどが10mの壁で囲まれ、半島の付け根のあたりに、スキファ・エル・カール門が建てられた。 その後、10世紀後半にはファティマ朝はエジプトのカイロに都を移し、マハディアはジール朝に支配され、そのジール朝がファティマ朝と敵対したことから、マハディアはファティマ朝によって攻撃される。その後、曲折を経て、14世紀にイブン・カルダンによって町は再建される。現在のメディナはその時代に形成されたものだそうだ。
14時40分(定刻は30分)のメトロでモナスティールに戻る(15時40分すぎ到着)。 ホテルに行くと部屋は確保されており、メモによると、すぐに観光にでることはせず、洗濯をしている。 マハディア観光がものすごく駆け足になったのは、洗濯の予定を入れていたからかもしれない(日のあるうちに洗って、翌朝までに乾いている状態にしたかったのか?)。 17時半ころ外出し、観光っぽいことをしたり、ネットカフェに行ったり(メモにはこの時、甲子園で駒沢大苫小牧が優勝したことを知るとある)、両替をしたり、夕食をとったりした。 夕食を終えたころ、雨が降り出し、遠くでは雷鳴がとどろいた。
|