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伯母が書き残した戦時中の記憶(『テニアンの思い出』)

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1936(昭和11)年の初め、父は母親(僕の祖母)、姉たち(僕の伯母たち)とともに南洋のテニアン島という島へ行き、1年半くらい滞在した。この時の父は3才に満たない幼児で具体的記憶はなく、その時のことを父から直接聞いたことはないが、伯母の一人(渡航当時9歳)が『テニアンの思い出』と題して書き残している(当時テニアンに居たたちから聞き取った話やサイパンやテニアンについて記した書籍も参考にしながら)。

 

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<以下、伯母の文章の引用-固有名詞は伏せるかたちに改めた>
 昭和10(1935)年12月24日、二学期の終業式を終えた夜、母と私(9才3カ月)、妹F(6才1ヶ月)、妹M(3才10ヶ月)、弟(僕の父)のS(2才8カ月)の五人は、雪の網走駅をあとに南洋に向かった。
(略)
 母はその年、腎臓の片方を摘出し、暖かいところで静養することをお医者さんに勧められていた。当時、母の両親や母の一番上のお兄さんとお姉さんの家族は、1922(大正11年)創立の南洋興発会社の募集に応じて、1928(昭和3)年の夏、八丈島(※1)から、日本の委任統治領だったテニアン島に移住して、さとうきびを栽培していた。そこで、テニアンに行って静養することになったのである。上の姉は女学校入学を控えているので、父と網走に残った。
※1:祖母(文中の「母」)は八丈島出身
(略)
 網走からの汽車の旅は長かった......東京では父の妹の嫁ぎ先に落ち着き、正月はそこに滞在した。
(略)
いよいよ、横浜港から出帆する貨客船近江丸に乗船して、南洋に向かうことになった(※2)。まわりの人たちが途中の旅を心配して、親戚のあんちゃんが一緒にいくように計らってくれた。
※2:出発の日付は記されていない。

 私たちは蚕だなのような席の上段ですごした。最初の寄港地サイパンに着くまで一週間かかった。下の段に、福島からテニアンに移住する一家がいた。そこに私と同じ学年の女の子がいて、すぐに仲良くなった。この子とはカーヒー小で同じクラスになった。
 船はサイパンの沖に停泊し、私たちは母のすぐ上のお姉さんに会うため下船した。タラップで小さなはしけに乗り移るのだが、下の海がとてもこわかった。妹や弟など幼い子供は、船員が右と左に二人一緒に抱えておろした。子供たちのからだはタラップの外にはみ出し、見れば下は一面青い海の水。本当にこわかったそうだ。今でもよくその話がでる。
(略)
 サイパンで、そのころ大人たちが話していたが、島のどこかに軍港を築いている、ということだった。戦争の準備が行われていたようである。

 1月21日、いよいよテニアンに行くことになった。サイパンから小さな船に載ってソンソン(テニアン町)に着いたのは、夕方、薄暗くなってからである。
(略)
 私共がお世話になった伯父の家は、カーヒー一斑というところで、十字路になっている道路の北東の一角にあった。この家は、古い家と新しい家を短い廊下でつないであった。古い家は、おじいさんたちが八丈島から移住したとき、すぐに建てたもので、土間に続いた一部屋があるだけだった。私たちが行ったときは、土間は台所として使われていた。新しい家は、最初もっと北の方に入植していた伯父が、おじいさんと一緒になるため建てたもので、まだ新しく、三つの部屋があった。私たちは、表の座敷に住むことになった。八畳位の部屋だった。家の横の道路ぎわには、カマチリの木が高く茂り、バナナとパパイヤが植えてあった。そのそばに牛がつながれていた。太い丸太を組んだ簡単な小屋で、牛が3・4頭いた。
 このあたりは1年が雨季と乾季に分かれている。私たちが行った1月は乾季だったから、サトウキビの刈り入れで農家の人は忙しい最中だった。雨季に降った雨を屋根にかけて樋からタンク(土に大きな穴を掘ってコンクリートで硬め、トタンの屋根をふいたもの)に引いて、飲料水に使っていた。乾季にはほとんど雨が降らないので、タンクの水が少なくなり、バケツに紐をつけて水を汲むと、タンクの底にたまったものは湧き上がって、にごった水が上がってきた。絶対に生水をのまないように注意された。アメーバ赤痢になる、といわれた。トイレは外で、今まで使ったこともない粗末なものだったが、すぐに慣れた。

 

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☆ この後、テニアンでの日常の生活の思い出がつづってあるが省略します。

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 1937(昭和12)6月4日、網走に帰るため、カーヒー小学校を退学した。帰りの船は大きな客船のサイパン丸で、岸壁には着岸できず沖合に停泊していた。それで私たちは小舟でいって乗り移った。
来る時とは違って、客室はきれいで広く、何組かのよその人たちと一緒だった。
(略)
 サイパン丸は大きいので、横浜までは五日しかかからなかった。横浜に上陸して、行くときと同じように叔母の家でお世話になった。
(略)
...やっと網走に着いた。......網走に帰った日は覚えていないが、その後まもなく七月七日、日華事変が始まった。みんな、よく無事で帰ったと、父母が話しているのを聞いたことがある。

 

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☆ 文中にある7月7日日華事変が始まったとあるのは、北京郊外の盧溝橋事件を契機に始まった日中戦争のことで、日本はその後、戦争を拡大し、1941年12月には米英との戦争に突入し、1945年8月敗戦を迎えた。祖母、伯母、父らが1年半ほどの時間をすごしたテニアン島にも戦火は及び、多くの人が亡くなり親戚も犠牲になった。伯母は、テニアンで非業の最期を迎えざるを得なかった人たちの50年忌を迎え、「一緒に過ごした日のことを書いて、あの人たちを偲ぶよすがとしたい、と考え」「この思い出」を書こうと思い立ったと記している(伯母が「テニアンの思い出」を書いたのは1994年)。以下に親戚が亡くなったときのことを書いた部分を引用します。

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  「伯父さんたちの死」
 第二次大戦も終わりに近い、昭和19年7月24日、サイパンを占領していたアメリカ軍がテニアンに攻めてきた。北のハゴイ西海岸に上陸して、たちまち第一、第二飛行場を占領、日本軍は後退し、島の南のカロリナス山地に追いつめられた。民間人も一緒に逃げた。伯父・伯母たちも、おじいさんを背負い、おばあさん、6才のJちゃん、2才のRちゃん、乳飲み子のMちゃんを連れてカロリナスの洞窟へ逃げた。Hさん(18才)、Gさん(16才)、Sさん(12才)、Eさん、Eさんの子(2才)も一緒だった。
 おばあさんは耳が遠くなっていたので、戦局のきびしさがよくわからなかった。洞窟のそとに出て、平気で煙草を吸うので、伯父さんも困ったそうだ。
 そのうち、戦闘はますます激しくなり、アメリカ軍が近くに迫ってきた。
 当時、軍隊には固く守るべき教えとして、「戦陣訓」があり、「生きて虜囚の辱めを受けず」つまり「捕虜になるくらいなら死んだほうがよい」と書いてあった。そのうえ、戦いになったら民間人もこれに倣うのが当然、とされていた。
 カロリナスでも、決断がせまられた。あちこちで、自分の手で、あるいは他人の手で、軍人でもない人も死んでいった。軍隊はあらかじめ、民間人の手に手りゅう弾を配っておいたのである。
 8月1日、伯父さんたちも最後の決意をした。その様子を母が話してくれたことがある。家族がみんな輪になり、小さい子を残してはかわいそうだと真ん中に入れた。そしてその中心で手りゅう弾を爆発させたそうだ。Hさん、Sさん、Jちゃんは生き残った。Jちゃんは掠り傷だけでよかった、と喜んでいたという。(略)
 しかし、まもなくその幼い命も乱戦の中で絶たれた。HさんとSさんだけが生き延びて、アメリカ軍に保護された。
 8月3日(2日の説もある)、戦闘は終わった、二人はバラ線を張った収容所から許可を貰ってカロリナスの山に行き、小さくなった肉親の骨を集め、見ず知らずのおばさんがくれた白い布に入れて持ち帰った。
戦後、そのお骨を胸に八丈島に帰った。

 母は留萌にいて、テニアン玉砕の知らせを聞いた。札幌にいた妹(4女)に会いに来て「みんな死んでしまったんだよ」と泣いていたそうだ。

 

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テニアン島で悲惨な出来事があったとき(兵士約5000人、民間人約3500人が命を落としたと言われる)、伯母は樺太の師範学校で学んでおり、祖母(文中の「母」)とは離れて暮らしていたので、「みんな死んでしまったんだよ」と泣いた祖母のことは、妹から聞いたこととして記している。

認知症の母親と生活した時間は幸せな時間だった

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少し前のことになるが、ある女性芸能人が語った内容としてネット記事に次のようなことが載せられた。

母親の認知症が進んで以降、母親を抱きしめたり、思い切り甘えたりするようになった。昔はちょっと怖い(威厳のある)母親で自分がそんな態度で母親に接するようになるとは思いもよらなかった、というような内容だったか?(その記事を目にしてから随分経ってしまったので、正確ではないが、そんな感じだったと思う)

今は世の中に認知症の高齢者は沢山おり、認知症の親とその子との関係も色々だと思う。

記事にあるようなある種幸せな関係を持つことができる親子は多いのか少ないのか、それはわからない。

しかし、自分の場合、幸いにも、件の女性芸能人と同様とても良い関係を築けていた。

抱きしめるとか、甘えるとかまではできなかったが、通院の際などの際には足もとがおぼつかない母を支えるため手をつないだり、クリニックの待合室の長椅子ではかなりぴったりふっついて座って順番が来るまで話したり。。。

母がしっかりしていたころならば薄気味悪がられたかもしれないが。

もちろん母はは突然変なことを言い出したり、急に機嫌が悪くなったりすることがなかったわけではない。しかし、それらは概してマイルドなものだった。

思えば、かかりつけ医に恵まれていた。

母はもともと血圧がかなり高い状態で循環器科のクリニックに通っていたのだが、降圧剤などの薬では抑えが効かない状態で、時々、暴走といってもよいほど血圧が高くなることがあった。それで、かかりつけの医師は自律神経というか精神の方の制御が必要ではないかと、知り合いの神経内科の受診を薦めてくれたのだ。

そして、従来通り、血圧を下げる薬、血液をサラサラにする薬、血管を広げる薬を飲みつつ、安定剤を服用し、自分は循環器科の医師のアドバイスを参考にしながらコレステロール値を下げるのによい食事を用意するようにした。

そうすると血圧は安定、降圧剤も少し弱いものに変更できるまでになった。

もともとは血圧の暴走を止めるために飲み始めた安定剤だったが、それが、認知症にともなう精神の不安定からくる諸問題を抑制してくれたように思う。

そのお蔭で、最晩年の母の思い出として心に残っているのは、穏やかでニコニコしている姿ばかりである。

「アメリカへのコロナウイルス長期障害の脅威が現実のものになってきた」という内容の報告

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一昨日、新型コロナウイルス感染症の後遺症というか長期障害に関して少し書いたけれど、その手の情報は続々と出てきている感じだ(日本ではあまりというかほとんど報道されないようだけれど)。

最近、またアンテナを張り巡らせるようにしているのだが、次のような情報がひっかかってきた

アメリカで発信されたもので、「アメリカへのコロナウイルス長期障害の脅威が現実のものになってきた」というようなもので、そこに示されている問題点は、4月時点で約1370万人が長期障害を負っていて女性の罹患率が高い、1年以内に回復する人は22%にすぎない、子供も罹患し発達に影響を及ぼす、1型糖尿病の率が上がる、等々。

一方で、記事には、長期のコロナ患者にどのような薬や他の治療法が役立つかに関するデータは蓄積されつつあるというポジティブな内容も見られる。とはいえ、現段階で新型コロナウイルス感染症をもう終わったもののごとくとらえるのは、やはり問題があるのでは?と思っている。

僕が新型コロナウイルス対策をゆるめない理由

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すでに書いた通り、僕はいまだに新型コロナ感染症対策はかなり厳密にやっている。

5類になってもウイルスが変わるわけではなく、この冬のある1ヶ月に3000人もの死者を出しているし、わけのわからない後遺症(長期障害)もあるから。

応援しているコンサドーレに、シーズン前「風邪をひいて39度も熱を出しちゃいましたよ」とか無邪気なことを言っていた選手がいたが、その選手、今シーズン、さっぱりパフォーマンスがあがらない。39度の発熱、新型コロナウイルス感染症であった可能性も高いだろう。この感染症、体のさまざまな部分に悪さをすることが判明しており、当該選手の低パフォーマンスはもしかして、という気もしないでもない。

