My こころ旅
視聴者から寄せられた手紙につづられた思い出の地などを俳優の火野正平さんが自転車で訪れ、その場所でその手紙を読むという番組だ。
今、少しずつ両親の残した写真を見たりスキャンしたりしているが、アルバムをチェックしてみて、けっこうあちこちへ出かけていたことを改めて知ることが出来た。
僕は東京へ出てからしばらくは、帰省の頻度はとても低く正月やお盆すら帰らないという年が続いていた(お盆や正月の時期の仕事を敢えて断らなかった)。そのせいもあって両親のお出かけについてはあまり把握していなかった。海外へ行くときは計画段階から知らせてくれたので一応把握していたが。
また、父が亡くなった後、母は学生時代の仲良しと出かけることがけっこうあったようで、それについては割りと把握しているつもりだったが、やはり写真を見て初めて知るものもあった。
僕が一緒に行って思い出を共有しているわけではないのだが、両親が訪れた場所で僕が行ったことのないところを訪れ、「こんな場所に来たのか」と感慨のようなものに浸りたいと思い、ちょこちょこと出かけている。テレビ番組の『こころ旅』とはかなり趣向が異なるが、自分にとっては十分『こころ旅』だ。
上の写真は山の辺の道にある桧原神社の近くの風景。
両親が京都・奈良を旅した際、なぜか桧原神社から桜井駅までという半端なルートを歩いていることをアルバムを見て知った。
「山の辺の道」は『日本書紀』にも見える古道で、奈良盆地の東に連なる山々の裾を縫うように、三輪山の麓から奈良へと通じる道。この道はは高校の修学旅行の自由行動の日に一部歩いたことがあったが、両親が歩いた場所は行ったことがなかったので、6月、急に思い立って訪れてみた。雨の中を歩くのはいやなので、天気予報で晴の確率が高いことを確認してから航空券を購入した。
新千歳から関空に飛び、大和八木駅近くで1泊して翌日山の辺の道へ向かった。午後の飛行機で北海道に戻るので時間があまりなく、両親が歩いたルートに絞ってあるこうと巻向駅から桧原神社へ向かって歩き出した。
両親のアルバムには上の写真と同じあたりにあったと思われる「大和の青垣」の案内板の前で撮った記念写真が残っており、それを探してこの辺りを歩き回ったのだが、近年、その案内板はなくなったようで、場所を特定するのにかなり手間取ってしまった。
ちなみに、奈良盆地の四周を囲む山地は、昔から青垣山と称されていて、奈良盆地の東部に発達する丘陵地帯を中心とした地域は1970年に大和青垣国定公園として指定されている。そのことを記した案内板が少し前まであったのだがなぜ撤去したのだろうか?
この後、大神神社・平等寺を回り、桜井駅まで歩き、関空に移動し札幌への帰途についた(けっこうあちこちで写真を撮ったのでそのうちホームページの方にアップする予定です)。
6月末には自転車で札幌市内の百合が原公園に行ってみた。母が学生時代からの仲良しと出かけたときの写真があり、どんな場所なのだろうと思ったので。
上の写真は百合が原公園と僕の自転車。
百合が原公園はかなり広大な公園で、あちこちに季節の花々が植えられていて、また、園内をリリー・トレインなる乗り物(ちゃんと線路の上を走る)もあって、いつも多くの市民でにぎわっているようだ。
7月の初めには日帰りで道東の霧多布岬へ行ってきた。
両親は車で道内をくまなく回っており、僕が行ったことのない場所も多い。
道内の観光地は公共の交通機関ではアクセスできない場所も多いのだが、霧多布の街から岬までの区間を除くとほぼ公共の交通機関のみでアクセスできるので行くことにした(時間がたっぷりあれば岬まで歩くのも無理というわけではないが時間が限られているのでタクシーを利用した)。
なお、夏季の霧多布は霧の日が多いので、入念に天気予報をチェックして出かけた。
上の写真は霧多布岬。花も咲き乱れていて、一番良い時期だったと思う。
上の写真は花越しに撮ったラッコ。コンデジの10倍ズームレンズで撮ったのだが、これが限界。お腹というか胸の上に子供を抱いているさまはわからないか?(肉眼では子供を抱いているさまが見えたのだが)
この小旅行は札幌から日帰りで出かけたのだが、色々と写真を撮ったので、そのうち旅行記をアップするつもりです。
何か立て続けで小旅行へでかけているが、7月前半、東京の自宅のチェックに行くついでに大分の国東半島へ出かけた。全然、ついでという感じではないが、新千歳から大分までの航空券は乗り継ぎ割引になるので、ついでなのである。
国東半島へは学生時代に行ったことがあるのだが、両親のアルバムを見るとやはり行ったことがない場所の写真があり、行ってみることにした。
昼過ぎに大分空港に到着して、夕刻の飛行機で東京へ飛ぶ予定である。6時間くらいしかないが、空港が国東半島にあるので、国東半島の何か所かをめぐるだけならば十分である。レンタカーが必須だけれど。
今回も例によって天気予報をチェックして晴れることを確認してから航空券を購入した。
今回の目的地は熊野摩崖仏、天念寺とその前にある石仏、両子寺。
上の写真は熊野摩崖仏。学生時代以来の訪問だから40年ぶりくらい。木が生い茂っていて不動明王像の顔がちゃんと見られなかった(何か処置を考えているという張り紙があった)。
上の写真は天念寺の前を流れる長岩屋川の川中不動。学生時代に国東半島へ行ったときは、路線バスを利用して観光することが可能だったのだが、本数が少なく、ここは訪れることが出来なかった。
上の写真は両子寺。ここも学生時代に訪れている。
この後、空港まで戻り東京に飛び、1泊後札幌に帰った。この小旅行もけっこう写真を撮ったので、そのうちホームページの方にアップする予定です。
上記のお出かけのうち、札幌の百合が原公園は近いので別として、そのほかの場所もすべて日帰りか滞在24時間以内。何とももったいないお金の使い方だが、母とすごした最後の何年か、所要があって東京へ出るとき母を一人にする時間をなるべく短くするため、1泊2日か日帰りで帰宅していたときの感覚が染みついて、いまだに実家を3日以上あける気にはなれないでいる。もう家に母はいないのに何か留守番させている感じなのだ。他人が見るとさぞかし奇妙に思われるだろうが、そんな変な感覚が残っている程度の母の死後の精神的落ち込みからの回復状態ではある。
まだまだ、父と母の足跡を訪ねる旅には行きたいと思うが、これから1カ月半くらいは酷暑が続き、おまけに新型コロナ感染の大流行という状況もあり、その後は台風シーズンがやってくるのでしばらく休止して、10月の半ばくらいになったら天気予報を見ながら再開しようかと思う。
蛯子真理央さんのエッサウィラを描いた絵にひかれた理由
もうけっこう時間が経ったが、以前、母の付き添いで通ったクリニックの待合室に飾ってあったモロッコのエッサウィラを描いた絵画のことを書いた。
その時は書かなかったが、なぜ、エッサウィラを描いた絵に魅かれたのか。もちろん、旅行が好きでモロッコにも度々出かけていたということもあるが、エッサウィラを訪れた時の自分の心持ちが、件の絵への関心を強くさせたのだと思う。
エッサウィラには2度訪れている。最初が1999年春、2度目は2006年の夏。そして、件の絵画は2006年のエッサウィラ訪問の記憶を呼び起こした。
2006年の夏、エッサウィラへ行こうと思うきっかけになったのは、その何年か前から交流を持っていたあるホームページ(ブログ)にアップされたモロッコ旅行記(旅先からアップされた日記かもしれない)だったと思う。その旅行記(ブログの日記)にアップされた写真とほとんど同じ構図の写真を自分も撮っており(この記事冒頭の写真)、それは影響を受けてのである可能性が高い。件の絵画の構図はそれらの写真の構図は似通っており、それがその絵に対する興味をかき立てられた要因だと思う。
2006年夏のモロッコ旅行は直前まで行けるかどうかわからない状態だった。なぜかというと、その年の早い時期から父がガンで入院して(何度目かの入院だったと思う)闘病生活を送っており、夏には容体が芳しくなくなる日もあったからだった。ずっと持っていなかった携帯を緊急の連絡用に買ったのもこの年だった(購入したのはPHSの通話ができてPCメールも送受信できるW-ZERO3という機種)。
2006年当時書いた旅行記(ホームページに載っている)を読むと、父の病気のことは伏せてあり、ただ「直前まで行けるかどうかわからない状態だった」というようなことは書いてある。この直前まで行けるかどうかわからなかった理由が父の病状だったのだ。
記憶は定かではないが、出発直前の時期、父の病状は割と安定して、母が旅への背中を押してくれたのだったと思う。しかし、旅に出ることにはしたものの万が一のことは考えておかねばならない。ということで、出国当日成田空港で携帯をレンタルした。当時、携帯の国際通話がどの程度普及していたのかは記憶にないが、自分が使っていたPHSでは国際通話はできなかった。レンタル携帯は、当時、世界を席捲していたノキアの携帯。起動時や着信時のメロディーは記憶に残っており、海外旅行に行くとあちこちで聞こえるほどノキアの携帯は普及していた。
携帯を借りるだけでは緊急時には対応できない。すぐに帰国できるよう心の準備もしていた。今ならばネットで片道の安価な航空券が手に入るが、当時はそうはいかなかった。モロッコからの緊急帰国の方法は、まず、ノーマル運賃でパリまで飛ぶ。そして、パリの旅行代理店でなるべくすぐ出発できる日本行きの便の航空券を手に入れる。ただし、夏の多客期なので安い航空券が手に入らない可能性も高い。その場合、パリからもノーマル運賃の航空券を買おう。そんな覚悟を決めて出発した。
この旅の際にとっていたメモが残っているので、これを書くにあたって読んでみた。エッサウィラへ向かう前日の母との電話で父の病状が悪化したことを聞かされた。熱が出て、血液検査の結果、白血球の数も増えていると。しかし、幸い、エッサウィラに着いてからすぐの電話では容体は安定したという話を聞くことができた。詳細は覚えていないにしても、この夏のモロッコ旅行はそんな記憶と結びついている。ちなみに、その時の父の容体の悪化は、その後のさらなる悪化の始まりで、帰国して2週間くらい後、帰らぬ人となった。
古い旅を振り返るなかで実感する最早先進国とはいえなくなった日本
現在、1991年のフランスのパリを旅したときの旅行記を本編(ホームページ)にアップしている。
旅のメモには断片的ではあるが、その時の食事の金額が記されている。
パリのたぶんカルチェラタンあたりにあった「本日の定食」みたいなメニューのみで勝負している、豪華ではない(どちらかといえば質素な感じの)レストランでとった定食(前菜・メイン・デザート)の値段が日本円で約1300円。
当時の自分が行ったことがあったのは、中国、エジプト、ヨルダン、シリア、トルコ、ギリシャで、ギリシャ以外の国々はいわゆる途上国で物価も安く、旅での食費もとても安く抑えることができた。また、ギリシャもヨーロッパとしては格安の部類だった。
そんなわけで、旅のメモではフランスの物価の高さを嘆く記述がけっこうあるのだけれど、よく考えると、上述の1300円という定食の値段は、日本でも、この場所(パリの中心部)でこの内容ならば、まあそんなものだろうと納得できる値段だったと思う。
最近ときどき目にするグラフに主要先進国の平均賃金の額の推移と示したものがある。
それを見ると(記憶をもとに書いているのでちょっと不正確かもしれないが)、日本の平均賃金はこの30年間ほとんど横ばい。僕が初めてフランスを歩いた1991年のフランスの平均賃金は日本をわずかに下回る程度だったと思う。
91年当時の平均的日本人と平均的フランス人の購買力はほぼ等しく、それに応じて、それぞれの国の物価もだいたい定まっていたと思うので、上述のレストランでの定食の値段は、節約旅行を志向するものとしては高かったが、東京で暮らしていた僕の感覚に照らし合わせてみると「まあそんなものだろうと納得」するものだったのだ。
そして、現在の日本での感覚である。
この30年間、日本における賃金はほぼ横ばい。また、物価変動もかぎりなく横ばいに近い。
