| パムッカレ、カラハユット |
| <パムッカレ> パムッカレは温泉地で、その湯は高さ100mに及ぶ台地の斜面を伝って流れ落ち、湯に含まれた石灰分が結晶して階段状の石灰棚を形成している。しかし、乱開発のため温泉の湧出量が減少し、斜面を流れる湯量を抑え、また、景観保護のため石灰棚への自由な立ち入りは禁止され、遊歩道を歩いたり(裸足になる必要がある)、一部の石灰棚に入ることができるだけになっている。ここへは1988年11月、1992年3月、2002年8月に訪れている。1988年にはまだ、シーズンオフの11月であるにもかかわらず、石灰棚にどんどんお湯を流していた(残念ながら撮影済みのフィルムを失うという失態を演じてしまい写真はない)。まだ、温泉湧出量の減少が問題にはなっていなかったのだろうか? しかし、1992年3月には石灰棚へはお湯を流し込んではおらず(時々は流していたのか?)、このときには温泉の枯渇への対応が強く意識されていたのだと思われる。2002年8月にはごく一部の石灰棚のみにお湯を流すように調節されており(お湯がないと美しくないし、また流すことにより白さを維持しているらしく流す場所を計画的に変えているらしい-遊歩道脇は常に流していると思われるが)、また、観光客は自由に歩き回ることが禁止されていた。
パムッカレのお湯の流れ出る台地の上にはヒエラポリスという都市があり、現在その遺跡が残っている。ヒエラポリスは紀元前190年ペルガモン王国の時代に建設された都市で、2世紀にローマ帝国の支配下に置かれ、温泉を利用した保養地として繁栄した。その後、ビザンツの支配を経て、セルジューク朝により攻撃で衰退し、14世紀半ばの大地震で都市は崩壊した。
*1988年11月の旅日記 1988年の旅ではかなり詳細な旅日記を書いていた。そのなかのパムッカレの部分は次のような感じ。 「(デニズリのオトガルから乗った)パムッカレ行きのミニバスはデニズリの街の同じところをまわりだした。客集めだ。車掌役のおじさんが「パムッカレー、パムッカレー」と叫ぶ。「パムッカレー」の後に別に何か言っているが「パムッカレーはないかー」と聞こえる。 市街地を3周ほどしてからやっと郊外への道を走り出した。20分ほどで白い段々畑のような石灰棚が目の前に現れ、その縁に沿う坂道をバスはウインウインとうなりながらのぼっていった(今は車の立ち入りはできなくなっている)。石灰棚はもっと大規模なものかと思っていたが、小さなスキー場の距離は短いが少し傾斜のきつい中上級者向けコースという感じだ。……さっそくホテル捜しだ。石灰棚の麓にいけば安宿はたくさんあるようだが、石灰棚の上にある高級ホテルを奮発する。コッテージ式で一部屋一部屋玄関が別になっており、共同の中庭には温泉プールがあるという豪華さ。しかし、一泊朝食付きで日本円換算約2500円だった。ただ、これはシーズンオフ料金だから、オンシーズンはもっとするはずだが…。チェックインの後、石灰棚を見てから、さらに山の上の方にあるローマ時代の劇場に行ってみたが、エフェソスを見てしまった目には少々物足りない。遺跡を見た後、また石灰棚に戻ってきた。この石灰棚は夕暮れが美しいと言われている。靴を脱いで棚田のようにお湯がたまっている中に足を入れる。あまり暖かくない。お湯は上の段から下の段へと流れ落ちていくので、下の段へ行くと冷たいくらいだ。陽が傾くにつれて遠くの景色が逆光にかすんで、白い石灰棚が薄いオレンジ色になってきた。丁寧に構図を決めシャッターを切る。写真の出来上がりが楽しみであったが見ることができなくなってしまった(フィルムを失うという失態を演じてしまった)。ところで明かるい時間帯は美しい石灰棚だが、夜になるとそうでもない。昼食が軽かったので、日が暮れるとすぐに空腹に襲われた。ホテルの夕食時間が8時からと遅くて、それまで待ちきれそうにないので、石灰棚の下の安宿街まで歩いて出かけたのだが、石灰棚を照らす照明が寒々として何かナイタースキー場といった感じで、なおかつ白い斜面には誰もいないので、かなり不気味な光景だった。」 <カラハユット> カラハユットはパムッカレのすぐ北にある温泉地。ここへは2011年8月、スィデからイズミルまで長距離移動した日にちょっと寄り道した(時間がなかったのでパムッカレには寄らなかった)。
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