ところで、NCBI(アメリカ国立生物工学情報センター)の情報よると、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)感染後のポストコロナウイルス症候群に関する関心から、航空機乗務員について調査した結果、4.2%がそのポストコロナウイルス症候群を呈していたとか。グーグル翻訳が不正確かもしれないので厳密なところは何ともいえないが、現状、無視できる状態かというと、そうとも言い切れないというものだと思う。

新型コロナ感染症に感染した後に発生する様々な問題については沢山の報告・研究があり、上述のものはその一例にすぎない。

新型コロナ感染症に関しては、これがどういうものかということが完全には明確になっていないなか、もう付き合ってられない、ないものとして行動しようというのが世界的潮流のようだ。それでも例えばアメリカなどのように、積極的に検査して、陽性の場合、抗ウイルス薬の投薬で対処という方法がとられている国もある。対して、日本では政府は無対応(検査・治療に対する公的な支援はなくなった)だし、コロナウイルスという言葉すら禁句になっているようだ。新型コロナウイルスの現状について積極的に情報を得ようとする人以外にとっては、もうないことになっている。

10年後に、あの時の対応はまずかったとなるかならないかはわからないのだが、その時の答え合わせのため、また、自分自身が世の中の動きに流されないため、気に留めてつつ書き留めておこうと思う。

『にっぽん縦断こころ旅』と母

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NHK・BSに『にっぽん縦断こころ旅』という番組がある。

俳優の火野正平さんが、視聴者から寄せられた、その思い出の地などをつづった手紙をもとに日本各地を自転車で訪れるという番組である。

今年(2024年春)からはNHK・BSがBSとBSプレミアムからBSとBS4Kとに変更され、放送時間なども少し変わったが、僕がこの番組を続けて見始めた2020年には、BSプレミアムで朝7時45分からの15分の朝版と午後7時からの30分の「とうちゃこ」が放送されていた。

母は昔からの習慣で夕方から夜にかけてはNHKの地上波を流しっぱなしにしていたのだが、ただの習慣で、あまり真剣に見ている風でもなかった。そんなわけで僕は、NHKの7時のニュースの政府広報っぽさに拍車がかかってきていたこともあり、何となくBSプレミアムにチャンネルを合わせ、この番組を見始めた。

自転車であちこちを訪ねるという形の旅番組が母の目には新鮮に映ったのか、興味深くみてくれていた。

ところで、夜の放送が「とうちゃこ」というのは、正平さんが、「到着」のことを「とうちゃこ」と言うので、そのように呼ばれているらしかった(この番組は2011年から放送されているが、最初からそうだったのかどうかはわからない)。

2021年の夏のことだったと思う。東京の家の様子を見に行ったとき(郵便受けがあふれていないかとか排水口のたまり水が蒸発して下水のにおいが部屋にあがってきていないかとか)、いつもの通り実家に電話をかけて、食事のことを確認した(その後東京へ日帰りで行くことが多くなったがこの時は東京で1泊した)。

母の認知力はかなり低下していて、電話を切ってすぐにその内容がわからなくなる恐れがあったので、携帯に電話して、それを持って冷蔵庫まで行って中に入れておいたおかずなどを確認するように言った。

「ちょっと待ってね、今冷蔵庫のところに行くから」

「とうちゃこ」

電話口の母がこの一言を発した。

今話したことも思い出せない状態だった母がテレビで聞いた言葉を発したのは驚きであった。

認知症では記憶のインプットはできているのだがアウトプットができない、ということを何かで目にしたことがあるが、母の頭には「とうちゃこ」という言葉がちゃんとインプットされていたのだ(やはりこの番組を気に入って見ていたのだと思った)。

そういえば、ほかにも強い印象を受けたと思われることは、何かの拍子に思い出すことがあったなあと思う。

そのような母との思い出のある番組だが、火野正平さんの持病の腰痛が悪化したため、この春の旅が中止されてしまった(春と秋に旅をするというパターンの番組)。

火野さんもけっこうなご年齢なので、とても心配だ。

火野さんの腰の具合がよくなって、思い出深いこの番組が少しでも長く続くことを祈っている。

母の付き添いで通ったクリニックに飾ってあったエッサウイラを描いた絵画

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母には定期的に通っていたクリニックが2つあって、いつも付き添いで一緒に行っていた。

そのうちの一つのクリニックの待合室の壁には絵画が飾られていて、その中に、行ったことがある人が見るとすぐに「モロッコのエッサウイラ」とわかる作品(のレプリカだと思う)があった(ある日、別の作品に差し替えられたので、絵画のレンタルサービスを受けているのだろう)。

もちろん母はエッサウイラを描いたものだということはわからなかったと思うし、そもそも待合室に飾られている絵画自体に興味がなかったと思う。

しかし、僕にとっては、母が亡くなった今となっては、母と一緒にすごした時間、いつも眺めていた絵として、とても強く心に刻まれている。

待合室の長椅子に母の隣に座ってその絵を見ていたときは、誰の何という作品だろうかとかは考えなかったが、亡くなってから急に作者を確認したくなった。

それでネットで「エッサウイラ」「絵画」で画像を検索してみると、蛯子真理央さんという人の「道を往く」という作品(2011年)であることがわかった。

作品は蛯子さんの公式ページで見られるので(このリンクを開いて下から2段目、右から3番目の作品をクリックすると見ることができる)、タブレットにスクショを保存して、時々眺めて、クリニックの待合室で母と過ごした時間を思い出している。

好きな絵なので、レプリカが売られているのならば購入して部屋に飾りたいほどなのだけれど。

新型コロナ・ウイルス変異株(BA.2.86)に関するアメリカと韓国の報道

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新型コロナ・ウイルスの変異株BA.2.86が世界各地で現れて、注目されているらしい。

日本では報道されていない感じだけれど(すべての報道をチェックしているわけではないので確たることは言えませんが)、アメリカや韓国では報道されている。

世界で同時多発的に見つかっているので伝播力が強い可能性があるとのこと。XBB.1.5に比べ、36箇所もの変異をもっており、今秋開始予定のXBB.1.5ワクチンによる免疫を回避する懸念もあるらしい。

CBSニュース

ハンギョレ日本語版

新型コロナウイルスに関する色々

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2023/5/5付でWHO(世界保健機関)は、新型コロナウイルス感染症について、「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態 」(PHEIC)宣言を解除することを宣言した。しかし、新型コロナパンデミックを脱したことを宣言するものではなかった。というのは、同時に次のようなことをアナウンスしているからです。

whoコロナ緊急事態終結の宣言関連

上記のWHOのtweetを訳すと次のような感じになります。 

「どの国でも今起こりうる最悪のことは、ニュース(緊急事態宣言終了のニュース)を理由に、コロナへの警戒を緩めたり、構築したシステムを廃止したり、コロナは心配する必要がないというメッセージを国民に発信したりすることです。」

緊急事態宣言の解除というのは、人がバタバタ亡くなるような"緊急"事態が終わったということを宣言しただけと理解すべきなのは明白ですが、日本はまさにWHOが懸念しているようなことを国全体で推し進めようとしている感じで、個人的にはかなりまずいなあと感じています。「緊急事態宣言の解除だ。ウェーイ」という感じになりそうで怖いです(実は高齢の親を介護している身でもあるので)。

日本ではあまり報道されていないようですが(他国の報道の状況は知らないのですが)、新型コロナウイルスのパンデミックが進行するのと並行して、当然その研究も行われおり、それらを知るといまだ決して安心できる状態ではないと思わざるを得ません。

世の中には、そういった研究を注意深くチェックしてtwitterなどで伝えてくれる人たちがいて、以下はそういう人たちのお蔭で知ることができた情報の一端です。

世界的な医学雑誌として知られるランセットには以下のような研究が掲載されています。

https://www.thelancet.com/journals/laninf/article/PIIS1473-3099(23)00138-X/fulltext

上記の内容をgoogle翻訳を利用して、ざっと確認してみると次のような内容でした。
「xbb系の変異株(現在流行の中心となっている株)はBA株とはまったく異なるもので、よくいわれるワクチンと感染によるハイブリッド免疫も十分働かない。画期的な感染症の蔓延率が高いことは、ウイルスに対する消耗戦で私たちが失敗していることの証拠であり、症例数の増加、入院と医療提供、仕事から失われた日数、持続的な症状による慢性的な障害、および単純に正常に戻ることができないことによって測定できます。」

急性の症状による死亡リスクは割合としては当初の株よりも低下しているものの、感染力は強いため死亡実数は流行の波毎に増加している。そのことは国立遺伝学研究所の川上浩一先生が自身のtwitterに掲載している下記の表からも明らかです(https://twitter.com/koichi_kawakami)。

インフル・コロナ感染者と死亡者数

また、このウイルスのリスクとして後遺症に注目する必要があり、whoのテドロス氏のコメントとして10の感染のうち1つが長期間にわたるケアが必要な後遺症を発生させる(つまり感染回数が増えるほど後遺症に悩まされる確率が上昇するということ)というコメントも海外では報道されているようです。

後遺症については新型コロナウイルスが悪さをする場所は人体の臓器さまざまな場所であり、後遺症は様々な形で現れことが報告されています。

下記は後遺症に関するアメリカ・CDCのレポート。

https://www.cdc.gov/mmwr/volumes/71/wr/mm7121e1.htm?s_cid=mm7121e1_w

部分的にgoogle翻訳を通してみました。

「以前に COVID-19 を引き起こすウイルスである SARS-CoV-2 に感染したことのある人の数が増えており、急性 COVID-19 の 4 週間以上後に、持続的な症状または長期症状の発症が報告されています。 これらの症状は、一般にポスト COVID 状態、または長期 COVID と呼ばれます。 2020 年 3 月から 2021 年 11 月までの米国の 18 歳以上の人に関する電子医療記録 (EHR) データを使用して、患者のポスト COVID に起因することが多い 26 の状態 (以下、インシデント状態とも呼ばれます) の発生率を評価しました。 以前に COVID-19 の診断を受けた患者 (症例患者) と、EHR で COVID-19 の証拠がない一致した患者 (対照患者) の発生率を比較しました。 分析は、2 つの年齢グループ (18 ~ 64 歳および 65 歳以上) によって層別化されました。 患者は、指標との遭遇後 30 ~ 365 日間、1 つ以上のインシデント状態が観察されるまで、または 2021 年 10 月 31 日まで (いずれか早い方) 追跡されました。 18 歳以上のすべての患者の中で、症例患者の 38% がインシデント状態を経験したのに対し、対照患者の 16% が経験しました。 状態は複数のシステムに影響を与え、心血管、肺、血液、腎臓、内分泌、胃腸、筋骨格、神経、精神医学の兆候と症状が含まれていました。 年齢層別では、急性肺塞栓症(18~64 歳と 65 歳以上でそれぞれ RR = 2.1 と 2.2)および呼吸器の徴候と症状(両方の年齢層で RR = 2.1)のリスク比(RR)が最も高かった。 18 ~ 64 歳の患者では、症例患者の 35.4% がインシデント状態を経験したのに対し、対照患者では 14.6% でした。 65 歳以上の患者では、対照患者の 18.5% と比較して、症例患者の 45.4% がインシデント状態を経験しました。 これらの調査結果は、18 ~ 64 歳の COVID-19 生存者の 5 人に 1 人、および 65 歳以上の生存者の 4 人に 1 人が、以前の COVID-19 に起因する可能性のあるインシデント状態を経験していることを意味します。 COVID-19 予防戦略の実施と、COVID-19 を生き延びた人々のポスト COVID 状態の定期的な評価は、特に 65 歳以上の成人のポスト COVID の発生率と影響を軽減するために重要です 」。

後遺症とは少し違う(ある種の後遺症?)が、感染による免疫機能の低下も明らかなようです。

下記はアメリカCDCのページ。
https://www.cdc.gov/fungal/covid-fungal.html

パンデミックが始まってから、まだ3年半弱なのでこれらの研究の評価が完全に定まったとはいえないかもしれませんが、実際にデータとしては出てきているわけで、無警戒でいることは賢い態度ではないと考えます。


現在の状況は安全地帯にいる人たち(感染した場合すぐに検査・医療を受けられる環境にある人たち)が、経済のためという理由で、状況をよく知らない国民(状況を意図的に知らせられていない?)をもう安全だと思いこませて(マスクははずしてもよい、コロナは落ち着いた、コロナ明け、とか科学的とは思えない報道もそれに拍車)動かしている。

まるで安全地帯にいる政府首脳、軍首脳らが一般国民を動員していった戦時の状態と相似形をなしているようです。

欧米ではすでにコロナ以前に戻っているというような伝え方もされるが、実際は欧米といっても状況は一律ではなく、例えば、ニューヨークではこの冬、新型コロナのxbb型だと思うが流行状態が悪化した際には、公共の交通機関、屋内おけるイベント(屋外でも沢山の人が集まるイベント)、買い物におけるマスク着用(それも高性能マスク)が強く推奨されたりもしていました(下記の画像参照、イベントとショッピングの画像は切れてしまいました)。