物価が上がらないというのは一見よいことのように見えるが、これは賃金上昇の停滞のなせる業なのである(値上げしたら売れない→価格を抑える→そのためにコストを抑える、つまり労働者の賃金を抑える)。
そんな日本で暮らしていると、上述のパリでの夕食と同レベルの食事ならば、現在パリに行っても1300円くらいでいいんじゃないかという感覚に陥ってしまう。しかし、フランスはその後、経済発展を遂げ、30年前に食べた食事と同レベルの食事をとろうとすると、少なくても2200~2300円くらいは出さないとならないのではないか(もっとか?)。
フランスで2200~2300円くらい出さないと食べられないものを、日本では1300円で食べられる。さすがにフレンチとかだとそんなに安く食べられないだろうが、例えばとんかつ定食とかならば、格安のチェーン店ではなくても1300円でお釣りがくる店があると思う。
これって、昔、自分が日本から発展途上国に出かけて体験したことと同じだと思う。
そうなのだ。欧米先進国から見ると、日本は物価面でみると最早先進国とはいえないのだ。
今「物価面でみると最早先進国とはいえない」と書いたが、日本に残る国際協力というのは、安い賃金、安い円に支えられた競争力だけで、そうした条件をとっぱらっても競争できるものは、あまりないのではないか。つまり、色々な要素を検討してみても、GDPは大きいものの、やはり、最早先進国とよべるようなレベルではないのではないか。旅行記を作成しながら、けっこう暗い気持ちになってしまうのだ。
HP-古い旅ばかりではなく比較的最近の旅の記録も更新しようかと思う
札幌はすっかり秋という感じで、朝晩は空気がひんやりしている。
おととい北大構内を走ったが、涼しいので真夏よりも走った後の疲労が少なかった。
ところで、この連休、各地の観光地は観光客でにぎわっているらしいが、北大構内でもかなりの数の観光客を見かけた。
ニュースなどでは新型コロナウィルス感染拡大防止に注意しているという観光客の様子が強調されて報道されているが、やはり観光客のなかには気が緩んでいる人たちも多いようで、クラーク像の前では他の観光客に写真を撮ってもらっているグループを見かけた。他人のスマホやカメラに触る、他人に自分のスマホやカメラを触らせるという行為は避けるべきものとされていると思うのだが。
ところで表題の件。
ホームページでは、ここのところ90年代半ばの旅の記録の更新をしているが、メモはあるものの記述があっさりしすぎており、もちろん忘れていることがとても多い。写真も、どこで撮ったのかさえわからなくなっているものがあって、web上にある多くの旅行記を見て「そうか、ここだったのか」と確認することも多い。ということで、写真のスキャン作業もあって更新作業にはけっこう時間がかかる。
そんな感じで古い旅の記録をまとめているうちに、比較的近い過去の旅のことをどんどん忘却していきそうなので、できるだけ古いものから順番にという更新の方針を改めて、2010年代の旅の記録も並行して作っていこうかと思っている。
2010年代の海外旅行で旅行記をまだ作っていないのは、イタリア2回、トルコ1回、シンガポール・マレーシア1回の計4回の旅なので、来月くらいにはそのうちのどれかから旅行記をアップし始められればと思っている
それからコンサドーレの試合応援・観戦のついでに国内各地に行っているが、それについてはメモなどはとっていないので、できるだけ早目に記録をまとめておかねばと思い、国内旅行のページも少しずつ更新することにした(前も書いたように個人的思い出し用という意味合いが強いのだけれど)。ということで、今日は2年前(2018年)の夏にV.ファーレン長崎戦を見に行った際の旅行記のようなものをアップした。
冒頭の写真はその旅行の際、島原の武家屋敷が並ぶ通りで撮ったもの。
北大構内のランニングとか過去の旅とか。。。
写真は北大構内を南北にはしるメインストリート。
舗装がかなりきれいですが、これはここがオリンピックのマラソンコースの一部になっているため整備した結果だとか。
オリンピックで使用されるかどうかはあやしくなってきたけれど、整備されたおかげでとても走りやすい。
札幌にいることが多くなっていることは以前書いたと思いますが、冬場走ることができず、その結果、体力がガタ落ち。
市内にはツドームという屋内運動施設があり、そこに1週400mのランニングコースがあるのですが、コロナウィルス感染防止のため施設が使えず雪のある時期は走ることができず。
雪が融けた後も、持病というほどではありませんが軽い喘息の症状が出て、これが花粉症の影響で増悪。ということで外を走ることは自重。
そのため走力はガタ落ち。
しかし、最近ようやく気管支の方も落ち着いてきたので、少しずつ走り出したところです。
それで北大構内を久しぶりに走ったところ実に走りやすい。ということで、"わざわざ行く"という形にはなるのですが、これからしばらくは北大構内を時々走ろうかと思ってます(混んでないのでソーシャルディスタンシングの問題もクリアできるし)。
ところで、1995年のチュニジアの旅行記を完結させました。
90年代の旅をあらためて振り返ってみると、あらあらの旅程は決めてはあるものの、現地判断、行き当たりばったりが多いこと。
旅行期間が10日以上とそこそこ長いこともあるけれど、今と違って出発前に得られる情報がとても少ないので、出たとこ勝負にならざるを得ない面も多かったかと思います。
そして、行った先々で、その時の状況、気分で次の予定を決めていく(変える)というのは、やはり旅の醍醐味だなあと感じています。
最近は旅の日数が少なくなっていること、事前に得られる情報が多いということ、世界的に旅行人口が増えて、よい宿の確保のためには事前に予約することがベターになっていることなどを背景にかなり事前に予定を確定させての旅が多くなっていますが、その辺は何となく物足りなく感じていました。
しかし、過去の旅を振り返るなかで、また行き当たりばったり要素の多い旅がしたいという思いが強まっています。いったいいつになったら旅に出られるのかわかりませんが。
ホームページにアップしていない過去の旅はまだまだありますし、旧ホームページにアップしていたものの、写真のサイズが小さいなどの理由で作り替えを予定して削除しているものなども含めて、これからも少しずつアップしていく予定です。
巣ごもりの日々
ものすごく久しぶりの投稿になってしまいました。
新型コロナウィルス流行の影響で巣ごもりを余儀なくされているなか、古い写真のチェック・整理・スキャンなどを少しずつやっています。
せっかく撮ったのに全然見ることのない写真が何と多いことか!
アルバムに入っている写真が多すぎるのも一因か? ということで、写真をデータ化して上の写真にあるようなフォトブックをちょっとずつ作成しています。
利用しているお気に入りのサービスはphotobackというもので、もちろん何種類かのサイズ・仕様などがあるのですが、気に入っているのは上記写真のもの(Roughというもの)。
良い点は左右の頁にまたがる写真も見やすいかたちになること。
難点は頁数が12頁、24頁,36頁の3種類限定で、こっちの写真の都合で1頁単位で増減できないところや、それなりに色々あるもののテンプレートに合わせて写真を配置しなければならないところ。
しかし、難点ではあるものの、色々な制約のもとで写真をセレクトするので、自分にとって本当にお気に入りなのか、今後お気に入りとして長く見る気になるのかという見極めがしっかりできるというのが意外な利点となっています。
実はホームページを作成しているのも、誰かに見てもらいたいというのももちろんなのですが、せっかく旅行したのに、せっかく写真をとったのに、振り返りがほぼ不可能な状態にしてしまうのはもったいない、いつでも思い返したいときに見られるようにする、というのが最も主要な目的になっています。
ただ、ホームページは不特定多数に公開するので、自分を写しこんだ記念写真みたいなものはアップできません。しかし、フォトブックであれば自分が写っているも問題なく入れられます(ちなみに上記写真に写っている記念写真っぽいものは昔新疆のトルファンで近郊ツアーに行ったとき火焔山の前で撮ったものです)。
以上のような理由で最近フォトブック作成にはまりつつあります。
もちろんお金はそれなりにかかりますが、昔フィルムを現像してプリントしていた金額から考えるとたいしたことはありません(上記写真のものは24頁のものが2冊、36頁のものが1冊なのですが合計で9000円と少しです)。
ところで、ホームページは自分で見るということも大きな目的と書きましたが、最近はPCより、タブレットなどで見ることが多く、そのためレスポンシブのページにした方が見やすいので、ちょっとずつレスポンシブ化しています(全ページ完了するまでは相当かかりそうですが)。
今年はサッカー観戦ついでの国内旅行も見込めない感じですし、まして海外旅行はほぼ不可能という感じでしょうから、古い旅の振り返り(写真の整理、旅のメモの再チェック、写真のスキャン、ホームページ作成・修正など)で旅行気分を味わっていきたいと思ってます。
イスタンブールでガラタサライの試合を見てきた
2月14日、UEFA ヨーロッパ・リーグのガラタサライとベンフィカ(ポルトガル)の試合を見てきた。
トルコにはもう数えきれないほど訪問している。以前にも書いたかもしれないが、自分にとってイスタンブールに行くことは、日本人が京都へたびたび行く感じに近いか?
ただ、京都ほど気軽に行ける場所ではないので、いざ行くとなるとそれなりのきっかけが必要。
で、今回のイスタンブール行きを直接後押ししてくれたのが、ガラタサライだ。長友が在籍していて、サポーターにもえらく人気だとか。
長友の試合はイタリアのインテルのときも2回見ている。何となく好きな選手だ。
ということで、ガラタサライの長友の活躍を見るということをメインの目的にトルコ旅行に行くことにした。
ガラタサライは人気チームでチケットが確保できるのか、という問題もあったが無事クリア(トルコのサッカーチケット購入についてはユニークなシステムが導入されているが、そのことについてはいずれまた書きたいと思う)。
キックオフは20時55分というとんでもない時刻。
実はトルコは2016年に夏時間を廃止しており、その際、以前の夏時間をそのままトルコ時間としたのだそう。ということで、相手チームベンフィカのあるポルトガルとは時差が2時間あり、テレビ放映の関係(早いとポルトガル人の視聴に不便)でキックオフが20時55分というとんてもない時間に設定されたと思われる(同じイスタンブールのフェネルバッチェがロシアのゼニトと行った試合のキックオフが20時だったので)。
試合開始がとんでもなく遅いので、スタジアムからの帰りの足も心配だが、スタジアムはメトロの駅からすぐなので何とかなるだろう(何とかなったーこれについてもいずれ本編で)。
さて、平日夜だが、ヨーロッパリーグの試合ということもあってかスタジアムはほぼ満員。それから、ヨーロッパリーグということでチケット価格はふだんのリーグ戦の倍くらいに設定されており、1番高い席は日本円で23000円くらい。自分が買ったコーナーの席でも9200円くらい。それでもこの集客なのだからびっくりだ。そして、ファン、サポーターの熱さたるや聞きしに勝るものだった。
日本だとホーム側のゴール裏のサポーターのみが声を出すという感じだが、両方のゴール裏がサポーターエリアで(アウェイ席はアッパー席の一部に設けられているだけ)そこでの盛り上がりがすごいのはもちろん、試合が始まるとほぼ全席の客が立って観戦を始めた。席は試合開始前、ハーフタイムのためにあるという感じ。
そして、メインスタンドの高い席の客も声を出す。審判が気に入らない判定をするとスタンドの360度から大ブーイングや指笛。
これだけ熱いサポ・ファンがたくさんいて、集客の心配がなければ、アウェイ客のことは考えなくてもよい。それでアウェイ席は申し訳程度に設けているということか?
