アヤソフィア
4世紀にコンスタンティヌス2世によって建設されたキリスト教教会がアヤソフィアの始まりで、その後、2回焼失し、現在のアヤソフィアは537年にユスティアヌス1世によって建造されたものである。長くギリシャ正教の大本山としての位置をしめたが、1453年、オスマントルコのメフメット2世がコンスタンティノープルを攻略した後アヤソフィアをジャミイ(モスク)に変えた。この時は多くのモザイク画は残されたとのことだが、1700年代には残されていたモザイクが漆喰で塗りつぶされた(イスラムの教えを厳密に守ろうとするスルタンが現れたためという記憶があるが不確かな記憶なのでいずれ調べなければと思う)。

1930年代に入り、アメリカ人の調査隊により塗りつぶされていたモザイク画が発見され、アヤソフィアがビザンツ時代の文化財として脚光を浴びるなか、大統領ケマル・アタチュルクが博物館として一般公開することを決定した。しかし、2020年、エルドアン大統領のもと、アヤソフィアはモスクに戻された。アヤソフィア本堂での礼拝をアタチュルクが閣議決定で禁止したのは違法であるとして、アヤソフィアの利用権を持つ財団が行政訴訟を起こし、最高裁(トルコの訴訟制度についてはよく知らないのでこれが日本の最高裁と同様のものなのかは?)が違法であったと認定したのをうけて、エルドアン大統領がアヤソフィアのモスク化を決定したということらしい。こうした動きの背景にはトルコ国内におけるイスラムへの回帰という社会的風潮があったのだろうが、その辺のところは素人の自分にはよくわからない。

2020年にモスク化したアヤソフィアだが、その公開方法はモスク化当初と2024年1月以降とでは異なるようだ。最初は他のモスクと同様にムスリム以外も入場可で、入場は無料だったようだ。ただし、偶像を禁止するイスラムの教えを守るため、礼拝場所から見える天井の聖母子像などは布で隠されることとなった(当初は礼拝時のみ布で覆うとのことだったようだが、結局は常時布で覆われている)。また、有名なモザイク画が多数残る2階ギャラリーは非公開となった。しかし、2024年1月からは1階の礼拝場所の部分はイスラム教徒以外入場不可となり、2階ギャラリーは一般公開され(有料)、礼拝のイスラム教徒と動線が完全に分けられた。1階の礼拝場所からは見えない2階ギャラリーのモザイク画は見ることができる。

アヤソフィアは旧市街を散策する際「ちょっと見ていくか」という感じで寄る場所になっており、1988年11月、1990年3月、1997年8月、2002年3月、2004年8月、2008年3月、2011年8月、2013年3月、2019年2月の10度訪れていると思う。



アヤソフィア。 アヤソフィアはオスマン帝国支配下モスク化され、ミナレットが4本建てられたが、この写真では3本しか見えない。1本は完全に死角に入ってしまったか? アヤソフィアに行く際外観はあまり気にしたことがなく、このページを作成するにあたって初めて気が付いた。また、アヤソフィアの外壁の色が今とは違って鮮やかである。(1990年3月)




礼拝場所に入る中央入口の上の部分にあるモザイク画。(2004年8月)




一つ上の写真を拡大してみた。キリストの左右には円で囲う形で聖母マリアと天使が描かれ、キリストに対して皇帝がひざまづいて礼拝をしている様子が描かれている。10世紀初頭のものとも言われているが不明だとか。皇帝はレオン6世、もしくはバシレイオス1世と考えられているとか。2024年、礼拝目的のムスリム(イスラム教徒)と非ムスリムの動線が完全に分離された結果、非ムスリムはこのモザイク画を見ることができなくなったらしい。(2004年8月)




ドームの修復などのための足場がない状態で見られたのは、これが初めてだったと思う(この後、2013年と2019年にも訪れているが、その際には足場があった)。(2011年8月)




キリスト教とイスラム教が共存する不思議な空間。(2002年3月)




メッカの方角を示すミフラーブ。(2002年3月)




最初の頃はデイシス(請願図-後掲)を見ることが最大の目的だったが、3回目くらいからは、天井に描かれた聖母子像とアッラーや預言者ムハンマドの名などを記した円盤とが並んだこれを眺めるのが最大の目的となった(右の円盤がアッラー、左の円盤がムハンマドとのこと)。(2002年3月)