ニューヨークにおけるマスク推奨

上記のニューヨークの対応は、流行状態に関係なくどんどん対策を後退させている日本とはかなり異なると思います。

また、アメリカではtest to treat といって検査して抗ウイルス薬により治療するという対応がうまくいっているともいわれるようです。

とはいうものの、大雑把な傾向はどこの国も同様で、一般国民の少々の犠牲には目をつぶるという方向に舵を切っている感じです。具体的なソースを示すことができないので今回は詳しく書けませんでしたが、イギリスは相変わらず感染者が多く、かなりひどい状態ではあるものの、コロナにはかまっていられないという感じになっており、後遺症が大きな問題になったり、学校を長期欠席している子供が沢山いたり、という情報もあるようです。

2回目のワクチン接種を終えたが。。。

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数日前、新型コロナウイルスのワクチンの2回目の接種を終えた。

接種したのじゃファイザーのワクチン。

副反応には個人差があり、通常1回目よりも2回目の方が強い反応が出るということだけれど、1回目から、そこそこの副反応が出た。

午前11時に接種したのだけれど、接種の帰路、すでに普通ではない感じがして(だるさが出てきた)、午後3時くらいには接種部位が痛み出し、肩ががあがりにくくなった。

夕方にはけっこうな倦怠感が出て、頭痛も出てきた。

熱は出ていなかったと思うが(計らなかったが出ていたとしても微熱程度)、「一般的にモデルナよりも副反応が軽いらしいファイザーで1回目からこの副反応?」という感じ。それで、夕食後には鎮痛・解熱剤を服用(よく朝も服用)。

夜は接種部位の痛みで寝返りがうてず寝不足。

接種部位の痛みは2日目の夜には軽くなり、頭痛・倦怠感もとれ、3日目は風邪をひいて熱が出て寝込んで熱が引いた翌日という感じの体調。

もしかして、去年の2月の風邪はコロナウイルス感染だった? 感染歴がある場合、1回目の方が強い副反応があるという話もあるようだし。。。

その後、ほぼ1年にわたって続いた軽い喘息というか下気道の炎症は後遺症?

だとしたら、生活の手助けをしている老親が感染しなかったのは奇跡的?

まあ、自分に風邪症状があった去年の2月には近くで会話しなかったし、幸い実家は古い建物で、閉め切っていても、かすかながら空気の流れが感じられ、つまり換気がよい状態だったためうつさずに済んだということなのか?

で、2回目の接種。

1回目よりも副反応が出るのは遅かった。

前回と同じ午前11時に接種したのち、夕方になっても接種部位の強い痛みは出ず、たいしたことがない感じだったので、薬は飲まずに就寝。

しかし、夜中、寝返りを打つ際の強い肩の痛みで目が覚め、薬を服用。

翌日はかなりの倦怠感。頭痛は出なかったが、倦怠感は1回目よりも強かったか?

朝も薬を服用、それで様子を見たが、夕方になってもかなりの倦怠感が続いたので、夕食後、また薬を服用。

3日目は1回目同様、倦怠感はほぼ消えた。

結局、1回目と2回目の副反応はほぼ同じという感じか?

1回目の副反応がずっと重かったのならば、もしかして去年の2月の風邪症状はた???という感じだが、たぶん、そうではなかったのだろう。

ところで、ワクチンを打っても、重症化・死亡の可能性を低くするだけで、感染そのものを防ぐことはできないという。

しかし、酸素吸入が必要になるという中等症くらいになる可能性はそこそこあるらしいし、後遺症に悩まされるという危険性も残る。

ワクチンの接種率が高くなって、無症状・ごくごく軽症の感染者が増えても、日本は検査体制が脆弱なので、感染者の保護・隔離が十分に行われず、感染の連鎖は続くだろう。

ということで、入院が必要なレベルになってしまうことを避けるため、後遺症を避けるため、細心の感染対策を続けなければならない。

また、たとえ表に見えないものであっても大きな感染の波が起きれば、それはウイルスに変異の機会を与えることにつながる。

で、そこでどんな変異が起こるのかといえば、ワクチンを打った人の中に侵入したウイルスは、それを回避する方向で変異するというのが当然のことと考えられる(素人考えだが、ウイルスの立場に立つとそうなるなだろう)。

先にワクチン接種が進んだ国々の中にはけっこうな感染の波が起きている国もあるようだし、そういう国々ですでにワクチンによる免疫を余裕で回避する新たな株が生まれているかもしれない。おまけに、ワクチンの普及が遅れている国々で大流行が起きて、狂暴な変異株が生まれる可能性もある。

アホな日本政府は空港検疫を緩めているので、いつ新たな危険な株は入ってきてもおかしくはない。ひょっとするとこの夏の5派ですでに日本国内で危険な株が生まれているのかもしれない。

飲み薬の開発も進んでいるようだが、それによっても、決してインフルエンザ並みの感染症ということにはなるまい。

何せ感染力が桁違いで、手当てが遅れると酸素吸入が必要なレベルになる可能性もあり、後遺症もあって、その具体的内容に関する研究は緒に就いたばかり。

色々考えると再び海外へ出かけることが出来る日は、なかなかやって来ないのだろうとは思う。

中心性漿液性脈絡網膜症が再発

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割とはっきり覚えているのだけれど、2007年9月、突然右目に異変が起きた。

どんな状態だったかというと、白い石鹸を泡だてて手にとったはずなのに、黒っぽく見えるところがあったのだ。それから、何となく物もみえにくかった。

個人経営の眼科に行くと中心性漿液性脈絡網膜症ではないかといわれ、詳しく見てもらいようにと総合病院を紹介してくれた。

精密な検査を受けるとやはり中心性漿液性脈絡網膜症だった。

この病気は網膜の下から水がもれ出てきて黄斑部に水がたまる病気で、軽い網膜剥離を引き起こすもので、30歳~50歳代の働き盛りの男性に多く見られ、ほとんどの方が片眼だけに起こるとのことだった。

過労、ストレスが原因と言われるが原因ははっきりしないとのこと。

当時、ストレスとかに思い当たる節はなくはなかったが、個人的には紫外線の影響かもと感じている。

その夏イエメン旅行に行ったのだが、首都サナアなどは高地にあり紫外線も強い。サングラスなどというものは使っていなかったので、目にかかる負担は相当なものだったのではと思うのだ。

多くは自然治癒するとのことだが、ひどくなりそうな場合は造影剤を入れて、水の漏れている場所を特定しレーザー治療をする場合も多い。

自分を見てくれた医者はレーザー治療をすすめてくれたが、アレルギーチェックをした所、造影剤が使用できないことが判明して、経過を見るしかないということになった。

幸い漏れ出た水は引いて症状はおさまったが、網膜がかなり痛めつけられたため、右目だけで見ると少しではあるが直線が歪んで見える状態で固定化されてしまった。(両目でみるとちゃんと補正されて直線は直線に見えるー人間の体は良くできていると思う)。

その後、しばらくして再発し数ヶ月で回復したが、これを契機に、この病気が加齢黄斑変性(失明にもつながる病気)を誘引する可能性もあるというので、1年に1度の検査を続けてきた。

それで先日再発が分かったというわけだ。

過労ということはないし、ものすごいストレスを感じているわけでもないが、ステロイド剤の副作用で発症することもあるようで、現在使用している喘息予防用の吸入薬がよくないのかもしれないということで、医師には必要最低限の使用にとどめるようにとアドバイスされた。

実家の葡萄とか、コロナ太りではなく体重減とか

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2020実家の葡萄

何時からかはよくわからないが、実家の敷地内で葡萄の木が育っており、近年割とちゃんとした実をつけるようになった。

苗を植えたということはなく(他の木の根っこのあたりから生えている)、鳥の糞に葡萄の種が混ざっていたとかで奇跡的に芽が出て成長したとしか考えられない。

いつもは成長するのに任せているが、今年は少し摘果(間引き)をしてみたので、その成果が出たのか写真のようなけっこう立派な房もできつつある。

カラスに食べられてしまわないように何か対策を考えねばとも思うが、例年、こうゆう宙に浮いたような場所になっている実が被害にあわないので大丈夫ではないかとも思う。

ところで、コロナ太りという言葉を盛んに聞くが、自分の場合、冬から初夏にかけて3~4キロくらい痩せて16%くらいあった体脂肪率も12~13%まで下がった(古い体重計なのでやや不正確かもしれないが)。

仕事量は少なく基本在宅ワークなので、そこでのカロリー消費はほとんどないし、別に日々の運動量を増やしたわけでもなく何が原因かはわからない。

しばらくランニングを休んでいたので筋肉量が減少したのは確かだと思うが、最近、少しずつランニングの量を増やしており、体脂肪率も下がっているということは、やはり単純に痩せたということか?

体重減の原因として考えうるのは、次のようなことか?

1.夕食の時間をなるべく早くして、朝食までの時間を長くしたこと(現在も継続)。

2.食事の際は野菜を先に食べることを心がけたこと(現在も継続)。

3.毎朝、オメガ3脂肪酸が入っているアマニ油をティースプーン1さじくらい摂取したこと(現在も継続)。

ちなみに食事の量はあまり変わっていない。

なお、体重・体脂肪率はここ1ヶ月くらい一定の数値で安定しており、ちょうど良いところでキープされている感じ。

Zoom のバーチャル背景

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アラブ城から望むパルミラ遺跡001

先日、Zoomを利用した会議があったので、バーチャル背景を使用してみた。

Zoom でバーチャル背景を綺麗に映すには、緑とか青のスクリーン(布)を自分の背後に張っておかなければならないのかと思っていたが(クロマキー合成とかいうやつ)、このアプリの人物を認識する力は思いのほか優れていて、自分の後ろに色々あっても割ときちんと背景が映し出されるということがわかったので、上の写真(パルミラ遺跡)を使ってみた。

会議でこんな写真を使うなんて、遊びすぎと思われてしまうかもしれないが、けっこう地味な写真だし、会議のメンバーの大半は自分が頻繁に海外に行っていることを知っているので問題なかった(と思う)。

自分の背後に緑の布などを張った方がよりよい背景が得られるたのだろうが、十分満足できるものだった。

それにしても技術の進歩はすごいと思う。

ダイヤモンド・プレミアラウンジのarrogantな人々

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表題をオブラートに包んだ感じにするため、英語を使ってみました(英語は詳しくないという方も、意味は下の記事を読むとなんとなくつかめると思います)。

さて、現在、自分はJALのダイヤモンド・プレミアラウンジを利用することができるステイタスを持っています。コンサドーレがらみのかなり頻繁な移動、母の世話をするためのかなり頻繁な帰省、仕事がらみの時々の移動、そして海外旅行とけっこう飛行機に乗る機会が多く、さらにJALがJMBの上級会員がステイタスを失わないように失わないようにという、ある意味気を使いすぎのキャンペーンを行ってくれることもあって、JMBプレミアだったりダイヤモンドだったりというステイタスを維持しています(俗にいう修行というものは行ったことはありません)。

今日、新千歳から羽田まで飛んだ際、新千歳のJALダイヤモンド・プレミアラウンジを利用した際、前から気になっていたことがあるので、ちょっと観察してみました。

新千歳空港の同ラウンジは羽田のそれほどは規模は大きくなく、客の出入りはそれほど多くはありません。ラウンジ内では係の女性職員がかたずけるものはないかとか(基本セルフサービスです)、食べ物・食器の補充などのため忙しくされているのですが、ラウンジへの通路からラウンジ内に入っていくところで、係の方と客がすれ違ったりする場面があるわけです。その際、係の方は立ち止まって「こんにちは」とか挨拶をします。ところが、それに対して挨拶を返すことはおろか会釈することすらしない客が非常に多いと感じていましたが、あらためて観察してみると確かにそういう状態でした。(羽田のラウンジは規模も大きく客の出入りも拡大に頻繁なので新千歳のラウンジのようなシチュエーションになることは多くはないです)

挨拶されているのに、ふんぞり返ったまま、視線はまったく違う方向に向けている。不特定多数の人がどんどん入って来て、それに対して店の人が挨拶をしているデパートみたいな状況とは異なり、その部屋へ入ることが出来る特定少数者に対して、その部屋の担当者が挨拶しているのです。それも真正面から、斜め前から。

どういう気持ちで"無視"しているのでしょうか? 上客に対する当然のサービスと思っているんでしょうか? ここはどの時代のどこの国だ? 階級社会か? と思ってしまいます。

もちろん、きちんと笑顔で挨拶を返したり、会釈したりする人も多いんですけど(もちろん自分も挨拶を返します)。

政治もそうですが、日本、大丈夫かっ? ということを感じさせることの多い今日この頃です。

北海道の大地震と電気2

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先日、北海道の大地震と電気と題して、感じたことを少し書いたが、その後、今回の北海道全域におけるブラックアウトに関する報道や関連記事などが出てきて、それを見ると、やはり規模の大きな発電所に依存する体制は危ういということは確からしい。