また、チケットの販売開始は何と試合の3日前から。チケットの需要が大きいので、それぐらいの日程があれば十分売りさばけるのだろう。
試合は1-2で敗れてしまったが、日本では考えられないほどのスタジアムの熱狂が感じられてよかった。
明けましておめでとうございます
明けましておめでとうございます。
今年もボチボチやっていきますので、よろしくお願いします。
写真は昨年9月に行った東チベット(中国四川省)のアチェンガルゴンパというところです。
ここは尼僧が沢山いる場所で、川の向こう側は尼僧の居住区域で男性禁制です。ちなみに写真に写っている僧侶は尼さんです。
標高は3800m以上あります。
アクセスもけっこう悪く、日本をたってから4日目にやっと着くことが出来ました。そんなに時間がとれないので、ほぼここだけのため(若干のプラスアルファあり)に旅に出ました。今年から外国人の立ち入りが禁止されるという噂もあったので。
一応、次の本編の更新はこの時の旅の記録でいこうと思っています。
パトネス・デ・アリーバ(Patones De Arriba)
スペイン滞在の最後は、パトネス・デ・アリーバというところに行ってきた(上の写真)。
マドリード近郊にあるこの村は、日本のガイドブックにはたぶん載っておらず(確認はしていません)、自分はNHK-BSプレミアムの『岩合光昭の世界猫歩き』で知った。
日本を出る前、少し調べたところ、近年、マドリード市民の週末のお出かけ先としてけっこう人気らしいが、基本自家用車で行く場所らしく、公共の交通機関でのアクセスはなかなか難しそう。
アクセス方法がおぼろげながらしかわからない状態で、旅に出てしまったので、マドリードに着いたらすぐに、ツーリスト・インフォメーションを訪れた。
担当者に行き方を尋ねたところ、googleマップのルート・乗換のところに入力(それならば自分でもできるし、すでにやった)。バスを降りてから歩かなければならないらしいので、そのへんの情報の詳細が知りたかったのだが(バスの運転手に聞けばよいのだが、スペイン語ができないので、前もってある程度の情報を得ておきたかったのだ)。
実際、行ってみると、パトネス・デ・アリーバへの道は単純で難なく到着(歩行者用の直線ルート=しかし急な登りがあったのに、車用の道を歩いてしまったのは除いて)。
土曜日ということで観光客が大勢いて、ちょっとざわついた感じ。(村のなかには観光客相手のレストランがたくさんあり、皆、村を散歩して食事を取って帰るという感じ)
『世界猫歩き』で取り上げられたくらいなので、猫がたくさんいるはずなのだが、ほとんど見かけなかった。あれだけ観光客が多いと猫もどこかに隠れてしまうしかないか? 平日に訪れたかった。
帰りがけっこう大変だった。バスの便が極端に少ないので、7キロくらい離れた街まで、炎天下テクテク歩くことに。
例によって、詳細は本編の旅行記で。
日本人に人気なのか? スペインの美しい村アルバラシン
近年、恒例となっている梅雨時の日本脱出。
今年はモロッコの砂漠でもと思って計画を練っていたが、ちょっとミスを。
出発が迫ってきた段階で、ラマダンの最中であることに気が付いた。ムスリムは1ヶ月間、日中断食する。
もちろん非ムスリムが断食する必要はないが、田舎に行くと昼間食堂は閉まっているのでなかなか食べられない。何か食べ物を買っておいてホテルの部屋でこっそり食べるという手がないわけではない。
別に外で大手を振って食べることはできるのだけれど、我慢している人の前で食べるというデリカシーのないことはできない。同じ理由で外で水をガブガブ飲むということもしにくい。
食事はまあいい。しかし、暑いなか水を我慢して日中歩き回るのはきついだけではなく健康上まずい。
ということで、モロッコへ行ってみて、問題なく食べたり飲んだりできそうだったらモロッコ旅行を続け、無理そうならばスペイン中心の旅行に切り替えるということにして旅に出た(スペイン旅行中心に切り替えることは決定的だったが)。
で、実際、モロッコは3泊で切り上げ、ジブラルタル海峡を渡ってスペインへ。
スペインでの予定は何となく決めていただけで、ほぼ行き当たりばったり。
何となく決めていた行先が、スペインで最も美しい村と呼ばれているらしいアルバラシン(上の写真)。
公共交通だとかなり行きにくそうだが、調べたところテルエルという街からの便が1日1往復あるらしい。
タンジェからタリファへ渡り、バスでセヴィージャまで移動して1泊。その後、バスでカセレス、トルヒーリョ、マドリードへと移動して1泊。マドリードからは鉄道でテルエルへ移動し(バスの便もあるようだったがちゃんと調べられなかった)、バスでアルバラシンへ移動。ホテルはバスを降りた場所から近いところに当たってみると幸い空きがあり、すぐに決定。
ところで、翌朝のテルエル行きのバスでは3人の日本人と一緒になった。アルバラシンは日本人の間で注目されている村なのか?
3人のうち2人-ご夫婦-は前日のバスでも一緒だったが、日本人であるという確信はもてず話しかけられなかった(中国をはじめアジアの旅行者がとっても多いので)。
最新の『地球の歩き方』に詳細が記されているのかどうかは知らないが、ちょっと前の同書にはページの下に小さくちらっと載せられているだけ。
一緒になった方たちにどこでアルバラシン情報を得たのか尋ねたところネット情報だという。
自分はといえば、ある旅行会社の出している分厚いツアーの冊子で知った(普通のツアーでは満足できなくなった人をひきつけるような企画をしばしばしている会社で、アルバラシンはけっこう前から紹介されていたような記憶)。
ところで、アルバラシン訪問の詳細は、例によっていつになるかわからない本編の旅行記で。
一写入魂の頃~ギルギット(パキスタン)
1997年夏、アジア陸路横断の未踏破区間であるイラン-パキスタン間を旅した(詳しい内容は鋭意作成中の本編で)。
写真は、その旅のゴールとなったギルギットで撮ったもの(ギルギット川にかかるつり橋からギルギットの街を望んだ)。
例によって、やたらとフィルムを使うのを避けるため、丁寧に構図を決めて撮った(のだと思う)。
しかし、おそらく、このときは、橋を歩く人がこちらに向かってきており、向こうに歩いていく人の後ろ姿を画面に入れようということでもう1枚撮ったのだと思う。それが次の写真。
微妙な露出の加減でモスクのミナレットとか山とかがやや不鮮明になってしまった。でも、後ろ姿の男性のお蔭で1枚目よりは動きが感じられるカットになっているかも。
デジカメだと、いくつかのパターンを試すことができるのだけれど、フィルム節約の旅をしていた自分にとって、ここは2カットが限度。
でも、上の写真には満足している。少なくとも、あの時自分が感じた空気感は思い出すことができるので。
冬のチンクエ・テッレに行ってきた
一週間ほど、イタリアに行ってきた。
主な目的地はチンクエ・テッレ(5つの土地という意味でその名の通り5つの漁村がある地域)というところ。近年注目されている観光地だ。
12月の海外旅行は、ホノルルマラソンを走りにいったのを除くと、上海とその周辺、カンボジアのアンコール遺跡群に行ったくらいだったが、今回は冬場で観光客の少ないであろうことを期待して、イタリアまで足を伸ばすことにした。
この季節は雨が多めなので天気が心配だったが、予想通りけっこう降られた。が、そういう季節なので、やはり観光客は少なめで、静かな街が楽しめた。
で、写真は、チンクエ・テッレの一つ、マナローラの夕景。空は濃いグレーの雲で覆われており、にわか雨にも降られたが、夕方なので、空の色の重さはあまり気にならなかった。
旅の詳細は、いずれまた本編で。
ハート型ため池
先週末、コンサドーレの応援のため広島へ飛んだのですが、広島空港に向けて高度を下げていくなかで見られたハート型のため池(たぶんため池)。
いい年をしたおっさんが、こんな画像をアップするのは気恥ずかしい感じもしますが(笑)、面白い絵ですし、周囲の田んぼも綺麗なのでアップすることにしました。
ポルトガルから国会前へ
一週間ほどポルトガルへ行っていた。
p以前、ユーラシア陸路横断の締めくくりとしてイタリアからポルトガルまで移動した際、とばした場所に行く、落穂ひろいの旅だ。
一番の落穂ひろいはエルヴァスという街だったが、今回の旅のメインは上に写真をのせたマルヴァオン。けっこうな観光地だが、日帰りの旅行者が多く、朝夕はひっそりとしている。
さて、そのポルトガル旅行から帰ったのが13日の午後。
家に荷物を置いて、夜、国会正門前に行った。
「未来のための公共」というグループが主催する、共謀罪に反対する行動に参加するためである。
長々とは書かないが、テロ対策ではない、TOC条約を批准するためにも必要ではない、組織的犯罪集団かどうかを確認するため一般人も調査対象になる(調査対象にしなければ成り立たない法律であるーなので国会論戦が参議院に移った段階で政府が答弁を変えていったのはある意味当たり前)。まあ、捜査当局のさじ加減でどこまででも操作できるということ。
とにかくもう滅茶苦茶。
ということで、少しでも抵抗の姿勢を示すため、国会前にかけつけたというわけです。そして、その後、14日夜、15日夜にも続けて抗議に参加。
法律は成立してしまった。が、このままでは日本の民主主義がかなりまずい状況になってしまうので(国連の人権理事会に任命された特別報告者(ケナタッチ氏)もそうだし、各国のメディアからも心配されているよう)、今後も色々な形で市民が動くと思うし、時間の許す限り参加していきたいと思う。
一写入魂のころー大理の月曜バザール(1987)
上の写真は1987年3月、中国雲南省大理近郊の月曜バザールを見に行ったときに撮ったもの。30年もたってしまったかと思うと、感慨深いものがある。
すでに、このようなバザールはなくなってしまったような感じ(『地球の歩き方』には記述がない)。
実は、去年の夏、雲南省に行ったとき大理再訪も考え、色々な情報を見てみると、その変貌ぶりは驚くべきほどだった。そして、その変貌ぶりを確認するため行くべきか、記憶のなかの昔の印象を大切にすべきか迷った結果、再訪はやめにしたのだが、この写真を見ると正解だったのかなあ、と思う。ただ、街や生活の変貌は、そこに暮らす人たちにとって良い面が多々あり、昔は良かったというのは旅行者のかなり勝手な思いなのだが。
例によって、フィルムをけちっていた自分だが、このバザールでは割りと多くの写真を撮っていた(ホームページ本編の旅行記の中に「世界の市場」というコーナーがあり、大理の月曜バザールの写真が何カットかありますー画質がよくないですが)。
雲南省元陽の棚田再訪
久しぶりで夏の旅を復活させ、中国は雲南省へ行ってきた。
最大の目的は元陽の広大な棚田を見ること。
実はここは2度目である。1度目は、2010年3月。まだ田植え前で、水田に水が蓄えられた状態の時期。水に光が反射して美しい光景を形作っていた(それについては本編をご覧ください)。
それで、今回は季節を変えて訪問しようということで、今回の旅となった。
稲が育った状態で見る棚田もなかなかのものだった(写真の棚田に黄緑と黄色の部分があるのは、田植えの時期をづらしているから)。ただ、観光客に人気があるのは水田がピカピカと光っている時期のようで、そんな多くの観光客には出会わなかった。
今回は真下に棚田が広がる村のゲストハウスに泊ったのだが、前回訪問した2010年には、そのような立地の宿はあまりなかったような記憶がある。
今回、世話になったゲストハウスの御主人(? オーナーなのか雇われ人なのかは聞かなかった)の話によると、世界遺産に登録された2013年以来、元陽も大きく変貌をとげており、観光客が大きく増大し、地元の人々の生活水準も向上しているとのこと。
たしかに、棚田の村のあちこちにホテルが建ち、現在も建設が進められていた。観光客の主力は中国人のようだ。もともと、中国人の観光熱は高く、昔から住んでいる場所の近辺へ観光バスで1日出かけるということが盛んだった(僕ら外国人旅行者がその観光バスで出かけることも多かった)。それが、所得水準の向上によって、より遠くへということになり、世界遺産に登録されたことによって、その目的地になったのだと思う。
同じような状況の先輩観光地としては、同じ雲南省の麗江があげられると思う。中国人観光客の人気が高まると、その観光客たちのニーズ、好みに合わせた整備が進められる。その結果、麗江は整備されすぎて、テーマパークのようになってしまっているとか。(僕は観光客が増える前の麗江に行くチャンスがあったのだが、グズグズしていたのが悔やまれる)
ゲストハウスの主人も麗江・大理・シャングリラを例にあげて、変化しすぎてあまり良くないというようなことを言っていた。
実は大理には、30年近く前学生時代に訪れている。外国人の泊れるホテルは確か一つしかなく、それでも欧米観光客には人気の街で、何と本物のコカ・コーラが飲めた。
コーラなんて当たり前だろうと思われるかもしれないが、当時は北京などの都市でも、街中でコカ・コーラを売っている店はほとんどなく、炭酸飲料といえば「汽水」という、オレンジ色の飲み物くらいだった。
おそらく「汽水」は絶滅したんだと思うし、「汽水」を知っている日本人もほとんどいないだろう。もし、今「汽水」のことを知っている日本人に会ったら、「えっ? 汽水知ってます? おーっ」とか言って、握手でも求めてしまうんじゃないだろうか(笑)。あの頃の中国旅行は想像を絶する大変さだったから、同じ時代の中国旅行を体験した親近感みたいなものから。
話が大きくそれました。
以上、雲南省に行ってきましたというご報告まで。
いずれ本編に旅行記を載せます。
チステルニーノ
コンサドーレの記事と前後してしまったが、先々週から先週にかけて超短期でイタリアに行っていた。
主たる目的地はオストゥーニとチステルニーノ(上の写真はチステルニーノで、ごくごく小規模な白い迷路が楽しめる)。
『地球の歩き方』に載っていない(はず)街だが、イタリア南部(長靴のかかとのあたり)の白い街地として結構有名らしい。(後者はそうでもないか?)