聖母子像(9世紀の作品)をズームアップして撮ったみた(たぶん、2階ギャラリー東端あたりから撮ったもの)。この時は思いがけず上手く撮れていた。(2011年8月) アヤソフィアのモスク化以降に撮られた写真を見ると、この聖母子像が1階からは白い布に隠れて見えないが、2階ギャラリーからは布の脇からかろうじて見えるようだ。(2011年8月)




2階ギャラリーに通じる通路。(2008年3月)




写真右の門のようなところから入ってくる。そこにはアヤソフィアで最も有名といってもよいであろうモザイク画「デイシス(請願図)」がある。(2008年3月)




「デイシス(請願図)」は1260年頃の作品で、キリスト(中央)に対し洗礼者ヨハネ(右)と聖母マリア(左)が罪深い人々の天国への導きを請願する場面とのこと。それ以前のモザイク画に比べてキリストの顔がより立体的に描かれており、南側の窓から入る光を効果的に利用するという工夫も施されているためビザンツ美術の最高傑作ともいわれている(モザイクは立体的で光の当たる角度で色が微妙に異なって見えるのでそれも意識して描かれているのか?)。(2019年2月)




なるほど他のアヤソフィア内の他のモザイク画とは立体感が異なる。(2013年3月)




キリストに皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエが捧げものをしている場面を描いたモザイク画(11世紀半ばの作品)。ゾエは再婚を繰り返したため、その都度皇帝の顔の部分は作りなおされ、現在見ることができるのは最後の結婚相手、コンスタンティヌス9世の顔。なお、この絵のすぐ右にある窓は他2000年代のある時期までは、光が入らないように黒く塗られているか、カバーがかけられているかされていた(そのお蔭で暗くはあるが逆光にならないので、この絵の写真は撮り易かったような。。。)(2011年8月)




博物館の売店で購入したお土産。




聖母子に寄進する皇帝ヨハネス2世コムネノス、皇妃エイレーネーと皇子アレクシオス。(12世紀前半)。窓を挟んで左側にあるキリスト、皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエを描いたモザイク画の影響を受けていると言われる。皇子アレクシオスが壁の折れ曲がった場所に描かれているのはどうしてなのか?(2011年8月)




天使「セラフィム(熾天使)」、もしくは「ケルビム(智天使)」を描いたもの(ちょっとぶれてしまった)。(2013年3月) 天使の顔はオスマン帝国時代に星の形をした金属製の蓋で覆われたが、いつのことかは調べないとわからないが、改修中に取り外されて顔が見えるようになった。なお、天使は天井ドームの下4か所に描かれているが、顔が現れているのは東北の部分(聖母子像が描かれている方に向かって左側)。(2013年3月)




上に改修の際に蓋が外されて天使の顔が見えるようになったと書いたが、顔が見えるようになる前の天使を撮っていないかと探してみたところ、1990年3月に撮っていた。あまり綺麗に写っていないが、顔が現れていないときの天使が見える(右側)。それから、この写真を見ていて気が付いたが、窓が並んでいる半円形の部分の下の方に聖人像だろうか、モザイク画とおぼしき絵が描かれている。(1990年3月)




一つ上の写真を拡大してみた。画像がとても粗いがモザイク画と思われる絵が確認できた。(1990年3月)




ちょっと見ずらいが左上に一つ上の写真の天使が見える。
(2011年8月)




2階ギャラリーから礼拝堂への入口方向を望む。(2011年8月)




「聖母子」のモザイク画に向かって右側に描かれているのは「大天使ガブリエル」のモザイク画(9世紀後半頃の作品とされる)。天使の向かって右の部分はほぼ失われてしまっている。かつてこのモザイク画の向かい側、つまり聖母子像を挟んで左側には「大天使ミカエル」も描かれていたが、現在ほとんど痕跡が残っていない。(2011年8月)




説明板によると、ムラト三世(在位1574-1595)がベルガマから運ばせた一つの大理石から彫り出された壺で、ヘレニズム時代に造られたもの。(2019年2月)




観光客の一団はこれからドーム下の大空間に入ろうとしている。写真の一番奥の部分が2階ギャラリーへ続く通路。(2013年3月)




聖堂出口部分で見られる聖母子、ユスティニアヌス帝、コンスタンティヌス帝のモザイク壁。(10世紀後半の作品とされる)  シャンデリの右側に並んでる暗いところはドーム下の礼拝の空間への入口。(2008年3月)




一つ上の写真に写っているモザイク画。聖母子に聖堂を捧げるユスティニアス帝と、コンスタンティノープルの町を捧げるコンスタンティヌス帝。(2013年3月)