また、津軽海峡をはさんでの本州と北海道間の電力融通体制もとても脆弱で、これを増強するには莫大なコストがかかるらしい。

今回の停電からの復旧で古いあまり規模の大きくはない発電所が大きな役割を果たしたが、今のところの大きな流れとしては、巨大出力を持つ発電所を建設してそれに依存する体制へ向かおうとしているということも、何となくわかった。

しかし、現在の北海道における電力供給のあり方が今回のブラックアウトを引き起こしたのであれば、根本から再構築してもらいたい。

今回のような事態が真冬に起きていたら、と想像すると本当に怖い。

北海道の大地震と電気

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9月6日の未明、北海道の胆振地方東部を震源とする最大震度7の大地震が発生した。

札幌、東京往復生活を送っているが、地震の日、自分は東京にいた。

札幌の震度はマチマチだったが、実家がある区は震度6弱と、実際に経験すると精神的なショックの残るものだったと思う。

実家では食器棚が倒れて、たくさんの食器が破損したが、幸いそれ以外目立った被害はなかった。

ただ、今回は停電が長引き、実家の電話は電源がないと機能しないものだし、母親の携帯は充電切れということで、しばらく連絡ができなくなってしまった。

停電は地震があった地域のみではなく全道に及んだ。

震源地に近い厚真の火力発電所への依存が高く、そこが駄目になってしまったため、影響が全道に及んだということだ。

厚真の発電所の耐震構造や送電網などにも問題があり、また、本州からの電力の融通のシステムも脆弱のようだが(詳細は把握してません)、今回のことを教訓に北海道の電力供給システムを再構築する必要があると思う。

素人考えだが、大きな出力を持つ発電所への依存が一番の問題だと思うので(どこかの地域の電力供給をストップさせて全道的なブラックアウトを回避するというシステムを機能させるという方法もあるようだが、特定の発電所への依存度が高ければ、電力供給を止めなければならない地域を増やさざるを得ず、あまり良い方法とは思えない)、北海道各地に中・小規模の発電所を設けて(再生可能エネルギーを利用したものが理想的だと思う。また、札幌圏はある程度大きな発電所が必要かもしれないが)、電力の地産地消的なものを構築していくのがよいと思う。

北海道をいくつかのブロックに分けて、各地の電力はその近場で賄い、どこかのブロックで今回のような問題が発生した場合、ブロック間で電力の融通を行い(そのための送電網などの整備も必要か?)、急激に電力不足になるのを防止し、ブラックアウトを未然に防ぐのだ。

電力が利用され始めた明治後期、さらに大正期くらいまでは送電技術が未熟だったため、発電所と電気の消費地域は近接していた。送電技術が発達した結果、大きな発電所をどこかに設けて、そこから都市をはじめ、遠隔地に電力を送る形になっていったのだと思うが、また、昔のような形にもどるのは案外良い方法だと思う。ただ、発電技術は進歩しているので、明治後期・大正期と同じというわけではないと思う。

LGBTについて無知だったかつての自分を恥じる

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自民党の杉田水脈(みお)という衆院議員(比例)が月刊誌への寄稿で、同性カップルは子供を作らない、つまり『生産性』がないが、そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか、という趣旨のことを書いて大きな批判を浴びている。

これはLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー)差別であるばかりではなく、人間の価値を生産性の有無ではかるというもので、とても容認できるものではない。このような考え方は、さらに押し進めて考えると、国に貢献できない人間には価値がないということになってしまう(個人よりも国家を優先するという国家主義)。

このような考え方を発した議員に対して、自民党としては容認しているようだ(今のところ党としてこれを問題視し謝罪・杉田議員の処分を行うなどの行動はなされていない)。

昨晩、上のような問題に対する抗議行動が自民党本部前で行われ、自分も参加してきた(急な呼びかけにもかかわらず5000人も集まった模様)。

そのなかで何人かのLGBTの方がスピーチをされ、LGBTに対する差別、無理解、無知・無理解から来る言動、そして何よりもLGBTの差別を禁止する法律がないことが、どれだけ彼ら・彼女らを生きにくくしてきたのかということなどがかなり赤裸々に語られた。

思えば、かつての自分もLGBTについてまったく無知だった(近年さまざまなメディアで取り上げられることが多くなって、ようやくきちんと知るようになった)。

無知だったからといって許されるわけではないが、自分が関わった人々のなかに、おそらくいたであろうLGBTのかたがたに対して、話をするなかなどにおいて(直接会話はしていなくても)、その心を傷つけてしまったことがあると思う。

まったく恥じ入るばかりだ。

7月下旬~8月上旬の東京の気候が「温暖」なわけないだろう

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ネットで「マジか?」という情報を目にしました。

それは、2020年のオリンピックに東京が立候補した際、(2013年1月)招致委員会がIOCに提出した立候補ファイルというものに、東京オリンピック・パラリンピックが開催される日程について「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」というものです。

2020年のオリンピックは7月24日~8月9日、パラリンピックは8月25日~9月6日という日程での開催が予定されています。

この時期が「温暖」?

いつから「温暖」という言葉の意味が変わったのでしょうか?

変わってはいないようです。

「アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候」とありますから。

じゃあ、なんなんだ。立候補ファイルにある、この文章は。

「そのホテルは廃業した(実際は営業していたーさすがにひっかかりませんでした)」「そこはとても歩いて行ける距離ではないから俺のタクシーに乗れ(まだネットが発達していないころ地図なしで初めての街に入ることも多かったのですが、いざタクシーに乗ってみると徒歩で10分もかからない場所だったということがありました)「その情報は古い。今は〇△だ。(実は古い情報ではなかったーこの手のものにも引っかかったことはありません、あまりに見え透いていますから)」

海外(特に途上国)で客引きとかに、そんな嘘をつかれることがけっこうあるのですが、東京オリンピックの時期が「温暖」だなんて、まったくそのレベルの嘘ではありませんか。唖然としてしまいました。

しかしネット情報です。フェイクかもしれません。

ということで、TOKYO2020の公式ページをみてみました。そうしたらちゃんとあるではありませんか(以下のリンク→2013年1月7日、東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会が国際オリンピック委員会(IOC)本部に提出した立候補ファイル第1巻テーマ2「大会の全体的なコンセプト」の最初の方にある"2020年東京大会の理想的な日程"というところ)

嘘をついても招致に成功してしまえば、ということなのでしょうか?

もう無茶苦茶です。

しかし、そんな途上国の客引きが観光客相手につく嘘と同じレベルの嘘にだまされてしまうほど、IOCの委員は日本についての知識がなかったのか? 

僕が高度プロフェッショナル制度のような条件で働いていたこと

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高プロはまだ導入されていませんが、すでに高プロ同様の労働条件になっている職業があります。それは教員です。中学の教員のブラックぶりの報道を目にすることも増えています。

公立学校の教員は一般公務員より若干賃金が高く設定されいます。しかし、その代わり残業代はなしです。

社会人になってからほとんどフリーランスだったのですが、実は1980年代後半にほんの一時、北海道の地方都市で公立高校の教員をしていました。

確か朝は8時10分くらいから会議(その日の連絡事項の確認など)があり、その後、何コマか授業をこなし、15時半くらいから部活の指導(とはいっても生徒の横で見ているだけということが多く体力的にはたいしたことはないー当時は生徒が自主的にやることができる能力のあるような高校では教員がつきっきりということはなく、職員室で自分の仕事をすることが可能という雰囲気でしたが、自分の勤務していた高校は生徒の自主性がそこまでのものではなかったので、ほぼそばにいなければいけない状況。おそらく現在は何かあったらということで、常に生徒と一緒でなければならないという感じでしょうか?)

通常、18時ころには部活終了。この時点で朝から拘束10時間ですが、これで帰宅できるかというとそうでもありません。(なお、昼休みは仕出し屋の弁当をかきこんでから仕事というのが基本でした)

田舎だったのでバスの便の終了が早く、遠距離通学の生徒が終バスを逃してしまうこともしばしばで、自分の車で送るなどということも(生徒も車で送ってもらいたいものだから、ダラダラと活動を延ばすこともー「しょうがないなあ」とダラダラを黙認していたことは否定できませんが)

学校では授業と部活の指導以外に、色々な担当があって、自分は、おそらく一番仕事が多かったであろう生徒指導部で、生徒会担当でした。1学期は夏の学校祭に向けての準備があります。そして、生徒の問題行動も比較的多い学校でしたので、それへの対応のための会議、問題行動を起こした生徒との面談などにも時間を割かなければなりませんでした。

そんなわけで、授業のない時間も完全にあいているというわけではなかったです。

自分は新採で授業の準備にも時間がかかりましたが、さまざまな雑務があり、授業の合間の時間だけでは足りず、夜、学校に残って、さらに帰宅後にも教材研究、生徒に課題を提出させたときはそのチェックなどをするということが多かったです。(ちょっと記憶が定かではありませんが、帰宅してから仕事ということが多かったかもしれません)。

当時は週休2日制ではありませんでしたから、土曜日も出勤です、そして午後はいつもより長い部活。

そして日曜日。午前のみ、午後のみということが多かったように思いますが、部活です。これに対しての報酬ですが、支払いの主体がどこだったかは忘れましたが、500円が支払われるだけでした。

というような感じで毎週・毎週がすぎていきました。新採の年は4月からほぼ休みなしで、6月下旬、祖母の葬儀でやっと休むことができたのを覚えています。

比較的規模の大きな学校で教員数が多かったので、すべての教師がこういう忙しさというわけではなかったように思います。新採だったので忙しい仕事を割り振られたという面があったのだと思います。

それでも、若い先生が多く、何か「サークル活動をやっている感」というのもありました。仲間に恵まれていました。

実は自分が受け持った部活は演劇部で(演劇の経験はありません)、秋の高文連(生徒の求めに応じて脚本を書きましたーけっこう楽しんでいました)が終わると割と活動時間も短くなり負担が減ったような記憶です。生徒会の方も行事があまりなく忙しさは緩和されたと思います。

しかし、自分の時間がほとんどないという状態で(特に1学期)、あれが長く続いていたらどうなっていたか。色々考えることがあって、すぐに退職したので、けっこう思い出の部分が多い感じではあるのですが。

現在の先生方は保護者からの要求のレベルもあがっており、どれだけ大変なのだろうかと心配になってしまいます。

高プロが導入されると、今以上に自分の時間を持てない人が増えてしまうでしょう。自分の場合、職住が接近しており、通勤時間は10分に満たなかったのですが、上に書いたように半ば仕事漬けという状態におかれて、さらに通勤に往復で2時間とかなると、体力的・精神的にもたなくなることは容易に想像できるところです。

難民支援協会主催のチャリティ・ランに参加した

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もう2週間がすぎてしまいましたが、13日、アウェイFC東京戦の前、認定NPO法人・難民支援協会主催の皇居外周路チャリティラン(参加費が支援金となる)に参加してきました。

皇居外周は今や市民ランナーの人気練習コースとなっていますが、交通費をかけてわざわざ走りに行く気はせず、いままで3回くらいしか走ったことがありません(3回も行ってる、ともいう)。しかし、難民支援協会ではボランティアを行ったこともあり、たまたまスケジュールがあいたので参加することにしました。

それで、主催者から「日本にも難民がいて助けを必要としていることを多くの人に認識してもらいたいので、そのきっかけとなるよう、今回参加した皆さんに、このイベントのことを色々な形で発信してもらえるとありがたい」というようなことを言われたので、ちょっと時間がたってしまいましたが、ここに書き記しておきたいと思います。

皇居近くにはランナー向けの施設がいくつかあり、地下鉄日比谷駅に直結したところにあるところでロッカーを借用。そこで着替えてから集合場所の日比谷公園へ。

参加者は200名強。開会式では、ゲストの瀬古利彦さんが挨拶(お忙しいので挨拶のみで走られなかった)。

イベントではランとウォ―キングがあり、ランは5キロと10キロ(皇居一周がちょうど5キロです)。最近、精神的に忙しいこともあり、せいぜい週に1~2回、1回に5~6キロくらいしか走っていないので、5キロコースに参加しました。後で味スタに行かなくてはならないですしね。

その後、桜田門の前の広場(というのだろうか)に移動してスタート。この日は休日ですし、もちろん、貸し切りではありませんから、途中の狭いところでは、他のランナーと譲り合いながら走ります。