当たり前だけれど、まだまだ未知の素晴らしい場所がある。今回の旅は、そんな場所を見つけて、少しずつ訪れていくきっかけとなるものになったかもしれない。
旅の詳細は、例によっていつになるかわからない本編で。
キューバに行ってきた
キューバへ行ってきた。アメリカとの外交関係が回復し、今後、大きく変化すると思われるキューバへ。
まだ、アメリカによる経済制裁は完全には解除されていないらしいが(未確認)、今後、経済は発展していくと考えられている。
キューバといえば、クラシックカーが現役で走っていることで有名だ。観光用にピカピカに塗装されたものも目に付いたが(エンジンなども取り替えられている感じ)、庶民の乗り合いタクシーとして利用されており、どちらかというとこちらが主力。経済が発展していくと、乗り合いタクシーは最新の車に替えられていくだろう。
経済発展はキューバの人たちの生活を豊かにするかもしれないが、大きな格差も生じさせるだろう。今現在、キューバの魅力の大きな部分は「人」の良さだと思うが、格差の拡大は人々の心をすさんだものにしてしまわないか。若干心配ではある。
上の写真は、ゲバラの肖像画とその前を走っていくクラシックカー。
シリアの思い出(アパメア遺跡・ミスヤフ城)
2009年、4度目となるシリア旅行をした。
その時の写真を見るとため息しか出てこない。
上の写真は、見事な列柱道路が残るアパメア遺跡で出会った子供たち。
前の4人が、撮ってくれと言って駆け寄って来たんだったと思う。
この日はハマ発のツアーで(結局は参加者は僕一人で高いツアーとなった)、アパメア、ミスヤフ城、クラック・デ・シュバリエと巡ったが、写真はミスヤフ城で出会った子供たち。2人の子守をするお姉ちゃんか?
みんな元気だろうか?
不安定化する世界
シリアの内戦が泥沼化している。
写真は、1990年3月、シリアのパルミラ遺跡で出会った子供たち。
経済的に比較的豊かな人たちは、難民としてヨーロッパ方面などへ向かっている。もう大人になった写真に写っている彼らは今どうしているのだろうか?
内戦を泥沼化させる要因となっている過激派IS。
そして頻発するテロ。
13日の夜、パリで発生した同時多発テロ。どのような勢力が実行したのか、まだ、詳細は不明のようだが、イスラム過激派の犯行という見方が強まっているようだ。
もちろん、テロという行為は許されるものではない。
しかし、こうした状況の背景となっている報復の連鎖を断ち切る方法はないのだろうか?
日本はそうした連鎖を断ち切るという役割を果たすことはできないのだろうか?
19度目だったトルコ訪問
先週、トルコから帰国した。
帰国後、過去の旅の記録を確認したら、今回がなんと19度目の訪問だったということがわかった(年に2度行ったことも何回かある)。(先日、カッパドキアが4度目という記事を書いたが、実は6度目だったことがわかった)
飽きもせず随分と行ったものだ、と思われるかもしれないが、僕の旅行はやたらとリピートが多く、トルコ、特にイスタンブールなどは、例えば京都に繰り返し行く感じといったらよいだろうか。
もちろん、京都より全然遠くて、旅費も多くかかり、言葉も違い、行くためのハードルは高いのだけれど。
しかし、その繰り返し繰り返し行っていたトルコだが、先日のテロ事件の発生に見られるように、必ずしも安心して行くことのできる国ではなくなってきた(以前にもクルド人勢力の戦いが激化して東部でテロが多発した時期があったと思うが)。今後もトルコ旅行には行くのだろうとは思うが、慎重に状況を把握した上で計画をたてなければと思う。
ところで、冒頭の写真の高台に建っているモスクはスレイマニエ・モスクで、手前の派手な船は名物サバ・サンド屋の船。
6度目のカッパドキア
近くまで来ているのに寄らずに帰るという選択肢は見当たらなかった、カッパドキア。
ホテルにチェックインする際、やはりというべきかなんというべきか、観光ツアーに勧誘されたが、今回はツアーに加わる気はないので丁重にお断りした。
で、まず、ギョレメの街から歩いていける展望所へ。冒頭の写真はそこから眺めたギョレメの街。
アンカラにて(10月10日)
この日はサフランボルからアンカラに移動。
バスのテレビモニターでは、アンカラで爆発事件(テロ)が発生したことを伝えるニュースが流されていた。
トルコ語はわからないので、詳細はつかめなかったが、事件がアンカラ駅前で起こったことはわかった。
アンカラのバスターミナルに到着後、宿泊するホテルのあるウルス地区まで、無料のサービスバスに乗ろうと、乗り場へ向かうと、運行されていない。テロの混乱で一部の道路が通れなくなっているのかもしれなかったが、理由は不明。
ということで、アンカラ駅とはまったくの無関係なルートを通るドルムシュ(乗合のミニバス)はと考え、その乗り場へ。
ドルムシュは通常通り運行されており、ウルス地区に移動。
ホテルに荷物を置いた後、新装なったアナトリア文明博物館へ。
前に来た時は、こじんまりとした博物館という印象を持ったが、かなり規模も大きくなり、その分展示物も充実した感じだ。
個人的には、ヒッタイト〜新ヒッタイトの時期のレリーフなどがとても気に入った。
博物館を出た後、隣接するアンカラ城へいったが、こちらもここ数年で大きく変わった模様。
写真はアンカラ城から見下ろしたアンカラの街。
ところで、城内というかそこに隣接する街で、トルコ人青年に「どこから?」と聞かれたので、「日本」と答えると、「イナモトー!」と言われた。そういえば、現在、我が札幌に在籍している稲本はイスタンブールのガラタサライというチームでプレーしていたことがある。トルコ人にとって、日本人サッカー選手といえば稲本潤一なのかもしれない。
ということで、アンカラ城のあたりでは、事件現場とは違い、いつも通りの時間が流れていたわけだが、事件の真相はどうなのだろうか。トルコ政府と敵対するクルド人勢力によるものとの見方もされているようだが、アンカラ駅近辺で開かれていた集会は、トルコとクルドの和解をめざすというようなものだったようだし、一旅行者には、まったくわからないところである。
トルコはやっぱり猫の多い国だった
シヴァス、トカットと移動して黒海沿岸のアマスラというところにに来た。
猫が次から次へと現れる。
やっぱりトルコは「ネコのくに」だった。(実はアマスラは犬も多いのだけれど)
何度目だ? トルコ
もう何度目になるだろうか。トルコに来ている。
写真はシヴァスというところにあるギョク神学校(1271年創建)。
ここシヴァスは3度目。
初めて来た時に撮った写真は、カメラ・フィルムが盗難にあい、再度訪問した際は、撮ろうとしたら突然カメラが故障。
記憶の中にはあるのだが、どんな場所だったのかどんどん忘れて行く。
ということで、シヴァスのあちこちの写真を撮るため、3度目の訪問となった。
しかし、トルコの著しい経済発展にともないシヴァスの街も大きく変貌をとげており、過去2回の訪問時とは大分異なる印象。
とりわけ最初に来た時の、人通りも少なく陰鬱とした感じとはまったく違う、明るく活気のある街になったなあという印象。
発展していく過程にある国を繰り返し訪問することの面白さを感じている。
観光地にも旬がある-ウユニ塩湖
写真は、ボリビアのウユニ塩湖の夕景。
雨季には湖にうっすらと水がたまり、鏡張りの状態になる場所として有名。
僕が行ったときは、雲が少なすぎて湖面に映るものが少なくやや物足りなかったが。
僕がウユニに行ったのは2005年。飛行機が飛んでいるという情報もあったが、調べてみると定期的には飛んでいなかった。
ということで、ラパスからのアクセスの手段は、バスか鉄道(ラパスからは出ておらず、まずオルーロというところへ移動して、そこから乗車)。
僕は往路は鉄道で、復路はバスで移動したが、順調にいけば10時間かそこいらの移動時間で、当時から秘境というほどの場所ではなかった(ただ、色々とトラブルに見舞われ実際にはかなり大変な移動だった)。
今では、飛行機も定期的に飛ぶようになり、アクセスはかなり容易になった模様。
おそらく宿泊施設もどんどん増えているのだろう。
必然的に世界中から観光客が押し寄せ、見所には観光客が集中するということになる。
実際、近年ウユニ塩湖へ行った人のブログを見ると、かなりの賑わいだし、今朝もテレビでウユニ塩湖が紹介されていたが、塩湖のそこいらじゅうにランドクルーザー(塩湖内を走って観光する)が停まっていた。
ということで、絶景のなかに静かにたたずむということは難しくなっているよう(2005年もそれなり観光地だったので、多くのランドクルーザーは見られたがラッシュという感じではなかった)。
2005年という、ウユニ塩湖が脚光を浴びて、まだ間がないころに訪ねることができて大変ラッキーだったと思っている。
やはり観光地にも旬というものがある場合があるのだ。
それから、旬どころか、現在のシリアのように訪れることが不可能になってしまうという場合もあり、また、タリバーンに破壊されたアフガニスタンのバーミアンの石仏のように、まったく見られない状況になってしまったものもある。
また、自由旅行でチベットからヒマラヤを越えてネパールへ行くなどということもできなくなってしまった。
僕が完全に旬を逃してしまったと思っているのは、中国の九寨溝。
旬を逃さないため、色々とアンテナを張り巡らせておかなければと思う。
旬という観点からは、ミャンマーがちょうどよい時期を迎えていると思う。
ところで、ウユニ塩湖は広大なので混雑感は少なく、素晴らしい景色が見られることには変わりがないと思われるが。。。
世界の切手
海外旅行に行くと、必ず1枚は自分宛の絵葉書を書く。
これはけっこう良い記念になる。
切手が綺麗だということなし。
そういった意味で、上の写真のチュニジアの切手は満点。
消印もはっきり読めて、投函した場所がマトマタであることもわかる。
マトマタはチュニジア南部のベルベル人が居住するところで、地面に大きな穴を掘り、その側面に穴を掘って生活の空間とする、穴居住居で知られている。
また、映画スター・ウォーズのロケ地としても有名。
ところで、ホームページ本編の「Stamps」のページに、たくさんの世界の切手の画像をアップしました。
グアテマラの土産物
もうずっと前のことだが、中米グアテマラへ行った。グアテマラの土産物として最もポピュラーなものは、先住民の女性が織るウィピルという貫頭衣だと思うが、そのときは写真のような、土で作った鳥のミニチュアをバラマキ用土産としてけっこう沢山買ってきた。グアテマラはコスタリカほどではないが、バードウォッチングが楽しめる国として有名で、色々な種類の鳥をモチーフとした土産物が売られていた。
写真にあるようにつるして飾るようになっているのだが、つるすものがなかったので、ずっと部屋の飾り棚に放置してあった。
それで、東急ハンズで色々と材料を買ってきて作ったのが、写真の木で作られた部分。
世界一周旅行から帰国
約1週間前、世界一周旅行から帰って来た。
そもそもなぜ世界一周だったのかというと、スペインのアンダルシアで地平線まで広がるヒマワリの花を見たい、ブラジルW杯の試合を観戦したい、一回の旅行で、この二つの条件をクリアするには世界一周という形の旅行が最も効率的だったからである。
