トルコの若い女先生グループに引っぱり回される


<6日目>
当初はディヤルバクルを拠点にハサンケイフとミディヤットへ行こうかと思っていたが、ディヤルバクル市内の警戒態勢を見て、トルコ政府が危険度が高いと認識している街に敢えて長居することもないだろうと思い、荷物を持って出発した。

まず、ドルムシュでバトマンに出て、そこでドルムシュを乗り換えハサンケイフへ向かった。ディヤルバクル-バトマン間の所要時間1時間15分、バトマン-ハサンケイフは30分。10時半、ハサンケイフに到着。

ハサンケイフはティグリス河畔に残る遺跡で、『歩き方』に載せられている、12世記に架けられた橋の橋脚の写真が非常に印象的だったので訪ねる気になったところだ。『歩き方』には「秘境」という記事もあるが、ディヤルバクルからの所要時間は、わずか2時間弱。交通の便は極めてよく、いわゆる秘境ではない。外国人観光客は多くはないようだが、子どもたちは英語で話しかけてくる。そして、なぜか最後に「マネー、マネー」と言ってきた。観光ずれは、好奇心旺盛な子どもたちから始まっているようだ。



ハサンケイフの街。




城跡に登る途中、ハサンケイフの町を望む。




こんな城門も残っている。しかし、日差しが厳しい。たいした上り坂ではないが、バックパック背負っての観光はかなりきつかった。




城跡の上から望んだティグリス川と橋脚の残骸。




ハサンケイフには岩窟住居跡が沢山残っている。写真はティグリス河畔にある岩窟住居(だと思う)を利用したレストラン。ティグリス川で捕れた魚のグリルを食べたが、やたらと骨の多い魚だった。魚、サラダ、コーラ、パンで600万トルコリラ(約500円)。都市部のちょっとしたレストラン並みの値段だった。




現代の橋から見た12世紀の橋脚。



ハサンケイフの入口でミディヤット方面へのドルムシュを待つこと30分、12時半ころ、1台のドルムシュ風の車が停車した。「ミディヤット?」と聞くと、「乗れ」というジェスチャー。非常に順調だ。

出発を待っていると、若い女性のバックパッカー3人組が乗り込んできた。西洋人グループではなく、トルコ人のようだ(あとでわかったのだがイスタンブールの小学校なのか幼稚園なのかわからないが-言葉の問題で-先生をやっているということだった)。

車が出発してしばらくたつと、3人のうちの1人が運転手と何か話を始めた。これがトルコ語だったので、彼女たちがトルコ人であることがわかったのだが、トルコ語であることはわかるが、トルコ語はわからないので、会話の内容は不明。ただ、もめているという雰囲気は伝わってきた。しかし、「セキズミリオン(800万)」という数字が聞こえてきて、やがて彼女と運転手の会話が友好的なものになった。

すると、3人の中の片言の英語を話せる1人が「この車はまずヌサイビンに行き、その後ミディヤットに行くが、あなたはそれでいいか」というようなことを聞いてきた。ヌサイビン? 初めて聞く地名だ。ガイドブックを開いて地図を見ると、シリア国境の町である。しかし、なぜヌサイビンなのかがわからなかった。「なぜ?」と聞いても、彼女はそれを説明できないでいた。それぐらい片言の英語でのやりとりだった。なんだかわからないが、「OK」と答えた。なんせ予定がない旅である。

あっという間に本来の目的地ミディヤットを通過。その後も片言の会話を進めたが、だんだんと彼女の言っていることが理解できてきた。つまりこうである。彼女らはドルムシュを貸切にしようと運転手と交渉し、その際、僕も一緒に観光することを前提に、ハサンケイフ-ヌサイビン-ミディヤットを一人800万リラということで交渉していたのだ。

しかし、まだ、なぜヌサイビンなのかはわからない。

2時ころ、ヌサイビン到着。ボーダー近くで彼女らは車を降りた。「一緒に行こう」というので、いわれるままついていくと、どうも国境を越えようとしているらしかった。ボーダーの警備にあたっている兵士となにやら会話を始めたのだが、兵士の言葉のところどころで「パサポルト(パスポート)」という言葉が聞こえてきたのだ。

おそらく、彼女等と兵士の間で次のような会話が交わされていたのだろう。

「ねえ、私たちイスタンブールからきたんだけど、シリアにちょっと行って帰って来れない?」「いやあ、国境を越えるにはパスポートが必要なんだ。だから無理だよ。」

国境の緩衝地帯にそれとみてすぐに古代の建築物とわかるものがあった。そういう遺跡がゴロゴロしている場所なのだ、トルコ・シリアというところは。「もしかしたら、いつかシリアから国境を越えてこの街にやって来るかも」と思いながら、その建築物を眺めた。