30分弱で一周完了。その後もイベントは続きましたが、一度帰宅して、着替えてから味スタに行かねばならないということで、参加賞をもらって帰路につきました。

さて、日本にもかなりの数の難民が来ており、難民支援協会とは文字通りの活動をしているNPOです。

以下、難民支援協会のホームページから、ちょっとだけその活動について引用しておきます。

「JAR(難民支援協会)は、母国を追われた難民が失った権利を回復することを目指し、支援に取り組んでいます。難民は、人として、また難民として、基本的な権利を持っています。たとえば、自由と安全が確保され、命の危険がある母国に送還されず、医食住等が保障され、家族が一緒に暮らせることなど、多岐に渡ります。
 難民のように、支援が行き届きづらい人々を支援することは、JARの事業の柱です。しかし同時に、難民は支援されるだけの人ではありません。支援を必要とする人はしっかりと支えられ、一方でそれぞれの持つ強みを活かして社会の一員となる、そのような未来を作ることを目指し、JAR は活動を展開しています。」

以上、難民支援協会から与えられた「発信」というミッション終了。

PCのHDDをクローンSSDに交換した

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今のPCはたぶん8年くらい使っていると思う。

もともとはwindows7だったが、その後、windows10にアップグレード。

大きな不具合はなくちゃんと動いてくれてはいるが、いかんせん遅い。なかなか立ち上がらないし、シャットダウンも「あれ? ちゃんとシャットダウンしたよな?」という感じで、いつまでもハードディスクが回っている。

そろそろハードディスクも寿命が近づいて来ていると思うし、買い替えを考えたが、HDDのクローンSSDを作って換装すると驚くほど速くなるということをたまたま知った(そんなにPCに詳しいわけではないし、それほど興味があるわけではないので、そちら方面へのアンテナは全然張りめぐらしていなかった)。

PCのスペックは今のままで十分だし、万が一換装に失敗したら新しいPCを買えばよいだろうと思い、換装を実行することを決意。(自分のPCは交換の際、内部をいじらなくてもよい形なので、換装失敗はクローン作成の失敗くらいしか想定できず、その場合、HDDは生きているので、しばらくは現在のままのPCで我慢することも可だし)

さて、現在のPCのHDDは300ギガで、実際使用しているのは130ギガくらい(デジカメ画像などはいったんPCに入れるが、基本的には外付けのHDD2台に同じものをコピーして、順次PCのデータは消去しているー心配性なのでバックアップ用のHDDをもう一台買おうかと思案中)。

このHDDのデータをSSDにまるごとコピーする(クローンを作成する)ためのソフトはフリーソフト(AOMEI backupper standard)を利用。

使用したSSDはサムスン860EVOの250ギガのもの。もとのHDDより50ギガ容量が少ないが、ネットで色々調べたところ自分のHDD使用状況だと大丈夫そうなので購入(8315円)。もしデータが納まりきらず、クローン作成に失敗したら、もう一台購入しようと思っていた外付けのディスクとして使用すればよいと判断。

少しドキドキしながらクローン作成を実行(その前にSSDのフォーマットが必要、また、SSDとPCをつなぐためにケーブルもしくはSSDのケースが必要ー自分はケースを購入→クローン作成に失敗した場合これに入れたまま、外付けディスクとして利用できる)。

2時間強でクローン作成終了。

で、再び少しドキドキしながら、HDDとSSDを入れ替え。(PCによってこれが簡単なものと、少し面倒なものがあるようだが、自分のPCはHDDの交換が前提のような造りになっており、HDD部分の蓋をはずすだけで交換ができたーだから自分でやる気になったのですが)。

交換終了後、PC立ち上げ。

速いです。

ところで換装の詳細はネット上にとても詳しい記事がたくさんあるので、そちらにあたってもらった方がよいかと。

あけましておめでとうございます

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201712札幌01

*写真はイメージ(札幌市内)-新年とは関係ありません



あけましておめでとうございます。

今年もボチボチやっていきますので、よろしくお願いします。

去年は何とか4回海外へ行くことができましたが(長期間日本を離れることが難しいため長くても10日弱/1回の旅行)、今年も何とかそれくらいは出かけたいと思ってます。

それはそうと、今年はもしかすると憲法改正の発議が行われるかもしれません。ということで、憲法が変な具合にいじられぬよう、自分のできることをやっていこうと思います。

いつの間にか安い国になっていた日本

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今回、イタリアのラ・スペツィア駅にあるバールでサンドイッチを買った。

表面がカリカリの鏡餅型のパンを2つにスライスして、そこにトマトとチーズをはさんだだけのもの。

値段は4.2ユーロ(日本円に換算して550~560円。両替の際のロスが入ると600円くらい)。

5ユーロ出したら、なぜか4.2ユーロもつり銭をくれてびっくりしたが、もちろん店の人のミスだが、列を離れてつり銭が重いので気が付いた。

すぐにミスったよということを伝えたかったが、けっこう客がたてこんでいる。つり銭が少なかったとかいうクレームと思われると説明に時間がかかり、他の客に悪いので、客がいなくなったのを見計らって、間違っていますよと話しかけた。最初、彼はクレームかと身構えたが、つり銭の額と商品の額を取り違えたということがわかり、照れ笑い。恐縮しながら、お礼を言ってくれた。

まあ、このことは、この記事の本題ではない。

本題はサンドイッチの値段。

おそらく日本で同じものを600円で売ったら絶対売れない。おそらく350円か400円が限度だろう。

というくらい、今、日本の物価は先進国の中ではとっても安い。

昼にその辺の定食屋でも700円くらいでけっこうな内容の食事をとることができる。ヨーロッパで同じレベルの食事をしようと思うと、安くて1200~1300円。場合によっては2000円くらいかかってしまう場合も。

毎年冬になると、オーストラリアから大挙してニセコ地方のスキーリゾートにスキー客がやってくるが、(オーストラリアの物価は知らないが)彼らにとって日本は物価の安い国で、飛行機代をかけてやってきても、それほど大きな負担ではないのだろう。(自国で休暇を過ごすより安いのか?)

さて、日本の物価が先進国のなかでこんなに安いの原因は、非正規労働者の低賃金にあるといわねばならないだろう。

たとえば、時給1000円(最低賃金がもっと低いのはご存知の通り)で一日8時間、週休2日で52週働いたとして、年収208万円。これでいったいどうやって生活しろというのか。この仮定は、週休2日で計算したので、年末年始の休みとか、ゴールデンウイークとかは勘案していない。まったくひどいもんだ。

何かおかしくないか?! 日本。

長く旅をしているが、先進国を旅するたびにこうした感覚が強くなる。

今、たいへん多くの外国人観光客が来日しているが、彼らにとって日本の旅先としての魅力の一つが、「安さ」であることは間違いないだろう。

明けましておめでとうございます

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年が明けてからすでに一週間が経過してしまいましたが、遅ればせながら、新年のご挨拶を申し上げます。今年もよろしくお願いします。

年末年始、まったく更新できませんでしたが、別にどこかへ行っていたというわけではなく、ちょっと体調を崩していました(今も完調ではありませんが)。

13年ほど前、原因不明の回転性のめまいに襲われ、4年ほど前に再発、そして、今回はそこまでひどくはないけれど、それに近い状態になりました。

最初、この症状が出た時には有効な治療方法に出会うことができず、耳鼻科にかかり投薬を受けてだましだまし生活していました。

ひどいめまいは再発しないものの、ふらつきはおさまらず、つらい状態が続いていたのですが、ひょんなことから、かなりの治癒実績をあげている札幌の内科医七戸満雄氏のことを知り受診しました。

七戸医師は"メニエール病"の原因が水疱瘡ウイルスなのではと疑い(ウイルスが再活性化した際、体のどこの部分で悪さを行うかで症状が決まるとのことーその一例が帯状疱疹)、患者に抗ウイルス薬を処方したところ、80%以上が改善されるという結果を得ているということでしたので、藁にもすがる思いで受診したわけです。

そして、ヴァルトレックスという抗ウイルス薬を2週間服用しました。

症状が出てから4カ月も経過しており、どうかな?と思いながらの服用でしたが、結果は良好。ふらつきはすっかりなくなりました。

しかし、この治療方法、耳鼻科の専門医は認めておらず、保険が適用されず、ヴァルトレックスの薬価が高いこともあり、かなり高額になるというのが玉に瑕です。

そして、耳鼻科の専門医はいまだその治療法を認めておらず、保険適用外なので、全額自己負担です。

なぜ、耳鼻科専門医は認めないのか? 色々理由をつけているようですが、もしかして面子? と思ってしまいます。

何カ月も、場合によっては何年も薬を飲んでよくならないのに、わずか2週間かそこらヴァルトレックスという薬を飲んだらよくなってしまうのですから(服用した患者の8割~9割)。

で、2度目に症状が出たときも、ヴァルトレックスで乗り切りました。

めまいの症状に抗ウイルス薬を処方してくれる医師はいまだ少ないので、東京の自宅から2時間かけて鎌倉の額田記念病院まで行きました。

そして今回です。

回転性のめまいまではいきませんが、パソコンのディスプレイを見るのもつらい状態で原稿仕事もままならず。まして、ホームページの更新などは。。。

年末、札幌に帰ったので、七戸医師がいらっしゃる札幌藤和病院へ(七戸医師はかつては内科医を開業していましたが、医院を閉じて週に2日、札幌藤和病院でめまいの患者を診ています)。

ヴァルトレックス500mgを一日6錠(2錠×3回)を2週間分出してもらいました。かかった費用は、全額自費のため53000円あまり。

やはり薬は効いてくれて、症状はかなり改善されました。それで、2017年初となるこの記事を書いています。

しかし、七戸医師もご高齢で、また、同じ治療方法を採用している医師も増えないという現状。この先、同じような症状に苦しんでいる、もしくはこれから発症する人はどうすればよいのか。

久しぶりの広島

201607原爆ドーム

参議院選は、改憲勢力にかなりの議席を取られてしまったが、野党共闘が功を奏した部分も大きかったと思う。

さて、仕事で、かなり久しぶりで広島にやってきた。

で、少し早めの飛行機に乗り、仕事前にちょっとだけ平和記念公園に行ってきた。

修学旅行の中学生(だとおもう)が、課題か何かなのだろうか、外国人観光客に対して英語で取材(質問)している様子が微笑ましかった。

熊本震災被災者支援ボランティアに参加して思ったこと

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前の記事で、熊本震災被災者支援ボランティアに参加して思ったことを、英語にある「Thank you (for your help)...助けて下さってありがとうございます」に対する「It's my pleasure (to help you)...あなたを助けることは私の喜びです」という言い方を手掛かりにボランティアの気持ちを推定しつつ少し書きました。

しかし、この会話表現の由来が何なのか確認できておらず、たとえば、権力者とそれに従う人の間で使われるものだとすると、震災支援で助ける側と助けられる側との関係にあてはめて述べると何か変な感じになってしまいます。ということで、由来の明らかではない表現を使うのを避けて書き直しました。

自然災害に遭われた方々を支援するボランティアに参加した方々が「逆に力をもらった」という、その感想を述べることがけっこうあるように思う。テレビなどでそうした映像を見て、その言葉の持つ意味を今一つ理解できずにいたのだけれど、実際にそういう活動をしてみて、それがどんな感覚から発される言葉なのかわかったような気がする。

人は皆、他者の力になりたいという欲求を心のどこかに持っているように思うが、実際の現場で、自分みたいなものでも他者の力になることができるのだということを認識=それを「力をもらった」というような言葉で表す人が多いといったところだろうか?。人それぞれだとは思うが。

それに加えて、被災者の方と心の交流もできるし、他のボランティアの方々とも心を通じ合わすことができる。

この手のボランティア活動には繰り返し参加する人が多いようだ(災害は繰り返し起きては欲しくないが)。最初は「放っておくわけにはいかない」「助けることができる人間が行かなくては」というある種使命感のようなものに駆られてボランティアに行くのかもしれないが(僕もそうだった)、実際活動してみると、上に書いたような経験ができ、それがリピートする要因になっているように思う。そして、僕も可能ならばまた行きたいと思っている。

熊本震災被災地支援ボランティア

201605熊本01

昨日、日帰りで震災被災地支援ボランティアのため熊本へ行って来た(写真は阿蘇熊本空港着陸の直前-ブルーシートがかけられた建物が多い。)

NGOの活動の補助などのボランティアはしたことがあるだけれど、自然災害にあった方々を現地で直接支援するという活動は初めである。

震災発生後、熊本へ行こうとは思ったものの、①雨天時は活動に危険が伴ったり制約を受けるためボランティアが募集されなかったり、その数が極端に減らされること、②応募者が多い場合、ボランティアの受付が打ち切られる場合があること、③自分は東京居住のため移動にかなりのお金が必要になること、④宿泊施設の確保がかなり難しいということ等々、色々と問題があった。