たった3週間での世界一周だったので、当たり前だが、移動する時間の割合がとても大きかった。まあ、見物要素の一つ一つがけっこう見応えのあるものだったので、実は飛行機に乗っている時間が長かった割には、飛行機にばかり乗っていた感は少なかったのだが。
ルートは時差ボケが出にくいという理由で西回りルート。
ということで、まず、ヨーロッパに入り、そのあとブラジルへ移動し、ナタルでのギリシャ戦を観戦することにした(旅程を決定した段階では観戦チケットが確保できるかどうかはわからなかったが)。なぜギリシャ戦だったのかというと、1戦目のレシフェでの試合を見るにはヨーロッパ観光をかなり短くしなければならない、3戦目となるクイアパでの試合はホテルの確保がかなり難しそうだったから。
で、写真はナタルの街の遠景。
なお、このエントリーも旅先から続けてきた更新を続けたいという気分から、あえてiPad(mini)から更新してみました(その後、PCで修正)。
おのぼりさん、イン・ニューヨーク
世界一周の旅も最終コーナーを回った。
飛行機にばかり乗っている旅で、南米から一息に日本、ではあまりにも疲れるし、味気がないということで、最後は自分の旅の嗜好とはまったく違いますが、ニューヨークに寄ることにしました。
リマから深夜便でマイアミ、マイアミからニューヨークへやってきましたが、例によって飛行機ではほとんどねむれず。ということで、かなり疲れましたが、夕暮れ時にタイムズスクエアに行ってきました。
そして、新宿あたりで外国人観光客がネオンサインを撮影しているのと同じように、自分もタイムズスクエアで写真を撮ってきた(まともな写真はナシ、iPadだとここまでの修正がせいいっぱい)。
完全なおのぼりさん状態です。
まあ、たまにはいいかということで。。。
現在地=リマ
ブラジルのナタルでW杯の試合を観戦した翌日、ほとんど日本の国内線という乗客構成の飛行機でサンパウロに移動。さらに深夜便でペルーのリマに移動したましたが、インターネット環境が悪く新しいエントリーをできずにいました。
リマからはバスでナスカへ移動。ナスカは2度目だけれど、以前訪問した後に新しい地上絵が発見され、それが見たいというのが一番の理由。
もう一つの理由は、当時はフィルムカメラを使用していたのだけれど、フィルムをけちって、あまり沢山のカットを撮らなかったところ、地上絵がほとんど写っておらず、そのリベンジを果たしたいということです。(実はまだ理由はあるのだけれど、ipadで入力するのが面倒になってきました-笑)
首尾よく新たに発見された地上絵(パルパの地上絵)も見てきたのですが、写真は前も見た地上絵(ハチドリ)。
W杯試合会場の飲料用カップ
試合会場には飲食物の持ち込みは不可。
飲み物は写真のカップに入れてくれる。
カップには対戦相手(それぞれの国の文字で表記されている)、日付、試合会場がプリントされており、よい記念になるが、小さいバックパックにどう詰め込むか、と一瞬思案したが、下着を詰めてバックパックに入れることに。
これで割れてしまうこともないと思う。
初のサッカー日本代表戦の観戦終了
W杯の日本とギリシャの試合から帰ってきた。
ホテルがスタジアムから徒歩10分ほどと近いこともあって、何の混乱もなく、行き来できた。
試合結果はスコアレスドロー。
やはりと言うべきか、なんと言うべきか、代表には札幌ほど感情移入ができなかった。
自分にとってサッカーは、まずコンサドーレなのだということを確認することができた一戦だった。
それにしても、海外でこんなに沢山の日本人と一緒になるのはなにかへんな感じ。日本人酔いしたとでも表現すべきか?
サッカーW杯の力のものすごさを実感した時間だった。
本日は洗濯日
本日(18日)はレシフェからナタルへの移動。
写真はその機内のヘッドカバー。
W杯仕様になっていた。
乗客には日本人も沢山。
海外のローカルな路線でこんなに沢山の日本人と一緒になるのはW杯ならではのことと思う。
さて、3週間くらいの旅だが、あまり着替えなどは持って来なかったので、何回か洗濯をしなければならないのだが、今日は2連泊の1日目ということで、とてもよい洗濯日。
洗濯を終えた後はテレビ観戦で時間をすごしている。
W杯、日本vsギリシャのチケットをピックアップ
マドリッド−マイアミ−レシフェとかなり長い空の旅だった。
搭乗時間は合わせて18時間超、もう飛行機はいい、という感じだ。
17日朝、レシフェに着き、タクシーでホテルへ。
幸い部屋の準備ができており、一休み。
その後、観戦チケットを受け取りにに行った。
チケットは日本に郵送してもらうことも可能だったのだが、4000円くらいだったか4500円くらいだったか、かなり高額だったのと、果たして日本にちゃんと着くにかという不安があったのとで、現地での受け取りを選択。
今日は、現地の治安の不安もあり(感じとしてはバスなどでの移動は気をつければ、という雰囲気だが)、危ない橋を渡ることは避けて、タクシーを使うことに。
ホテルからチケットの受け取り場所まではけっこう距離があり、往復日本円で3000円以上かかってしまった。
チケット受け取り場所は、行列はなく、あっけなく受け取り完了。
あとは明日ちゃんと飛行機が飛んでナタルに移動できればオーケーである。
しかし、ナタルは空模様が不安定らしく、時々雨が降る恐れもあるとか。
一応屋根のあるスタジアムだが、自分の席はけっこうまえのほうっぽいので、ちょっと心配。
観戦中の雨のことには、まったく考えが及んでいなかった。
サントリーニ島の夕陽
サントリーニ島の見所のひとつはイアという街の夕陽。
ということで、サントリーニ島での押さえとして、夕陽をみてきました。
サントリーニ島(ギリシャ)
ギリシャはサントリーニ島へやって来た。
写真はイアという所で撮ったもの。
東京の梅雨空とはまったく違う青い空。
急峻な斜面の建てられた白い家々。綺麗ではある。
ただ、6月というのに物凄い数の観光客。
この島のことを初めて知った20年くらい前ならば、ここまでではなかったかもしれない。
少しだけリゾート
今回のインドネシア旅行では、最後に少しだけバリ島のウブドという所に寄ってきた。
バリ島。ばりばりの(笑)リゾート地である。
実は次の旅先をインドネシアと決めてからしばらくは、自分にはもっとも似つかわしくない旅先ような気がして、ガイドブックのバリ島のページはめくらずにいた。
しかし、綺麗な棚田の存在を知り、ちょっと行ってみっかということになった。
そして、せっかくだし、周りが田んぼで囲まれているところに泊ろうと思った。
それで見つけたのがトランブラン・コテージというところ。(ご主人に教えてもらったのだが、「トランブラン」とは「満月」という意味)
インドネシア人のご主人と日本人の奥さんが経営している(奥さんは普段はコテージには出ていらっしゃらないらしい)、わずか4棟だけの小規模な宿。
ご主人やコテージの従業員の方たちのゲストに対する細やかな心配り、真面目な働きぶり、広くてきれいな部屋、部屋や食堂から見える田園風景。
バリ島に寄ったこと、というかこのコテージを選択したことは大正解だった。
インドネシアへ行って来た
初インドネシアでした。
メインは上の写真のボロブドゥール。
しかし、ほかにも色々と興味深いものが見られた。
製糖工場でいまだに稼動している蒸気機関車。
水田。
独立記念行事らしい、パレード。
そして、ジョグジャカルタのショッピングモールで行われていたイベント。
参加者の中心は女子中高生(男子はごくごくわずか)。
ジャワ島はイスラム教徒の数が非常に多いのだが、何か女の子たちが非常に開放された感じで、これもイスラム圏かと、興味深く見ていた。
例によって詳細は本編で(いつになるかわかりませんが、10月になれば比較的時間はありそうなので、なんとか秋が深まる前には)。
路面電車のある風景(リスボン-ジオラマ風)
ちょっとポルトガルへ行ってきた。
ポルトガルの首都リスボンの見所の一つは路面電車。
で、今回は、その路面電車をカメラについているジオラマ・モードでも撮ってみた。
アンコールワット再訪
15年半超ぶりでカンボジアのアンコール遺跡群へ行ってきた。
機中2泊、遺跡群見物の最寄の街シェムリアップ2泊という、若干強行軍ではあったが、遺跡はもちろん現地の人々のすばらしさもあって、とても楽しい旅となった。
あちこちの遺跡では修復が盛んに行われており、アンコールワットも上の写真の通り、グリーンのシートが掛けられていた。ちょっと残念だったが、また行けということなのだろう。
ところで、ちょっと早めに昼食をとった結果、一般の観光客の食事時に入場できたため、上のような写真が撮れた。グリーンシートさえなければ。。。
シャンティ・クリーム
この夏、トルコ旅行の帰りにパリに寄ったが、その際、サンリスという街へ行った。
詳細はメインサイトでということにしたいが、サンリスからパリへ戻る途中、シャンティ(ヴェルサイユ宮殿のもとになったシャンティ城で知られる)に寄り、シャンティ城の広大な庭園内にあるレストランでシャンティ・クリームなるものを食べてきた。
シャンティクリームとはケーキなどで使われる生クリームの元祖(?)のようなもので、ふわふわした軽いものではく、若干重たい感じはするが、甘いだけではなくほのかな酸味が感じられ、一口食べて「うまい」とうなってしまった。イチゴと相性も抜群だった。
心残りのチベット
1998年夏、ネパールのカトマンズからチベットのラサまで陸路移動した。
道はいたるところで寸断され、なかなかハードな旅だった。
カトマンズからラサまでの3泊4日の旅を終えた僕は、それで満足してしまい、ラサの市内観光をしただけで、上海への飛行機のチケットを買い、帰国の途についてしまった(片道航空券で出かけたので、日本への航空券は上海で購入した)。
チベットへは、いずれまた、と思っていた。
しかし、その"いずれ"を実行に移さないまま、ぐずぐすしているうちに、チベットは外国人が自由旅行するのが難しい場所になってしまった。
あの時は、休みの期間から考えて、まだ4~5日はチベットにいられたのだ。
後悔先に立たずだが。
ところで、近いうちに、メインサイトでネパール-チベット旅行記をアップする予定。
イスタンブール、シルケジ駅の猫
イスタンブールのヨーロッパ側の終着駅シルケジ駅を行ってみると、いましたいました。
何か、猫の画像をはめ込んだみたいに見えますが、本物です。
あっ、それから、コメントの投稿がうまくいかなかった件ですが、レンタル・サーバーの会社にお願いして、cgiの実行時間を延ばしてしてもらったところ、問題がなくなったようです。
movable typeの重さは何とかならないのかと思い、wordpressへの移行も考えましたが(世界的にはいろいろな点でwordpressの方が評判がよいらしい)、細かい点で気に入らない点がいくつかあり、このままmovable typeでいけそうなので一安心。
グランドバザールの猫
猫の姿を追い求めてイスタンブールを歩いた。
しかし、求めずとも登場してくれることはすでに書いた通り。
で、イスタンブールでもっとも有名な観光地の一つ、グランドバザールへ行ってみた。
モロッコあたりだと、スーク内でけっこう猫を見かけるので、イスタンブールでもと思ったわけ。
しかし、完全な商業施設であるからなのか、猫様はポンポンとはご登場になられなかった。
そのなかで、目立っていたのが金を扱う店の集中するところで見かけた上の猫。
店の人の飼い猫か?