彼女たちも兵士の言葉に納得したらしく、今度はバザールへ向かった。別になんの変哲もない普通のトルコ風商店街である。そこに行って彼女たちが何をするのかと思っていると、何軒かの電気店に入って盛んにデジタルビデオカメラの値段を聞いている。「本当に買う気あるのだろうか」「あるわけないな」「こんなものイスタンブールでいくらでも見られるだろうに」。そんなことを思いながら、彼女たちに付き合っていたが、この間、小学校低学年くらいの男の子とちょっとしたゲームのようなものを楽しんでいた。バザールにやって来てすぐに靴の所に何かをこすり付けられるのを感じた。びっくりしてみると、小学校低学年くらいの男の子が、ブラシで僕のトレッキングシューズの砂埃をほろおうとしていた。もちろん目的はお金なのだろうが。こちらが彼から目を離した(離したふりをした)瞬間にブラシで靴をこすろうとする。そこでサッと足をうごかして逃げる。僕が彼女等のいつまで続くかわからないショッピングに付き合う間(彼女らは何やら布切れを買った)、ずっとそんなことを繰り返していた。



ヌサイビンの街。「ゲームのようなもの」を楽しんだ少年も写っている。



ヌサイビンからの帰り、清冽な湧き水(?)が流れている公園のようなところで大休止しこともあって、ミディヤットに着いたころには5時半をまわっていた。これで今日のミディヤット観光は無理である。しかし、ミディヤットの街外れで、また彼女たちは運転手と長い交渉。何をもめているのかわからなかったが、30分ほどして出発。本当はミディヤットで降りるつもりだったが、ここはとことん彼女たちに付き合うことにした。
 出発した直後、今度は修道院に行くという。またまた僕に何も聞かず、僕も行くということを前提に運転手の交渉していたのだ。やれやれである。行き先は聖ガブリエル修道院という世界でも最も長い歴史を持つ修道院。車をチャーターでもしないと行けないところなので、こっちにとっては好都合だが、修道院についたのは6時半。入口はすでに固く閉ざされていた。「もうしまっているよ」というと、彼女たちは「大丈夫」と自信満々。<BR>
 修道院の人と交渉では、やたらと「イスタンブール」という言葉が聞こえた。「私たちイスタンブールからわざわざ来たんだから何とかならない?」 そんな感じだった。そうするとどうだろう。我々一行に修道院の見学を許可してくれたではないか。恐るべしトルコのおばさん予備軍3人組。</TD>



小休止した公園。




聖ガブリエル修道院。




開くはずがないと思われたが扉が開き、中に招き入れられた397年創建という長い歴史を持つ修道院。修道院のガイドが案内してくれたが、すべてトルコ語のため何を見たのかよくわかりません。



7時、ミディヤットに戻ったが、かなりひどそうなホテルしかなさそうなので、彼女たちとともにマルディンへ向かうことにした。そして、ここでまた、彼女たちと運転手の長い交渉。すでにバスなどの便がなくなっており、運転手側がかなり強気に出ている模様。結局、街で拾ったマルディンへ行くというトルコ人カップルを含めて1人600万で妥結して(翌日わかったのだが通常は400万)、7時半出発。

9時少し前にマルディンのビレンホテル前で降ろしてもらい、長い1日終了。しかし、なかなか面白い1日だった。


<7日目>
ミディヤットはあきらめたつもりでいたが、やはり石造りの家が残り、その中に教会の鐘楼も見られるという街並みが気になった。そこで午前中にマルディン-ミディヤットを往復。

ミディヤットはのどかな感じの街だったが、市場では2人組のトルコ軍兵士が見回りだろうか、巡回していた。ただ、彼らの表情には緊張感がなく、治安上の問題はあまりないような雰囲気だった。



ミディヤット。




ミディヤット。




ミディヤット。トルコの西の方には、こういう石造りの古い家並みが続く旧市街が残るところはない。なんとなくトルコにいるという感じがしない。



昼頃マルディンに戻り、市場近辺を散策。マルディンの旧市街も石造りの古い家並みが残る、雰囲気のあるところだったが、やはり日差しがきつい。ちょっと疲労気味でもある。小一時間の散策で切り上げ、あとはホテルで休息とした。



マルディン。




マルディン。




マルディン、ウル・ジャミイ。