③については、東京-札幌往復生活や海外旅行で稼いだマイルがたくさんあるので特典航空券が使える。ただし、それで単純にOKかというとそうではなく、①がかかわってくる。自分の行ける日に特典航空券を確保しても(特典航空券の予約は4日前までに完了する必要がある)、活動予定日の天気予報が悪くなった場合、予約の変更は可能だが、4日後以降の便にしか変更できず、また、天気の動向を気にせねばならない。被災地支援ボランティア参加の目的で特典航空券を予約する場合、4日前という限定をはずしてくれるとうれしいのだけれど(ボランティア活動証明書を事後に提出という条件をつけるなど方法あると思うがかなり煩雑ですね)。

さて、色々と問題はあったのだけれど、連休が終わってボランティアが足りなくなってきたという情報があり、自分の行けそうな日の週間予報は曇り、特典航空券には空席あり、ということでまずは航空券を確保した(宿泊は難しいので日帰りで)。

その後、毎日天気予報をチェックしていたが、段々と良い方へ変化し、今週の初めには予報は晴れに変わった。最高気温が29度くらいになるというが、その程度ならば問題なし。

次にどこで活動するかを決めなければならない。ボランティアを募集している被災地は沢山あり、どこに行こうかと色々考たが、ちょっと人手が足りていない感じ、空港からタクシーで行ってもそんなに高額にならず、活動後は徒歩で空港に行くことが可能ということで、西原村へ行くことにした。

で、昨日(19日)、予定通り早朝便で熊本へ飛び、タクシーで西原村のボランティア・センターに移動。そして、オリエンテーションが行われた後グループ分けされて村の3箇所に置かれたサテライトへ移動し(車で送ってくれる)、そこでさらにグルー分けされて、支援を必要としている場所へ移動して活動した。

20160502熊本02

上の写真はサテライトで撮ったもの(被災者支援に専念していたので、現地の写真はほとんど撮っていません)。

活動翌日の今、背中と指がかなり痛い。普段、背筋や握力などは全然使わない生活をしているが、被災者の家の中の使えなくなったものや、倒壊しブロック塀のブロックをトラックに積み込む際、かなり背筋と手先の力を使ったらしい。

始皇帝と大兵馬俑

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201602特別展「始皇帝と大兵馬俑」

2月21日まで東京国立博物館平成館で開催されている特別展「始皇帝と大兵馬俑」に行ってきた。

写真は本物ではなく、この展覧会用に制作された複製品で、ここは写真撮影用のスペース。

兵馬俑は海外旅行に行き初めた頃の87年に現地で見ている。

始皇帝陵とか兵馬俑の博物館など、大きく様変わりしていると思う。

最寄りの街、西安も含めて、その変貌ぶりを確認しに行きたい気も。。。

しかし、あの頃の西安は大きな都市ではあるものの田舎田舎していたのだが、現在はまったく違う街になってしまったのだろうなあ。

新年のご挨拶

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201501早朝のエーヤワディー川

年明けからちょっと時間がたってしまいましたが、一応、新年のご挨拶を申し上げます。(写真は去年の1月に撮ったミャンマーのエーヤワディー川の早朝の一コマです)

今年も東京・札幌を往復しつつ、コンサドーレのサポート(というかほぼ観戦)、時々旅行という生活を送りつつ、できるだけブログやホームページの更新をしていきたいと思います。

「あっ」それから、もちろんデモとか集会とかにもできる限り出かけたいと思います。本当は、そんなことに時間を割かなくてもよい状況だといいのですが、何せ立憲主義と民主主義の危機なので。

危機の一つは改憲(壊憲)の動き。自民党が考えている通りの憲法になってしまうと、例えば、基本的人権がまずいことになってしまうということを、どの程度の人が知っているのか?(どうまずいことになってしまうのかということは、おいおい少しずつ書いていくべきかもとも思ってます-既にあっちこちで述べられていることではありますが)

また、一部の国民のなかにある、他のアジアの国々の風下には立ちたくないという意識(低く見るという意識)が形成されてきた歴史的経緯(豊臣秀吉政権ー徳川幕府ー明治維新という過程に見られるもの)を少し詳しく勉強してみたいとも思っています。

15年安保反対のデモをとりあげた写真展のことなど

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例によって、少し時間がたってしまったが、先日、札幌への飛行機に乗る前、SEALDs(シールズ)の植田千晶さんの写真展(12月26日まで開催)に行ってきた。

安保法制に反対するデモの様子などを撮ったもので、新聞などでもとりあげられいたものである。

デモに参加したものとして、あの時の様子がどんな感じで写真として切り取られているか、ちょっと興味があったが、実際に見てみると、テンションが高まっているデモの様子ばかりではなく、弛緩した場面なども切り取られており、面白かった(興味深かった)。

1512雪の札幌

写真は12月30日の札幌。

暖冬気味で、11月下旬に積もった雪は一旦溶けたが、年末を迎え、いつも通りの冬になったという感じ。

ゴール裏席(サッカーの)に似た感覚を覚えた国会前デモ

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今はコンサドーレ札幌の応援に行っても、ゴール裏で他のサポーターと一緒に声を出すことはなくなったが、この3ヶ月強の間、何度も行った国会前の戦争法案に反対するデモでは、何となくではあるが、ゴール裏に戻ったような感覚を持つことがあった。

ゴール裏では、目の前にいる選手たちに向けて応援の気持ちをこめてコールする。一方、国会前でのコールは応援のコールではなく、おもには主張していることに関するコールである。国会前という政治的に象徴的な場所において、大人数でコールをすることによって、マスコミに取り上げさせ、運動を可視化するというのが大きな目的であったと思う。しかし、だんだんと政府と対峙する野党を後押しするという性格も帯びてきた。

もともとSEALDs(シールズ)が進める運動は特定政党を応援しようというものではなく、短期的には法案成立を阻止するため野党の力を結集させよう(利用しよう)というものだった。野党勢力の結集という意図は確実に実現に向かい、6月の後半に行われた渋谷での街宣においては、民主党・共産党・維新の党・社民党・生活の党の国会議員(社民党のみ国会議員のスケジュールの関係か市議会議員の方)が同じ街宣車の上に立つということも実現した。共産党は志位委員長がやってくるという力の入れようで、SEALDsを中心とする若い人たちの動きに一番敏感だったというべきか。(ちなみに、自分は共産党支持者というわけではなく、選挙権を得て以来共産党の候補に投票したことはない? もしかしたら1回くらいはあったかも?)。

さて、話を戻そう。国会前のデモでも、毎回のように野党の議員がやってきてスピーチをするようになっていき、だんだんとサッカーにおけるサポーターと選手との関係に似たようなつながり(政治・社会運動では「連帯」という言葉を使うのか?)ができていったように思う。そうしたなかで、政府と徹底的に闘うことを避けていると見られている議員がスピーチを行ったときはデモ参加者からヤジが発せられ、集会進行役のSEALDsのメンバーがそうしたデモ参加者に対して「僕も〇〇党に対しては言いたいことあるけれど、今は法案反対の力を結集したい。話をちゃんと聞きましょう」という趣旨のことを発言した。まるで、選手に文句をいう一部サポーターに対して「今は選手の後押しをすることに力を尽くそう」と語るコールリーダーのよう。

そして、参議院での採決が迫るなか「野党は頑張れ」というコールが加わり、国会議員も国会前に来て「皆さんの声は議事堂の中まで届いています」と語り、それをうけて、コーラー(コールをリードする人)が「声をそろえて、国会の中に届けましょう」という感じでコールをリード。また、野党議員は国会内の情勢の報告(今休憩中とか何時から再開とか)まで行うようになった。さらに、僕は離脱してしまっていたのだが、法案が通った後、野党議員が最終的な報告のためにやって来てマイクを手にした。これなどは、試合後に選手たちがゴール裏に来るのと、感覚的に重なるものがある。

まあ、今回のことは、デモ側・政治家側がお互いの力を利用して共通の政治課題に向かおうという政治の場におけるものであって、スタジアムにおけるサポーターと選手との関係に重ねて考えるのは無理があると思うが、少しだけそんな感覚を覚えたということで。。。

さて、デモに参加した人たちに共通する要求は立憲主義・民主主義・平和主義の擁護といってよいだろう。そうした運動の高揚をうけて、共産党が安保関連法の廃止を目的とする政権樹立に向けた勢力の連合を呼びかけた(安保関連法の廃止と集団的自衛権の一部行使容認の閣議決定を廃棄した後、衆議院の解散を行うということである)。SEALDsらがそういうことを求めて動くときが来るのかなと思っていたが、若者を中心とする運動にもっとも敏感に反応してきた共産党が早くも動いてきた。問題は他の野党がこの動きにのるかどうかだが、これからも続くであろう国民的な運動が、野党の大同団結を後押しするのではないかと考えている。

個人的には今の政治状況悪化の元凶ともいえる衆議院の選挙制度(小選挙区制)の改正も大同団結の主題にできないものかと思うが、主題を増やすと話がややこしくなるので無理か?

9月19日の朝に思ったこと

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20150918国会前01

18日、国会前に行ってきた。3夜連続である。

参議院での採決が未明に行われるということで、デモは今日(19日)未明まで続いたが、金曜の夜ということもあって、23時を過ぎても閑散としていくことはなかった。最後まで見届けたいという気持ちもあったが、連夜の狭い中での5時間余りの立ちっぱなし、ゲストのスピーチの時間をのぞいてのコールしっぱなし。かつてコンサドーレのゴール裏でコールに加わっていたものといてのプライドもあって(笑)、周囲の人たちに負けない声量を維持しようと無理もした。ということで、やはり23時半ころにはエネルギー切れ。始発で帰宅するという選択肢もなくはなかったが、結局は離脱を選択。

帰宅すると、テレビでは安保関連法案の採決を行うための参議院本会議が中継されていた。民主党の福山氏、維新の党の小野氏、共産党の小池氏の反対討論は、今国会での審議の問題点、法案の問題点を改めて浮き彫りにさせるものだった。今国会の最終盤における野党議員の諸演説はにおいても同様のことがいえると思う(全部は見ることはできていないのだけれど)。

法案は通ってしまったが、各地で反対の行動を続けてきた人々に落胆のムードは漂ってはいない。それは、当初、7月で決着がつくだろうと思われていた国会論戦を9月の中旬まで引き伸ばさせることができた要因の大きな部分は、いまだかつてないほど多くのデモや集会が行われたことにあると思われるからだ。それらが報道されることにより反対の動きが可視化され(一部の大マスコミは政権の考えを忖度してできる限りデモの動きを小さく見せようと努めていたようだが)、多くの国民に考えるきっかけを与え、それがさらに運動を拡大させ、そしてそれが政府への圧力となったことは間違いのないところだと思う。

それでもデモの意義を認めたがらない冷笑者たちは、「結局、法案は通ったじゃないか」と言うかもしれない。しかし、闘いはここで終わりではないのだ。この間(かん)、いまだかつてないほどに広がった運動は、すでに次の段階へと向かって動き始めている。ここ数日、デモのコールに「賛成議員は落選させよう」というものが加わった。そして、この運動は、当面、今回成立した法制に対して起こされるであろう違憲訴訟(憲法学者で慶應義塾大学の小林節名誉教授は「法律は憲法9条に違反し、平和に暮らす権利が損なわれる」として、研究者などおよそ100人の原告団を作り、今後、国に賠償を求める訴えを起こすことにしている-NHKニュース)などとも連携をとりながら来夏の参議院選挙を目標に続けられと思う。もちろん、その先の選挙・自公政権打倒も視野にいれつつ。

しかし、運動は政権交代で終わりではなく、再び憲法を無視した、なんでもありの政治を実施するような政権を誕生させないような動きとして、ずっと続くと思う。人々がいったん政治に対して無関心になってしまうと、今回のようなことが起きてしまうことを人々は学んだからだ。

6月5日、梅雨の季節、強い雨のなか、SEALDsの主催するデモに参加してからすでに3ヶ月強、いつの間にか、キンモクセイの香りの漂う季節になった。戦争法案成立阻止をめざすデモはとりあえず終了したが、立憲主義・民主主義・平和主義の擁護を求めて闘った人々は、その歩みを止めない。

9月16日国会前

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20150916国会前

9月6日夜、戦争法案に反対する国会前のデモに行った。

政府のやり方はもう滅茶苦茶。いちいち書くべき言葉もない。

国会前の警察による過剰警備も相変わらず。

通称「かまぼこ(こんな通称があることを初めてしった-笑)」と言われる警察車両がずらりと並び、デモ参加者が広範囲に広がるのを押しとどめようとする(多くの人々が抗議の意思を示そうとしている絵を報道させたくないという官邸の意思を反映しているといわれる)。この厳しい警備の様子は海外でも報道されており、「日本って民主主義国家じゃなかったっけ?」と疑問を持たれているのではないのか?