猫は詳しくないので、よくわからないが、けっこうお年をめされているのか?
さて、いたるところに猫のいるイスタンブールだが、どうも新興勢力が台頭している感じだ。
新興勢力というのは野良犬。それも大型の。
トルコのペット事情というのにはうといのだが、昔からトルコでは猫が大切にされていた。
なんでも、イスラム教世界では、預言者マホメットが猫好きだったとかで、猫が大切にされてきたとか。そのことと、トルコのいたるところで、野良猫、飼い猫など多くの猫がみられることは関係があるのだろう。
しかし、この夏のトルコ旅行では上述の通り、野良犬をかなり見かけた。
これは、ここのところのトルコの経済発展により、それに加え、一部で生活の欧州化も進んだことにより、一部の富裕層が犬をペットとして飼い、そうしたなか捨て犬も増えた結果なのだろうか、と思ったりしたが、本当のところはわからない。
う~む。でも、やはりイスタンブールには、犬は似合わない、と思う。
やっぱりトルコは猫ランドだった
昨夏に続き、またまたトルコへ行って来た。
第一の目的地はアルメニアとの国境にあるアニ遺跡。
そちらのほうはおいおいメインのページでということで、まず、昨夏に続き、トルコは猫ランドであること実感したこのと報告を。
イスタンブールでは、観光もそこそこに猫探し。しかし、探す手数はかからず、向こうから登場してくれた。
ただ、そこは気まぐれな猫。カメラをむけると、そっぽを向いてしまったり、カメラに向かって歩いてきて、構図を決められなかったり。
上の一枚は、ブルーモスク界隈の壁に描かれたイスタンブールの風景の前にたたずむ猫。
五山の送り火
京都へ五山の送り火を見に行ってきた。
16日午前中、原稿仕事の先が見えてきた。
そこで、ホテル予約サイトで京都のホテルの空室をチェック。
安くはないが、そう高くはない部屋が空いている。
すぐに予約して、11時半ころ東京駅へ向かって出発した。
3時前に京都到着。まず、何となく竜安寺へ向かった。石庭のある縁側に座って、蝉時雨のなか、ボーッとしたかった。真夏の竜安寺は蝉とともに閑古鳥が鳴いているイメージがあった。
しかし、さすが送り火の当日。まだ、まだお盆休みの人たちも多く、石庭に面した縁側が観光客がたくさん。思ったような感覚には浸れず。
その後、ホテルにチェックインして、ホテル近くのレストランで早めの夕食をとり、鴨川の出町柳駅近くへ向かった。随分前にここから送り火を眺めたことがある。何も下調べをしてこなかったので、確実に見られる場所ということで向かったのだ。
人でごった返すなか、待つこと30分あまり、20時、いよいよ如意ヶ嶽の大文字に火がともった。
大文字、妙法、舟形、左大文字、鳥居形の五山の送り火は、お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされる。
実は、今年、コンサドーレのアウェイの試合会場でずっと仲良くさせていただいていた老サポが亡くなった。アウェイのゴール裏の母ともいえるような人だった。しかし、仲はよかったが、住所の交換まではしておらず、そのご逝去を知ったのは、亡くなってから一月半くらいたってから。その方が住所交換をしていたサポに旦那様から葉書が送られ、そして、逝去の報が僕のところにももたらされた。
アウェイの会場で挨拶を交わして、会話をするのが遠征の楽しみの一つだった。
今シーズンのコンサドーレの状態は最悪である。ある程度予想できた状態ではあるが、彼女は草葉の陰から、どのように見ていらっしゃるのか?
送り火にカメラを向ける前、そっと手を合わせた。
デイパック一つの旅とカメラ
最近時々4~5日間の海外旅行に行く。
4月の初め、中国に福建土楼を見に行ってきたが、そのときのお供は、写真のmont-bellのデイパック。容量は25リットル。 自分の場合、一週間以内の旅ならばこれで十分、着替えは最低限しかもって行かないので。ただし、季節が違う国に行く場合にはギリギリかも。
ちなみにmont-bellは色々と面白い製品を出してくれるので、半年に一度くらいショップをのぞくことにしている。
さて、25リットルのデイパック一つで出かける場合、一つ問題がある。カメラをどうするかだ。今回はコンパクトデジカメを持ってでかけたが、ちゃんと写真を撮りたいときは物足りない。というか、せっかくの土楼観光だし、一眼を持って行きたかった。しかし、カサが張るので、あきらめることにした。ということで、容積の小さい(軽ければ軽いに越したことはない)ミラーレスのデジタル一眼が欲しくなってきた。
福建土楼
長年の課題だった、中国は福建省の土楼という土造(壁が土造、内側は木造)の巨大住居を見てきた。
この形式の住居は江西省南東部、福建省南西部、広東省北東部に集中するもので、もともと黄河中下流域に暮らしていたが、戦乱を避けて一族で南部に逃れてきた客家が作り出した住居建築様式。
内部は入り口と向き合う形で祭祀などを執り行う祖堂を起き、1階が厨房、2階が倉庫、3階以上が居住区となっている(外から見ると窓が3階以上の部分に見られる)。
2008年、福建土楼として世界文化遺産に登録され、団体が大型バスでわんさかやってくる観光地になった模様。実際行ってみると、幹線道路は綺麗に整備され、要所要所には巨大駐車場を備えたビジターセンター、レストラン街みたいなものが建設済み、もしくは建設中だった。
あと5年早く訪れていれば、というところが、まだ、団体客が行かないような場所も残っており、そうした場所は素朴な感じが残っていて、なかなかよい雰囲気だった。
写真は土楼観光の中心地、洪坑村にある永定土楼民俗文化村に隣接するものの、観光ルートからは完全にはずれている環興楼。(見学しようとしたら、入り口のおじさんに5元とられたけれど)。
旅の詳細はいずれ(っていつだ?笑)、メインサイトの方で。
ジャンカルド村のパラダイス座があった場所
パラッツォ・アドリアーノから帰ってきて、あらためて「ニュー・シネマ・パラダイス」を見てみた。
この映画を1回見ただけでパラッツォ・アドリアーノを訪れたので、架空の村ジャンカルド村の映画館がどこにあったのかわからずに、映画の舞台となった広場を歩いたのだが、映画をみながら撮ってきた写真をみると、かろうじて写っていました。映画館(のセット)があった場所が。
その場所は、上の写真の広場から奥の方に伸びている道の入り口(広場からの出口)あたり。
しかし、映画を見ていない人にはなんだかわからない話ですみません。
まあ、自分のための記録ということで。
Palazzo Adriano(パラッツォ・アドリアーノ)
もう20年以上も前の映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のロケが行われた、イタリアはシチリア島にあるパラッツォ・アドリアーノという小さな村へ行ってきた。
自分は、普段、映画はほとんど見ない人なので、「ニュー・シネマ・パラダイス」の題名は聞いたことがあったが、作品自体は去年まで見たことがなかった。
知り合いから勧められるまま、DVDを見てみると、なるほど評判通りの作品だった。
それで、映画の舞台に使われたシチリアの村、パラッツォ・アドリアーノが急速に旅の目的地として浮かび上がってきた。
随分旅をして来たので、何か変わった動機づけも欲しかったし、シチリアの普通の田舎というのにもひかれるものがあった。
本当に何も無い普通の田舎町だったが、ちゃんと由緒ありげな教会があって、その前に広場があって、休日には人々がなんとはなしに集まってきて。。。そして、その広場は映画のままだし(さすがに作品に出てくる映画館はないが)。。。
なかなか興味深い訪問となった。
※記事とは関係ありませんが、コメント投稿が機能するようになったみたいです。
路面電車のある風景(ポルト)
ポルトは坂道の多い街だった。
けっこう急な坂道もあり、そこを路面電車がゴトゴトと進んでいく。
魅力的な被写体だった。
しかし、日曜だったためか、30分に1本くらいしか走っておらず、一撮入魂せねばならず、あまりよいものは撮れなかった。
写真をとった箇所は下り坂で、向こうの方はかなりの上り坂になっています。
★記事とは関係ありませんが、現在、コメントの投稿がうまくいかなくなっています。(修復できるのか?)
フッキは見られたが。。。
今回は珍しくデジタル一眼のみで出かけたのが失敗。フッキの雄姿をバッチリとカメラにおさめることができなかった。
いつもだとコンパクト・デジカメも持っていくのだが、家を出る直前に機内で読むための文庫本を一冊デイパックへ(24ℓほどのデイパック一個で出かけました)。その分の重さを減らすため、デジカメを家に置いていったというわけ。
それで、スタジアムに行ってみると、入り口の荷物検査のところで、一眼レフは持ち込めないと言われてしまった。一眼レフはプロフェッショナル用とみなし、持込は許可できないということだった。
しかたなく、スタジアムのクロークみたいなところでカメラを預かってもらい、スタンドに入っていった。
しかし、このカメラ持込をめぐって英語を話せるスタッフが現れて、「ポルトが好きなのか?」「フッキを見に来た。彼、日本でプレイしていたし」「そのためにわざわざ来たのか。楽しんでいって」という感じで話ができたので、良かったというべきか。
しかし、iPod touch を持っていたので、そのカメラで撮影したのが上の写真。
やはり、かなり画質が悪い(一応修正は施しています)。まあ、個人的には雰囲気は撮れたのでよかったと思うが。
上の写真はキックオフ1時間半くらい前のものだったか?(キックオフは20時15分) ご覧のようにガラガラ。こんなに早く来る客はいないのである。
次の写真は試合開始直前のもの。バック・スタンドの1階席はわりと埋まっている(メイン側も同じような感じ)。ちなみに僕の席は30ユーロの席(料金はソシオがかなり割安に設定されているが、一般客は50、40、30、その下にさらに2種類くらいあったか?)
次の写真は、フッキがフリーキックを蹴る直前のもの。
フッキ、ポジションは3トップの右?
あの体つき、走り方、札幌時代と変わらず懐かしい。しかし、フレーぶりは随分大人になり、なんと腕にはキャプテン・マーク。札幌時代を知る自分には信じられない。
次の写真はFCポルトのサポーター席。
対戦相手が最下位争いをしているチームだったので、試合全体を通しての熱さは本来のものとは程遠かったのかもしれないが、得点時は大盛り上がり。スタンド全体が総立ちとなった。(4-0でポルトの勝利)。
22時15分ころ、ホームの勝利で幸せな空気が漂うなか、カメラを受け取り、ホテルへの帰途についたが、気温はおそらく2~3度までは下がっており、体は冷え切っていた。
寒さに備えて、使い捨てカイロ3つと、ナサの技術を取り入れたという保温シートも持っていってはいたのだが。。。
路面電車のある風景(イスタンブール)
忙しくてなかなか、本編の更新がままなりません。
ということで、もうしわけ程度に「路面電車のある風景」イスタンブール編を。
イスタンブールの路面電車は、観光客にも便利な乗り物。
路面電車(トラムヴァイ)とメトロを乗り継ぐと、アタチュルク空港へも行ける。荷物の大きい旅行者には利用しにくいが、自分は荷物が小さいので、よく使う。
写真はスィルケジ駅から、アヤソフィア方面に向かう途中で撮ったもの。
やっぱりトルコは猫ランドだった
本日、トルコから帰国。
やっぱりトルコは猫ランドだった。
左右の目の色が違うワン猫が有名だが、そこかしこ、要所要所(?)で猫が登場した。
写真はアンカラの古い家を改装したホテルの猫。
チェックインの際、突然、足に何か柔らかい感触が。。。
この猫が体を擦り付けてきたのだ。
という具合に、やたらと人なつっこい猫も。
なお、ラマダンの影響は思ったほど大きくはなく、1回、30分後にバスがあるのを確認したが、簡単な昼食をとれる場所がなく、観光客向けのちゃんとしたレストランで食事を取った結果、そのバスを逃し、5~6キロ歩くことになったくらいか(大きい影響?)
