ウルムチ-敦煌-北京 さて、最初に書いた通り、今回の旅行は旧ソ連のビザの関係で日本の旅行会社に手配をお願いし、現地旅行会社がチケットの手配などを行ってくれるという形をとっている。ウルムチのホテルまでは前もって確保するように頼んでいた(その先は自分で何とかするつもりだったと思う)。 ウルムチ到着日は予定通りだったが、出国前に組んだスケジュールは崩壊して当初予定していた列車も幻(?)の列車なので、ウルムチ駅に来ることになっている旅行会社のガイドの出迎えがあるかどうかもあやしい。 ウルムチでのホテルは6年前にも泊ったことがあるところで場所も知っているので、当初からガイドと落ち合うことはあきらめ、自力でホテルへ移動した。しかし、チェックインの手続きをしていると、何とガイドが現れた。 15時半すぎガイド氏にとともに、次の目的地である敦煌の最寄駅柳園までの寝台券について相談するためにCITS(中国国際旅行社=当時、外国人旅行者への対応は基本この会社が行っていたと思う)へ行った。対応してくれたウイグル族の男性は完璧な日本語を話し、こちらの意思がよく通じて助かったが、寝台券は3日前までに申し込まなければ手配が難しく、駅の外国人窓口へ行くことを勧められた。 それから柳園-北京の列車の寝台券の手配について敦煌のCITSに連絡して欲しいとお願いすると、軽くOKしてくれ、敦煌のCITSのJ氏を紹介してくれた。 まだ、中国元を持っていなかったのでCITS近くの中国銀行で両替し、ウルムチ駅へ向かった(こからは自力一人旅)。 駅に行ってみると外国人窓口だという13・14がない。インフォメーションで尋ねると「中の者に聞け」と言う(メモにこうあるのでインフォメーションは入口の外にあった模様)。駅の入口にいる公安に聞いたら「1番」だと言う。1番の窓口にできている行列の最後尾につくと、前に西洋人の女性が並んでいたので「ここは外国人用の窓口ですか」と聞くと、彼女もわからないらしく「まわりの中国人はそういっている」とのことだった。しかし中国人も並んでいるので外国人専用というわけではないことだけはわかった。 列は順調に進んだが、自分の5~6人前の所で窓口が閉まってしまった。どうやらこの窓口の分は完売したようだ(オンライン化されていなかったので、駅や窓口に切符販売の割り当てがあり、その割り当て分しか売られなかった)。他の窓口はまだ開いているが、いまさら他の列の後ろについても手遅れだろう。明日、だめもとでもう一度並び、それでだめなら乗車券なしで直接列車に乗り込み、車内で切符を購入するという手を使うしかないだろう(当時はこんな手も使えたのだ)。 しかし、実は一つだけ光明があった。列に並んで紙に行先を書いていると、「切符はいらないか」と声をかけてくる連中がいることだ。この日は直接窓口から買うつもりで列に並んでいたが、いざとなったらそういう連中と話をしてみよう。 8月24日。 朝、8時40分ころからウルムチ駅の切符売り場に並んだ。現地人は北京時間から2時間遅れくらいで動くので、まだ「早朝」という時間帯だ。 10時に窓口が開いたが、割り込みが激しく列が全然進まない。しかし、期待通り、この日の柳園までの切符を持った人間が現れた。人民料金58元の硬臥の切符を兌換紙幣100元ということで商談成立。当時、列車の運賃などには人民料金と外国人料金(人民料金の1.88倍くらいだったか?)があり、紙幣にも人民幣と外貨を両替した際に渡される兌換紙幣というものがあった。そして、兌換紙幣には闇市場のようなものがあり、人民幣よりも高い価値で取引されていた。 某ホテルの旅行社に勤めているというこの男(実際の勤務先は教えてくれた)は「絶対中国人から買ったと他言しないこと。中国人が外国人に切符を転売することは禁止されている」と言ったが、もとよりそのつもりである。 ホテルに戻ってチェックアウトした後、友誼商店に行ってオレンジジュース、缶コーヒー、ビスケットなど当時友誼商店くらいでしか手に入らないものを購入した。