昨夜は終電の少し前まで、およそ5時間半くらい冷たい雨のなか、国会前にいたが、SEALDsをはじめ未明まで抗議を続けた人たちも。そして、SEALDsのメンバーはゴミを拾ってから撤収とか(デモ参加者のほとんどはゴミを散らかすなどということはしないが、残念ながら沢山の人々の中にはモラルを欠く人がいてやはり少しはゴミが散らかってしまう)。

東京では冷たい雨が降り続いているが、今日も抗議活動は続く。幸い、自分は自由業で今日も参加可能である。ということで、今日も参加、である。

安保関連法案に反対する学生と学者による街宣行動に行ってきた

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201509ビッグイシュー9月号裏表紙

写真は現代美術作家奈良美智(ならともよし)氏の作品で、ビッグイシュー9月号の裏表紙。

今日はこれをプラカード代わりに持って、新宿の歩行者天国で行われた「安全保障関連法案に反対する学生と学者による街宣行動」に行ってきた。

そう、また、安保法制反対の行動に関する記事である。6月からしつこくこの手の行動に参加しているが、今日は雨の予報もあり(途中からかなり強い雨になった)、実は参加をためらう気持ちもあった。そういう感情が生まれるのは普通だと思う。しかし、今はそういうわけにはいかないのである。

今日は、新宿に12000名くらいの人が集まったということだが、休日の新宿ということで、通りがかりに街宣行動を見ていった人も多いと思うし、意識して集まった人で、こうした場に初めて参加した人たちも確かにいたと思う。しかし、圧倒的多数は、ふだんから国会前などの抗議活動に参加している人たちだと思う。SEALDsの「Tell me what democracy looks like.」というコールに対して、当たり前のように「This is what democracy looks like.」とレスポンスする人たちが沢山いたので。

今日は街宣ということで、いつものデモとは違い、学生、学者、民主党・社民党・共産党の代表者のスピーチが中心であったが、いつもと同様に、大人数が参集してマスコミに注目させ、報道してもらうことにより、より多くの人たちに今起きていることに関心を持ってもらう、政権側に反対運動の勢いはますます盛んであることを知らしめるという目的があったかと思う。

安保法案の行方はどうなるかわからない。しかし、安保法案のみならず、自民党のめざす改憲の動き(基本的人権に対して制約を加えることができるような内容があるなど「壊憲」ともいうべきもの)を止めるためには、今の運動を息の長いものにして、無関心層をこちら側に引き付けていく必要があると、運動に参加している多くの人たちは考えており、だからこそ、最近日本各地で街頭に出て、さまざまな行動をしている。

アメリカの公民権運動を指導したキング牧師の言葉に次のようなものがある。

「最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。」

現在の安保法案や政治のあり方についても同ことがいえると思う。心の中でおかしいとは思っていても、黙っているのは承認しているのと同じなのである。

201509新宿歩行者天国街宣

しかし、現在の一部のマスコミの報道の状態だと、国会の状況(政府の答弁が滅茶苦茶なこと、国会を無視する形で自衛隊と米軍の協力体制が築かれつつあることが明らかになってきていること)、デモの規模・数の多さなどを知らずにいる人たちがけっこういるのではないか。

国会前に行ってきた

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20150830国会前

予定通り、国会前に行ってきた。

写真は国会前の路上から(国会前の道路がデモ参加者に開放された)。

明日8月30日は国会前へ行く

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20150828国会前

昨日もSEALDs(シールズ)が主催する、安保関連法案に反対する国会前デモに参加してきた。

小雨も降り、また、8月30日に挙行される「国会10万人抗議」にむけてエネルギーを蓄えているのか、参加者はいつもよりは少なかったが熱さはいつも通り。

そして、「国会10万人抗議」だが、これは「戦争をさせない・9 条壊すな!総がかり行動実行委員会」が「国会周辺を10万人以上の戦争法案絶対反対!の怒りの声で埋め尽くそう!」ということで呼びかけたもので、今回の安保関連法案に反対する諸団体が参加する。日本各地から国会前にやってくる人たちも多いようで、どれだけ集まるか楽しみ。また、当日は全国で様々な抗議行動が予定されている(空前の数だそう)。

安保法案の成立が政府の予定していた時期よりかなり遅れているのは、反対運動の盛り上がっているからであり、デモが決して無意味な行動ではないということを実感している。

しかし、こうした動きを知らない人たちも意外と多いと思われ、マスコミに大々的に報じさせ、安保法制に反対する動きをより多くの人々に認識してもらい、反対運動のうねりをより大きなものにするためにも、参加者の数がとても重要になってくる。

とはいえ、今回の法案を止めることが難しい状況であることにはかわりはないだろう。しかし、止められる可能性は追求すべきだと思う。そして明日は同じ考えを持った人々が国会前、国会周辺に詰めかける(事情で国会前へ行けない人、具体的に動けない人もできる範囲でいろいろと頑張っているよう)。

ということで、自分も明日は万難を排して国会前へ行く。

上記、総がかり実行委員会の抗議行動は14時スタートだが、SEALDsは13時から行動を開始するということなので、それに合わせて行こうと思っている。

渋谷デモ

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ティーンズソウル・デモ

今日、予定通り、ティーンズソウルという高校生のグループ主催の、安保法案に反対するデモに参加してきた。(なんかデモ参加ブログのようになってしまっています-笑)

写真はセンター街を通過した際に撮ったもの。

高校生によって構成される第一梯団(行列の単位を梯団と呼ぶらしい)は、ずっとずっと前の方。高校生のあとには大学生が続き、その後にはおじさん、おばさんらが続いた。

車道側から、渋谷の街を行きかう人々の様子を見ることができて興味深くもあった。

酷暑のなか、代々木公園スタート、渋谷の街中を通って代々木公園でゴールという、3km強のデモだったが、直射日光を浴びる場所は少なくて助かった。

ゴール後、歩道で、続々とゴールへ向かう後続部隊を見ているとき、ホノルルマラソンでゴールした後、後続のランナーたちのフィニッシュを眺めていたときと同じような感覚がよみがえった。たっぷりと汗をかいた気持ちよさ、フィニッシュをめざして走っている、知り合いでも何でもないランナーたちに対して感じたシンパシー、そんなものがよみがえってきたという感じか。

満月の下、砂防会館から日比谷公園まで車道を歩いた

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20150731国会請願デモ01

昨日(7月31日)、安全保障関連法案に反対する学生と学者による共同行動というものが行われ、それに参加してきた。

名称には「学生と学者」とあるが、広く一般市民にも開かれたもので、まず平河町にある砂防会館における集会の後、会館前をスタート地点として、国会議事堂裏手を経由して、日比谷公園まで国会請願デモも行われた(1部、2部に分かれて行われた)。参加者は4000名だったとのこと。

上の写真は自民党本部前を通過した後あたりで撮ったもの。満月が美しかったので、国会議事堂とともに撮ったのだけれど、デモの行列を含んだ構図にしておくべきだったか。

この後、国会議事堂の裏手の道路を野党の国会議員たちの声援を受けて通過。あまり報道されないが、今回の安保法案に対する動きは、国会と国会外(国会外の動きは世代の垣根などなくものすごい広範なものとなっている-明日2日は渋谷で高校生が主催するデモが予定されており、ものすごい数の参加者があると思われる-僕も行くが)が結びつきつつ、大きなものになっているということを実感させるものだった。

20150731国会請願デモ02

デモのゴール地点近く。

デモ行進の後は、国会前で行われている抗議活動へ。

しかし、昨日は蒸し暑さが半端なく、暑さはに強い自分にとってもけっこうきついものだった。ボランティアの人たちが給水所を設置してくれてはいるものの(給水所までできるって凄い!)、この先も「ほとんど亜熱帯か」という感じのなかでの抗議活動となるので、ペットボトルなどの飲み物は必携だ。

日比谷野音、そして国会前(7月24日)

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昨日、午後国会図書館で調べ物をして、その流れで、安倍政権NO実行委員会主催の集会に参加した。

5時すぎ、徒歩で国会図書館から国会議事堂前を経由して日比谷公園へ向かったが、歩道はすでに警察による厳重な警備体制が敷かれていた。

5時半、集会の会場となっている日比谷野外音楽堂開場。
参加者が続々と集まってくるが、消防法の規定により定員以上の入場は許可されないとのことで、開場が一杯になった段階で、入口が閉じられた。

2015年7月24日日比谷野外音楽堂
↑集会の一コマ。

7時15分すぎに集会が終了。多くの人は、そこから安倍政権に対する反対を表明する抗議集会(官邸前と国会前)へ移動。

僕は、SEALDs(シールズ)が進行役をつとめている、国会前の北庭エリアに向かったが、尋常ではない警察の通行規制にあってしまった。遠目にみても、抗議活動を行っている歩道にはまだ十分なスペース的余裕があるのにもかかわらず、混雑を理由に、横断歩道を渡らせてくれないのだ。彼らの規制には法的な根拠はないようだが、余計な摩擦は避けるため、ものすごい遠回りをして、国会前の北庭エリアへ。やはり、まだ、スペース的は十分あった。

集会参加者の行動は本当に平和的で、前へ出て行く人、帰る人、皆譲り合っており、最低限の通路が確保できていれば、混乱は起きないというのは、ここのところの集会の様子を見て警察も認識しているはず。しかし、どのレベルなのかは、一参加者からはわからないが、上から集会の規模を抑えるような支持が出ているからこその規制なのだろう。まったく、上からの命令には絶対従わねばならない警官たちの気持ちを察すると、気の毒になる。6月の段階では規制も非常に緩やかで、集会からの帰り道、「ご苦労様でした」と声をかけてくれる警官さえいたわけで、多くの警官は、単に大きな事故が起こらず、何事もなく集会が終わるように警備したいと気持ちだと思うから(というか思いたい)。

今後もこうした抗議活動は続くが、こうした過剰な規制に対しては批判が高まっており、来週以降のデモに対し、どういう対応をしてくるか注目したいと思う。(個人的には、参加者が増えすぎて、国会議事堂周囲だけでなく、その周辺のかなり広範囲にわたって人がたまってしまい、警備のしようがない状態になるのを見てみたいが)


20150724国会前01
↑ここのところ毎回登場する、現首相を20世紀前半の独裁者になぞらえた格好をした人。

20150724国会前
SEALDs(シールズ)がリードするブロックは、若者中心なのだが(シールズの呼びかけがあって)、それに賛同する年配の参加者も非常に多いし、話題になっている現場を見に来たという感じの人も多い(その場にいるだけという参加者も歓迎されている)。長時間シュプレヒコールをしているので、時間の都合のつかない人、疲れた人は少しずつ、その場から離脱して帰路につく。そして、後ろの人たちが少しずつ前に出て行き空いたところに入って行くということが非常にスムーズに行われいる。ということで、僕もかなり前の方に出て行った(もちろん、前に進まず、後ろの方で立っているだけというのも、まったく問題なしなのだが)。

SEALDs(シールズ)を支持します!

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SEALDs(シールズ)01

SEALDs(シールズ)02

(クリックすると大きな画像が表示されます)

木曜に帰国し、昨夜(金曜)は戦争法案に反対する国会前抗議行動に参加してきました(『報道ステーション』で報道されたようです)。

上の抗議行動を主導しているのは、SEALDs(シールズ)という10代から20代前半の学生たちによるグループで、その正式名称というか名称の意味は、Students Emergency Action for Liberal Democrasy(自由で民主的な日本を守るための学生緊急アクション)ということのようです(詳細はSEALDsのページtwitterで)。

今回政府が成立をめざす安保法制は、戦争をしない国という日本国のあり方を根本的から変えるものといえるでしょう。そして、このような重大な変更を憲法の規定を恣意的に解釈して行おうとしており、そんなことがもし可能ならば、もうなんでもありの世界、憲法もへったくれもないというひどい状態になってしまいます。

そんな動きを止めようとするSEALDsの考え方に"賛同し"、その端っこではありますが、その行動に加わることにしました。

アウト・ゼアー・ジャパン・ツアー2015

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201504ポール・マッカートニー

おとといの夜、ポール・マッカートニーのライブに行ってきた(アウト・ゼアー・ジャパン・ツアー2015)。

ポール・マッカートニーのライブに行くのは、90年、93年、2002年、2013年に続き今回5回目(5回とも東京ドーム)。

この間、ポールのライブに対する世間の関心も大きく変わったような感じがする。

90年・93年はチケットの購入はとても容易だった。2002年はカード会社からのメールで公演情報を得て、そのカード会社を通じてチケットを購入したので、チケット購入の難易度ははっきりとはわからないが、まだ、購入しやすかったのではないか?

90年はまだお金があまりなかったので、スタンド席で我慢。93年、2002年はアリーナ席。ということで、2002年までは、スタンド席かアリーナ席かの選択ができたはず。というか選んで購入した(当然スタンド席とアリーナ席とでは料金も違ったと思う)。

しかし、2013年はチケット購入の難易度が大幅に上がった。まず、席のほとんどがS席となり、アリーナ席とスタンド席の価格差がなくなった(一部A席・B席というのが存在するが)。かつ、S席として購入するので、アリーナ席とスタンド席の選択ができなくなった。また、購入前に抽選という関門までできてしまった。

この大きな様変わりの背景は何なのだろうか?