旅のハイライトはカッパドキアでの気球だったが(いずれ本編の方で報告の予定)、
柿の季節じゃないけれど、法隆寺
仕事の合間を縫って、発作的に法隆寺へ行った。
前から、どこから撮ったのだろうと思いながらも、その場所を確認できなかった場所から撮ったのが上の写真。
法隆寺の西院伽藍(金堂とか五重塔のある方の伽藍)から、東院伽藍(夢殿ある伽藍)へ向かう途中の道からはずれて北へ行ったところに、その場所はあった。
ちょっと高いところに造られたため池があって、そのほとりから、民家に埋もれるようにして建つ法隆寺が見られる。
表から見る法隆寺とは随分違った雰囲気だ。
電柱がなければ、と思うが。。。
真夏の法隆寺はこんなに観光客が少ない(ときどき、客の波が訪れるが、少したつとこうなる)。
暑くてちょっとつらいが、柿の季節(秋)はこうはいかない。
路面電車のある風景(ミラノ)
ミラノには路面電車がたくさん走っている。
ということで、昨年のリスボン以来、路面電車づいているものとしては、ミラノらしい「路面電車のある風景」を探したわけだが、ありました、ありました。ミラノ最大の観光地ともいうべきドゥオーモの前。
残念ながら撮影の時間帯が悪く、ドゥオーモの写りがいまいち。
Stadio Giuseppe Meazza
スタディオ(スタジアム)・ジュゼッペ・メアッツァ。通称のサン・シーロ・スタジアムの方が通りがよいかもしれない。
イタリアのセリエA、インテルとACミランが本拠地とするスタジアムである。
最大収容人員8万3000人弱、巨大スタジアムである。
4月9日、そのサン・シーロでインテルの試合を見てきた。いや、インテルの長友佑都を見てきたというべきか。
昨年の4月にフィレンツェでフィオレンティーナ対インテルの試合を見て、ヨーロッパでのサッカー観戦もいいものだと思うようになった。
それで、かつて札幌に在籍し、現在はFCポルトに在籍しているフッキを見に、ポルトガルへ行くことを考えていた。
しかし、あいにく観戦に出かけられる日程の、FCポルトの試合は地方のチームとのもの。
スタジアムも小さく、チケットの入手も難しい可能性がある。さらに、ホームの観客に囲まれたなか、その敵であるフッキに注目して観戦するのもちょっと、と思い迷っていた。
そのとき長友がインテルに移籍した。
せっかくサン・シーロまで行って空振りという可能もあるが、スタジアムの雰囲気を感じられるだけでもよい。対戦相手はキエーボ。満員にはならないカードだし、当日券の購入も十分可能のはず(日本で高額の手数料を払ってチケットを確保するという手もあるが)。そう思ってイタリア行きを決めた。
試合では長友が先発(最近の出場状況からみて、試合には出ると思っていたがラッキーだった)。
過密日程のせいか、インテルの動きは悪かったが、ミッドウイークに行われたチャンピオンズ・リーグでの出場時間の短かった長友は元気一杯。切れの良い動きで、サイドを駆け上がったり、敵の攻撃の芽を摘んだりして、インテルサポもやんやの喝采。試合中に「ユート」コールも起こり、サポにもかなり愛されている模様。
結果は2-0でインテルの勝利。
サポは勝利の余韻に浸って、長くスタジアムにいるのかと思いきや。特にゴール裏のウルトラのあたりの客はあっという間にスタジアムから去ってしまった。これもサッカー文化の違いか?
ウーム、なかなかよい雰囲気で楽しかった。来年もこの季節、ヨーロッパサッカーを観戦に行くかもしれない。
バックウォーター再訪
インド南部のケララ州・バックウォーターを再訪した。
前回訪れたのは2006年3月。
あれから5年が経過した。
成長著しいインド経済。それにともなって南インドにも大きな変化があったのか。
答えは「あり」。
あくまで観光客目線からの変化だが、観光の発展ばかりではなく、人の移動の増大はおそらくこの間のインド経済の発展と軌を一にするものだと思う。(そこのところの詳細は本編で-いつになるかわかりませんが)。
さて、バックウォーターだが、大水郷地帯で、かつてはここを米などの運搬船が盛んに行き来した場所である。
その運搬船を改装して作られたのがハウスボート。(ただ、おそらくは最初はそういう作られ方だったのだろうけれど、今は最初から観光用のボートとして作られているのではないだろうか?)。
今回の旅はそのハウスボートで1泊2日のクルーズをすること。
ボートには寝室、トイレ・シャワーがあり、3人のクルー(うち一人はコック)が同乗。
夜はクルーも寝るので、かなりの時間は停泊しており、ずっと動いているわけではない。
安目のボートを選んだためか、夜は普段ボートを停泊している場所まで戻ってしまい、そんなに広範囲なクルーズはできなかったが、早朝のすがすがしいバックウォーターを経験できて十分満足。
写真は、朝、停泊中のボートから見た対岸。こんな風に多くのハウスボートが夜の間停泊している。
キジ島(ロシア)の木造建築物群
久しぶりで本編を更新。
2009年夏のロシア、エストニアなどにいったときのものだが、訪れてから随分時間がたったので、忘れてしまったことも多い。
しかし、キジ島で見た木造建築物群の印象は薄れてはいない。
とにかくインパクトがあった。
写真はプレオブラジェーンスカヤ教会で、これを見にいったといっても過言ではない、というかこれを見に行った旅だった。
戸井十月ユーラシア大陸横断3万キロの旅
今月、毎週水曜夜にNHKBSハイビジョンで放送されていた、「プレミアム8紀行、戸井十月・ユーラシア大陸横断3万キロの旅」が今日、最終回を迎えた。
作家戸井十月氏がポルトガルのロカ岬からロシア極東のウラジオストクまで、バイクで旅するという紀行ものである。
もちろんサポート隊がついているのだが、それでも雪で凍り付く道を行ったり、道なき道をいったり厳しい旅だ。
残念ながら、ロカ岬から中央アジアまでの分の放送は見逃したが、中央アジアのキルギスタンから中国、モンゴル、ロシアと走った後半2回は実に見ごたえがあった。
戸井氏は旅を楽しんではいるのだが、それでもつらい旅で、ふと「ここで戻るわけにもいかないしなあ」とかもらしたりするわけだが、ハードな旅を敢えてしない人にはわからない心のありようだなあと、自分のユーラシア陸路横断でもっとも厳しかった、パキスタン-新疆の旅とか、イラン-パキスタンの旅に思わず重ね合わせてしまった。
戸井氏がモンゴルのホテルでお湯が出ることを喜ぶ場面があって、お湯が出ることがしみじみとありがたいと思ったトルコのサムスンの安宿のことを思い出したりもした。
ああいう旅を再びすることはあるのだろうか、そんなことをふと思ってしまう番組であった。
ということで、冒頭の写真は、パキスタンからフンジェラーブ峠を越えてカシュガルへ向かう途中にあるカラクリ湖畔での一コマ。
ヨーロッパ流行(?)の大道芸?
今年2度目のヨーロッパだったが、街角でジーっと一定のポーズをとって人形のようにしている大道芸(というべきなのだろうか?)をあちこちで見かけた。(春の旅でも見かけた)
写真はマドリッドで撮ったものだが、これはちょっと変わっていて、そのポーズのユニークさを見せるもの。
ところで、旅行で10日以上も日本を離れると、その間に仕事がたまっており、またまた多忙。
おまけにコンサドーレがらみの遠征も。このサイクルから抜け出さねば、ホームページの本格的な再構築はままならない。さて、どうすべきか。
10月には少し時間が取れるようになる予定なので、今回の旅の報告のページは何とかするつもりではいます。
リスボンでとり鉄(not 焼き鳥屋)と化す
この夏は、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガルと移動する旅をしてきた。
随分前に、上海・イスタンブール間の陸路の踏破を行ったが、その後、ヨーロッパの西端までの陸路踏破をめざしていた。
それで、残ったのがイタリアのミラノからポルトガルまでの区間。
あまり面白そうな区間ではないが、いずれ踏破するつもりだったので、この夏の旅で挙行することにした。
イタリア、フランスはほぼ移動のみ。
スペインに入ってジローナという街をみたあと、また、ひたすら移動。
最後、ポルトガルに入って観光らしい観光。
もちろん、ユーラシア最西端の地である、ロカ岬へも行った。
だが、一番、印象に残ったのは、坂の街リスボンを走るケーブルカーや路面電車。
観光客はほとんどにわか鉄っちゃんになり、ケーブルカーや路面電車の写真を取りまくる。
鉄道写真撮影が好きな鉄っちゃんのことを「撮り鉄」というらしいが、自分も、普段は鉄道にものすごく興味がある方ではないが、しっかり撮り鉄になってしまった。
ということで、冒頭の写真はリスボンの路面電車です。
Stadio Artemio Franchi
かなり行きあたりばったりで、イタリア・サッカー1部リーグ(セリエA)のフィオレンティーナのホームゲームに行ってきた。
先週末から今週にかけて、仕事の空白ができることが決定した段階で、4泊5日(うち機中1泊)でのイタリア行きは決定していた。
行き先がイタリアであった理由は特にない。あえていうならば、温かい季節にシチリアへ行きたいということか。
しかし、天気予報をチェックすると、シチリアの天気は今一つ。
で、天気予報がよさそうだったのがローマより北側。トスカーナとその周辺がローマからの距離も短く時間を有効に使えそう。
この地域の最大の観光地といえばフィレンツェだが、ここには行ったことがあるのでアッシジを選択。予報通り、好天に恵まれてなかなかよい旅行となった。
さて、あとはどこへ行くか。
サッカーをみたいと思った。日曜の夜ローマをたたなければならないので、土曜の試合でなければだめ。一応、出発前に土曜日にフィレンツェでフィオレンティーナのホームゲームがあるのはチェックしておいたが、チェックしただけという感じ。
アッシジで泊まったホテルのロビーにあったパソコンでインターネットが使えたので、調べてみると、10日夜8時45分キックオフ。対戦相手はインテル。夜8時45分というキックオフ時刻もすごいが、問題は対戦相手。インテルでは当日券は無理かも。
しかし、とにかくフィレンツェへ移動。
で、上の写真でおわかりの通り、無事チケットゲット。
メインスタンド一番端の方の席が50ユーロと結構なお値段。
しかし、ゲームはなかなかすごく、ピッチが狭く感じられる(正確なサイドチェンジが頻繁だし、攻守の切り替えもはやい)。Jリーグで自分のひいきチームを応援するのとはまた別の楽しさがあった。
追記...ちなみに表題のstadio artemio franchi(スタディォ・アルテミオ・フランキ)はフィオレンティーナのホーム・スタジアムの名前。
春爛漫
名古屋で仕事があったので、ちょっと足を伸ばして京都へ行ってきた。
開花後に寒さが続いたおかで桜が満開でまさに春爛漫。
知恩院。
何だこれは?