詳しいメモがないので、列車がウルムチを何時に出るものだったかわからないが、まだ、明るい時間帯だったと思う。 乗車後、すぐに3段ベッドの上段に横になった。ほどなく服務員が換票のためやってきたので、ベッドから手を伸ばし、切符を渡し寝台の番号が記された小さな札をもらった(これを換票といい、下車駅が近づくと列車員が乗客のところへやって来て到着が近いことを知らせ、札を回収して切符を返してくれる。深夜・早朝の到着でも寝過ごすことがない、よくできたシステム。) この後のメモがないので細かいところはわからない。 柳園には25日に到着。 恐らく翌日の26日、バスで敦煌に移動。 敦煌へ行ったのは、再度莫高窟を見学したかったのと、仕事の先輩が割と大きなグループを組んで中国ツアーを行い、敦煌まで来るということだったので、その一行と少しだけでも落ち合うためだった。もちろん敦煌まで行ったからには鳴沙山にも行っておきたい。
仕事の先輩御一行様とは、莫高窟から敦煌市内に戻った後、敦煌賓館で会うことが出来た。 一方、ウルムチの国際旅行社の職員に紹介された人物(J氏)とも首尾よく会うことができた。 しかし、柳園-北京間の列車のチケットはやはり一筋縄ではいかず、簡単には手に入らない感じ。たまたまJ氏が同じ日に北京に向かうということで、29日、朝8時半に柳園駅で待ち合わせることにした。ただ、J氏の助けを受けられるかどうかは、まだわからない。 8月28日、柳園へ移動。 8月29日、8時半に柳園駅へ行くが、J氏はなかなか現れない。 切符売り場には長い行列ができており、切符を買うのはかなり困難な感じで、切符なしで列車に乗り込むことを覚悟した。 8時48分、やっとJ氏現れる。J氏の知人の駅員のとりはからいで、長い列に並ばずに切符を購入できたが、やはり寝台券はとれず、さらに座席もとれず恐怖の無座だった(あいている席にすわることはできるが基本満員なので文字通り座席がないのが普通)。 わりとすぐ乗車開始(手もとにある古い中国の時刻表によると北京行きの列車は9時9分発となっているからかなりバタバタな感じだったと思う)。 ただし、軟臥の切符を持つJ氏と無座の自分は同じ車両の入口からは乗れず。中で落ち合うことにしたが、硬座車の服務員が無座では乗車できないと押し返される。紙きれに「中に中国の友人がいる」と書いて、ようやく通してもらう。 しかし、無座の切符を売っておいて乗せないとは。だた、実際に乗車してみると硬座車はひどい混雑でもう乗客の入るスペースはない状態だった。 その後、J氏のところまで何とか移動したが、J氏曰く「夏休みの終わりが近づいて北京へ帰る学生が多いので混雑がひどい」ということだった。 J氏の助けがなければかなりまずいことになっていただろう。 さて、強引に乗車したものの、もちろん寝台車は満員(一応、予備に一つや二つ空けておくことになっているようだが)。J氏もまずいという顔をしている。そして「列車長にチップ(要するに賄賂)を渡さなければならないかも」とも。 J氏は軟臥車(1等寝台に相当)担当の列車員の女性に話をして、列車長への取次をしてもらえることになった。この列車員、北京の友誼商店で金のネックレスを買いたいのだが、そのため兌換券が欲しいと言っており、彼女手持ちの人民幣と兌換券を交換してあげるという条件で列車長に話をしてくれるということだった。 彼女が欲しい兌換券は200元分。しかし、このとき僕は200元も持っていなかったので、J氏に両替してあげると言われ、トイレに隠れて両替。 そうしている間にJ氏と同じコンパートメントにいた人物が別の部屋に移されて僕の寝台が確保された。 その後、列車員の彼女と200元を交換したが、彼女のうれしそうな顔といったらなかった。 これでいいのか? という思いが残った。当時の中国では普通に行われていた行為ではあると思うが。。。 8月31日。 柳園からの2泊3日の列車旅を終えて北京到着(てもとの時刻表では定刻は14時40分だが、メモによると前日すでに遅れが出ていたので、到着も遅れたかもしれない)。 メモがないので、J氏とどのような感じで別れたのかはわからないし、その日のホテルをどうしたのかも不明だが、ホテル探しに苦労した記憶はない。87年に北京を訪れた時のようなホテル不足は解消されていたのだと思う。 さらにメモがないので、北京に1泊しかしなかったのか2泊したのかも不明。(北京は1泊だけで観光も下の写真の景山公園だけだったかも)
終わり |