おそらく、インターネットの普及により、公演情報の拡散が早くかつ広範となり、世間の注目度が格段に上がったのだろう。それに、ポールが70歳を超えたことも、注目度の上昇につながっていると思う(ニュースなどでも、この年齢ですごい!というような報道がなされているし)。

さて、2013年は抽選の申し込みを行い、めでたく当選。しかし、いざ発券してみると2階席。かなりがっかりだった。

その後、2014年にもポールの日本公演が行われることになったが、場所は国立競技場と日本武道館。日本武道館の方はよい席は10万円もするということではなからパス。国立競技場の方も例によって席を選べないので、どうすべきかと迷っていたが、ポール・マッカートニーのオフィシャル・サイトのクラウド・サージを通じて買うと席を選べるということを知り、そこで購入(厳密にいうと、選ぶというか希望枚数を入力してクリックすると用意できる席が示され、それが気に入らなければさらにクリックするという形)。知ったのが若干遅かったので、すでにアリーナ席は売り切れていたが、ステージのほぼ正面のスタンド席に空席があったので購入。

しかし、周知の通り、2014年の公演はポールの体調不良によりすべてキャンセル。チケットも払い戻しとなった。「国立競技場」との記載のあるチケットは貴重なので、一部では払い戻しをせず、チケットを手元に残すという人がいたという話もあるが、クラウドサージで買ったチケットは、購入で使用したクレジットカードの口座に返金されるというパターンだったので、僕の手元には、このときの貴重なチケットが残った。

さて、今回、2015年である。

2013年と同じ、アウト・ゼアー・ジャパン・ツアーということで、演奏の曲目などに目新しさはあまり期待できないという話だったが、2013年がスタンド席で不完全燃焼感が残っていたので、クラウドサージでアリーナ席が購入できたらと行こうということで、チケット発売時間にパソコンの前でスタンバイ。結果、ステージの真正面ではないが(前の方のブロックのステージ正面の席の多くは一般販売には回されていないという話も)、前から5列目という席を確保。そこから撮った写真が冒頭の写真。もちろん、こそこそ撮ったわけではなく、スマホやコンパクトデジカメの持込みと静止画の撮影はオーケーだった。これもこの間大きく様変わりした点。

予想通り演奏曲目は2013年とほとんど同じだったが、素晴らしい雰囲気のライブを堪能してきた。

しかし、ワンパターンではあるのだけれど、やはり、ヘイ・ジュードの最後のところの聴衆の大合唱はよかった。

あけましておめでとうございます

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アパメア遺跡と羊群

皆様、あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

写真はシリアのアパメア遺跡で出会った羊飼いと羊群。

ここを訪れたのは2009年3月。

その後、内戦が勃発して、今はいつ再訪できるかわからない状態。

シリアで出会った人々はどうしているのだろうか。

夜汽車での帰省

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急行はまなすー青森駅

久し振りに列車で帰省した。

盛岡で友人と再会後、はやぶさで新青森へ。

この日(26日)の東北地方は大雪で、新青森から弘前方面への乗り継ぎ列車は運休。

幸い青森へは臨時列車が運行され、札幌行きの急行はまなすに乗り継ぐことはできた。

普通車はきついので、指定券発売日に寝台券を確保したが、冬休みに入っているためだと思うが、はまなすという列車自体が人気なのか、上段しか取れず、乗車してみると、「指定席、寝台ともに満席です」という車掌のアナウンス。

乗客のなかには相当数の鉄道ファンがいたよう。

若干定刻より遅れて10時40分くらいに出発した列車は順調に走って行き、途中から揺れがほとんどなくなり、走行音もゴーッというものになり、青函トンネル内を走っているのが実感できた。

そんなことがわかったということは、眠れなかったということで、0時20分ころには寝台から抜け出して通路に出て外を眺めていた。

深夜だが並行して走る道路やそこを通行する車がみられた。

やがて、トラピスト修道院入口という道沿いのサインが見え、渡島当別駅を通過した。函館はもうすぐだ。

そんななか、先頭車両へやってくる鉄道ファンが何人か(僕の乗車している車両が先頭車だった)。。。

もしかして函館で機関車の付け替えかと思って、停車後ちょっと覗いてみると、大勢がカメラを持って機関車を撮影していた。

函館では、進行方向が変わったので、函館までは、彼らにとってより重要な機関車が引っ張っていたのか? その辺の事情はよくわからないが。。。

函館からまた寝台に戻ったが、やはりあまり眠れず。

やっと眠りに落ちたと思った頃に(実際には3時間くらいはたっていたと思う)、苫小牧着くという車掌のアナウンス。

そして、定刻より10分くらい遅れて、6時20分頃、札幌着。

寝台車がどんどんなくなって行く現在、貴重な時間を過ごすことができたと思う。

グアテマラの土産物を飾ってみた

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お土産色々

さて、久しぶりの投稿です。

グアテマラの土製の鳥のミニチュアをつるすものを、わざわざ作ったので、色々なガラクタを加えて撮影してみました。

ある場所に並べたのですが、すでに撤去しました。

般若心経の提灯で飾られた寺

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2014提灯で飾られた寺

毎年1月、ある時期まで般若心経(だと思う)の提灯で飾られる寺があり、ちょっと気になっていた。

寺の建物自体は真新しいのだが、この時期だけ、けっこう趣があるのだ。

ということで、今日、仕事の帰りに遠回りして撮ってきた。

明るいレンズのコンデジも新調したことだし。

東京から見た薄暮の富士山

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富士山夕景

東京は冬晴れが続いている。

今日は休みだったので、いつもの場所に走りに行った。

その途中、富士山がよく見えたので、もしかしたら夕焼けが見られるかもと思い、家に帰ってクールダウンして、着替えたあと、カメラを持って、再度出かけてみた。

日没の時刻はすぎており、夕日は見られなかったが、茜色に染まった空を背景とした富士山のシルエットは見ることができた。

明けましておめでとうございます

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祁連山脈

皆様、新年明けましておめでとうございます。

今年も、あまり頻繁な更新はできないと思いますが、よろしくお願いいたします。

なお、現在、古いページのコンテンツをメインサイト(sonosakino)にアップする作業を少しずつ進めていますが、写真の再スキャンや、サイズの修正などが、思いのほか大変な作業で、全部終わるまでには相当時間がかかりそうです(月単位というより年単位かも)。

写真は中国の祁連山脈。

忙中閑あり

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飛鳥山公園の紫陽花

何年も前から、電車から見て気になっていた、飛鳥山公園の紫陽花を見てきた。

西洋紫陽花、日本の紫陽花とりまぜて、350mほどにわたって植えられている。

花を見る以外に、先日購入した、オリンパスのマイクロフォーサーズ一眼の試し撮りも目的。

軽いし、使い勝手もよい。写りの方は、もっと使わないと何ともいえないが、旅の記憶の補助に毛の生えた程度の写真しか撮らない(撮れない)ので、必要にして十分だと思う。

夏の旅が楽しみだ。

じゃがポックル、生キャラメルの次はこれか?

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焼とうきび

札幌土産のロングセラーといえば「白い恋人」だろうが、 一時期、札幌、もしくは新千歳空港のお土産屋で入手が難しかったのが、じゃがポックルと生キャラメル。

まず、じゃがポックルだが、ブームの最盛期は4年前くらいだったか?

当時、仕事で毎週札幌へ行っていたのだが、新千歳空港で見かけられることの方が少なかった。

それから少し遅れてブームになったのが、花畑牧場の生キャラメル。いまでは北海道外でも簡単に手に入るらしいが、数年前はなかなか買えなかった。

その後、購入が困難になるほどの人気商品は現れていないようだが、写真の「札幌おかき焼とうきび」はけっこういけそうな感じも。

まず、味だが、とうきび風味がなかなかで、適度な塩味。

また、袋で小分けにされており、ばら撒き用の土産に適している。

もちろん北海道限定。

さて、今後どうなるか?

自分は帰札のたびとまではいかないと思うが、時々買ってしまいそう。

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貸切状態

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201103キロロリゾート

キロロリーゾートなるところへスキーに行ってきた。

写真は午後1時過ぎに撮ったものだが、バーンには人がいない! 貸切状態だ。

実はこの時間帯、このバーンに人がいなかっただけなのだが、比較的人の多いところでも、やはり閑散としていた。

3月末とはいえ雪質は良好だし、平日ではあるが、春休み中でもあるし、いつもの年ならばもっとにぎわっているのだと思う。自粛なのだろうか?

それから外国人の姿がほとんど見られなかった。香港、台湾からのお客さんはもちろんのこと、オーストラリア人の姿も。

近年、オーストラリアからのスキー客は非常に多く、特に多いのはニセコらしいが、キロロも特にオーストラリア人への対応のためか、場内放送は日本語と英語の二本立て。そして、そのアナウンスのかわっているところは、日本語よりも英語の方が流暢ということ(高校生と思われるグループがたどたどしい日本語アナウンスと英語の流れるようなアナウンスのギャップにうけていた)。つまり、担当者は英語圏の人ということ。

そういう人を雇うくらい、オーストラリア人客は多いということなのだろう。

しかし、今回の震災の影響、とりわけ原発事故の影響で外国人の客足はぱったりと遠のいてしまったそう。一番人気のあるニセコも閑古鳥が泣いているという。

スキー場の中心の建物になっているマウンテンホテルにはやはり義援金の募金箱が置かれていた。
自分も、こうしてスキーができることに感謝しつつ微力だけれど協力。

海のエジプト展

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明日・あさっても仕事に拘束され、さらに締切仕事もあって、ちょっと忙しいです。これを乗り切るとしばらく休めるので、もう少しの辛抱。


先週の金曜日、仕事が早く終わったので(早く終わることがわかっていたので)、パシフィコ横浜で開催されている「海のエジプト展」へ行ってきた。パシフィコ横浜の最寄駅はその名も「みなとみらい」。初めての訪問だが、なるほど近未来都市という雰囲気だ。

さて、仕事が早く終わったとはいうものの、みなとみらいに着いたは4時40分ころ、海のエジプト展の入り口に着いたのは4時45分すぎだったか?
何も調べていかなかったのだが、入場締め切りは5時。もうすこしぐずぐずしていたら危ないところであった。

海のエジプト展は、アレクサンドリアの沖合から引き上げられた遺物を紹介する展覧会で、巨大なファラオや女神、スフィンクスなどの石像や、宝飾品、コインなど約490点が公開されている。

エジプトは3度行っているが、アレクサンドリアへは行ったことがなく、「アレクサンドリア」という地名へはあこがれのようなものも感じている。さらに僕は基本的に遺跡好きで、古さと大きさに大きな価値を感じている。というわけで、古代エジプトの遺跡・遺物はその条件をみたすものであり、その意味でも今回の展覧会は、自分にとって興味深いものだった。

しかし、一番の印象に残ったのがガチャガチャ(笑何かと思われるかと思うが、公式フィギュア11種類が1回300円のガチャガチャで販売れていたのだ(というか行く前から知っていた)。

実は、僕は遺跡へ行くと土産物屋さんで、博物館へ行くとそこのショップで遺跡・遺物のミニチュアをさがす、必ずと言ってよいほど。そんな自分にとって、今回の公式フィギュアは魅力的すぎるものだった。しかし、ガチャガチャとは?! 選べないじゃないか! う?む。だぶりなしで11種類引き当てることは無理だし、あまり熱くなりたくもない。

記念の1回でやめておこうと心に決め、ガチャ・ガチャ。出てきたカプセルを開くと、ファラオ像。これがよくできている。制作は海洋堂というその筋では有名な会社らしい。う?む、もっと欲しい。ということで、合計3回ガチャガチャしてしまった。4回5回とやりそうな勢いになったが、「入場料2300円を含めて3000円を超えたよ」自分に言い聞かせて撤退とあいなった。

しかし、こいうのってコンプリートをめざして頑張っちゃう人がたくさんいるのだろうなあ。 以下が僕のひいたフィギュアたち。


ファラオ像

ファラオ象。実物の像の高さは5m。




聖蛇ウラエウスの護符とウジャト形ビーズ

聖蛇ウラエウスの護符とウジャト形ビーズ。

特に気いったのは、ウジャトつまりホルス神の目のビーズ。現物はものすごく小さなもので、これはミニチュアの逆のフィギュア。




カエサリオンの頭部

カエサリオン像の頭部

これはクレオパトラがカエサルとの間にもうけた子、つまりプトレマイオス15世と考えられる像。海に沈んだ情景を表現したもので、首のあたりにみえる赤いものはカニです。芸が細かいです。
実は、もう2~3回ガチャガチャやってもよかったかもと、今になって思ってます(笑

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