京都造形芸術大学学生作の天女像だった。
さらに元陽の棚田
元陽の棚田は、秋の稲刈りから翌年の田植えまでの間、写真のように水が張られた状態が維持されるらしく、かなり長い期間、絶景を楽しめるらしい。(一連のエントリーの最初の方で、田植え前の時期に水が引かれるみたいなことを書いたが、どうやらそれは違うようなので修正した)
ところで、雄大な眺めも素晴らしいが、上の写真のように、近くから棚田が眺められる場所もなかなか味わい深い。
棚田に隣接する宿泊施設(ゲストハウス?)に泊って、観光することも可能らしいので、機会があればゆっくり訪れたいものだ。
中国南部の干ばつ
雲南では、秋から春にかけては乾季で、もともと雨が少ないようだが、今年は記録的な少雨というか、干ばつとのことだった。
棚田にはご覧のように水が引かれていたが、棚田観光の拠点になる元陽新街鎮のホテルの掃除のあばちゃんは、「4カ月雨がふっていない」と嘆いていたし、もちろんホテルもまともに給水されていなかった。
写真の棚田は、皆水が引かれているように見えるが、遠くの方には水が引かれていない田が見えた。もしかすると、観光客が集まるあたりの田に優先的に水が供給されているのかもしれない。
しかし、いったいどのようにして山のてっぺん付近の田に水を引き入れるのだろうか。何らかの形で調べなくては。
ところで、雲南の雨であるが、ウエブで見られる気象情報では、ここ数日昆明では雨マークが見られる。降水量がどの程度か詳しくはわからないが、危機的な干ばつらしいから、ほんのお湿り程度にしかすぎないのかもしれない。
マンゴーパンケーキ
今回の旅の始めは、まず、香港のマンゴーパンケーキ。
名前はパンケーキだが、生地はクレープ。
生クリームは甘すぎず、マンゴーの甘酸っぱさとマッチして旨い。
ちなみに僕は甘いものずきです。
実は、これを食べることが香港に寄った理由の一つ。
ネットで検索すると満記甜品という店がヒットし、かなり有名らしいが、写真はそれとは違う店のもの。去年、朝日新聞の現地記者の書いたコラムで知った。
あまり食べ物の写真を撮ることがないので、ちょっと恥ずかしかったが、せっかくこれが目当てでいったので、一枚撮影。
出されるときは、切り口はこちら側には向けられておらず、無造作に3か所にナイフが入れらた状態。
マンゴープリンは日本でもメジャーになったが、こちらはまだか? それとも日本でははやらないのか。それとももうはやっている? 絶対売れると思うのだが。
すごすぎる棚田
広大な斜面に広がる棚田。
写真が小さくてスケールの大きさがわからないかもしれないが、とにかく大規模。
ガイドブックによると、この場所の棚田は幅3㎞、長さ5㎞、高低差300mにも及ぶそう(こんなのがあっちこちに広がっている!)。
稲刈りが終わって、田植えが行われるまでの間、田に水がためられた状態が続くらしく、キラキラ光る棚田の観光のため多くの観光客が訪れる。
ややもやっていたが、太陽の光が田んぼに反射してキラキラとしているのがよいということで、観光客の多くは夕方か、早朝に訪れることが多いよう(この場所は早朝は太陽の光が背中側から差し、田んぼは光って見えないので、また、別の場所にたくさんの観光客が集まる)。
ほかのビューポイントにも行きたかったので、そんなにそうそう長居はできなかったのだけれど、ずうっと眺めていたい景色だった。
菜花没有了
羅平の安食堂の夫婦(?)の夫が言った「ツァイホア、メイヨウラ(菜花、没有了=菜の花は終わってしまった)。」
中国語ができるわけではないので、こう言ったのかどうか正確なところはわからないし、きちんと覚えてもいないが、こんなようなことを言われた。
確かに昆明から羅平へのバスからは、ほとんど菜の花らしきものは見られなかった。
「羅平に着けば」と淡い期待はしていた。でも、やはりそうなのだ。菜の花は終わったのだ。しかし、早すぎないか?
ガイドブックや色々な旅行会社のツアー案内には「2月から3月にかけて」とあるのに。
雲南は干ばつだというが、晴れの日が続きすぎて、花が早く咲いてしまったのだろうか?
花が早く終わった原因を尋ねるような中国語力は持ち合わせていないので、その辺はわからない。
しかし、せっかく来たのに何も見ずに帰るわけにはいかない。
菜の花観光の名所に出かけてみることに。
それで、かろうじて残っていた花が上の写真。
ただ、ここは花も素晴らしいが、カルスト地形独特の景色もなかなかのもの。
その辺は本編の方で。
冬季五輪に影響されたわけではないが、スキーをちょっと
何年振りかでスキーをした。
札幌生まれ、札幌育ちなので、スキーはそれなりにやってきた。
大学受験を直後にひかえた時期にも気分転換と称して行くほどだったのだが、東京に住むようになってから、すっかりご無沙汰となった。
それでも、2年に1回くらいは、帰省したついでにニセコなどへ行っていたと思う。
しかし、数年前、原因不明のめまいを起こしてから、スキー場からすっかり足が遠のいてしまった。細かいターンがよくないような気がして。
で、今回の帰省だ。
当初予定していた旧友たちとの再会の予定が流れて、何のために帰省するのか、ほぼ飛行機に乗るためだけの帰省という感じになったので、そんな感覚を払しょくするため久しぶりでスキーでもということにした。
ひさしぶりなので、あまりパワーの必要なゲレンデは避けたい。しかし、ほぼ平らというような斜面も面白くない。
そんなリクエストにぴったりなのは、自分の知る限りではニセコアンヌプリ。
ということで、行ってきましたニセコ。
札幌からはシーズン中には、ニセコスキーエクスプレスなる臨時特急が出ており、約2時間でニセコ駅に着く。
3両編成だったが、何と指定車2両は満席、自由席もほぼ満席状態。昔はガラすきだったのだが。
乗客のなかにはオーストラリア人とおぼしき人たちの姿も。実は、僕の隣と、通路をはさんだ2席はオーストラリア人らしき家族づれだった。話したわけではないが。
ニセコ駅からニセコアンヌプリまではバスで移動。
すぐにスキー、ウエア一式を借りてゲレンデに出た。
リフト・ゴンドラ5時間券というのを購入して、さっそくゴンドラに乗りこんだ。1回1100円とけっこうな金額だが、5時間券は3800円。4回乗るともとをとれる計算だ。(結局7回のり十分もとはとった?貧乏性である)
ゴンドラは6人乗り。1100円もするだけあって、かなりの時間乗る。10分以上はのっただろうか。
一応外気からは遮断されているので、マイナス10度強の外気温ではあるが」、耐寒スキーにはならずにすむ。
めまいをおこしたのが7年前だから、スキーは少なくても8年はしていない。が、その割に滑れてしまう。体が覚えているのだ。
普段のランニングのおかげで、太ももあたりにかかる負荷にも十分耐えられる。筋肉痛も出なかった。
しかし、意外なところに筋肉痛が。。。腕である。ゴンドラに乗る際、スキーを脱いで、片手でつかみ持ちしながら、ゴンドラ乗り場の階段を上っていくのだが、これがかなりこたえた。
加えて、滑走中にボーダーに追突された。そんなに強烈な接触ではなく、双方とも大丈夫だったが、ぶつけられた時に、右肩を痛めたようだ。ということで、右肩がおかしく寝返りをうつと痛い。おかげで、ちょっと眠りの浅い日が2日間続いている。
しかし、オージーの多さにはびっくりだ。(たぶんオージー)
聞くところによると、ニセコの各スキー場にもっともアクセスしやすい町である倶知安の街の外国人が立ち寄るような店では、ちゃんと英語が通じるらしい。日本で一番英語が通じやすい街ではないのだろうか。
海外の観光地へ行くと、別にきちんと習ったわけでもないのに英語や日本語のペラペラな人たちに出くわすことがある。倶知安もそんな感じか? と思うと何となく興味深いものがある。ただ、倶知安のそういう人たちはちょっとした会話集みたいなものを使って勉強していそうだが。
今度は、英語でオージーと会話する、街の店屋さんのおばちゃんなどを観察しに行ってみたいとさえ思っている。
あの菜の花畑をもう一度
写真はもう20年以上前のもので、貴州省から雲南省へ向かうどこかの車窓の風景(雲南に入っていたか?)。
雲南は今もというか今は広大な菜の花畑で有名で、2月から3月にかけてかなりの長い期間楽しめるらしい。
一度見た景色だが、無性にまた見たくなった。ということで、この春は中国は雲南へ向かうことにした。
ただ、雲南だけで終わるかどうかは。。。
単純に日本と中国を往復する旅にはならないかもしれない。
恐るべし、上海地下鉄の自動券売機
昨年末、中国へ行ったことはすでに記した。
旅行記の本編でも述べたとおり、上海は地下鉄が整備されて非常に便利になった。
乗車券はICカードタイプで、自動券売機で購入する切符も同様である。
もちろん、日本のSuicaのようなものもある。
いちいち乗車券を購入するのは面倒なので、僕もSuicaタイプのカードを購入しようかと思ったが、あちこちでお釣りでもらうコインを地下鉄の乗車券購入で処分するのがよいと思い、一回一回切符を購入することにした。
そこで、自動券売機である。コインでの購入は取り立てて書くこともないのだが、紙幣での購入がなかなかのものなのである。
中国の紙幣はもともと紙質が日本の紙幣ほどではない、かなり使いこまれるまで中国人民銀行に回収されないなどのため、かなりくたびれたものも流通している。
西塘で上海までのバスのチケットを購入したとき、かなりくたびれた紙幣で釣りを渡されたが、これを上海地下鉄の自動券売機で使ってみた。
日本ならば確実にアウトであろうボロボロさ加減の紙幣なのだが、なんと上海地下鉄の自動券売機は、これを受け付けてくれたのである。どういうセンサーが積んであるのか、その感度は良いのか、はたまた鈍感なのか。
他の乗客たちを見ていると、割と綺麗な紙幣でも戻ってくることがあるようなので、機械による差が相当大きいのかもしれない。ただ、わかったことは、何台かでチャレンジすればかなりよれよれの紙幣もOKということ(このときの僕は一発でOKだった)。
写真がないのが残念だが、本当にけっこうよれよれの紙幣だった。
第2次マイ中国ブーム?
日曜からJALマイレージバンクの特典航空券を利用して2泊3日で上海に行ってきた。
天気予報は最悪で3日とも雨の予報。
しかし、2日目の朝ホテルのカーテンを開けると晴れ。
上海を散策するのもいいが、晴れた日のためのオプションに考えていた水郷古鎮へ。
選んだ古鎮は西塘。ミッション・インポッシブル3のロケ地だったそう(映画は見てません)。観光化が進んでいるが、まだ素朴な感じもありよいところだった。
写真は西塘。詳細は旅行記の方で。
中国は昔とは変わりサービスという概念が定着してきており、力まず、ダラダラと旅するのに適した国になってきた。観光化の進行は致し方ないところだが、色々と興味深いところも多い。他の水郷古鎮へも行ってみたい(観光地として整備が進みすぎて映画のセットのような印象受ける恐れもあるが)。今後立て続けに行きそうな感じがする。
ちなみに、今回の上海の宿はちょっと変わった宿で、安くはなかったが、なかなかよかった。
行ったつもりカンボジア
アンコールトム
肉離れもあってホノルルマラソンは断念。その代わりにどこかへ、と考えた。そこで考えたのがカンボジア再訪。以前訪問したのは1997年。そのときもそれなりに観光地化が進んでいたが、新しいガイドブックを読むと、予想以上にものすごい人の押し寄せる観光地になっているらしいことがわかってきた。う?む、まだのどかだったアンコール遺跡群とシェムリアップの街の記憶を大切にすべきか、その変貌ぶりを確認すべきか。
談山神社から明日香へ
15日は午前中から大阪で仕事。当日入りも可能な時間帯だったが、朝早いのはきついのと、ちょっと歩きたいところがあったので前日入り。
歩きたかったところとは、桜井市の談山神社から明日香への道。
一度歩いたことがあるのだが、ずいぶんと時間がたち、そのほとんどは忘れてしまった。ただ、坂を下りきったところに現われた明日香ののどかな風景がとてもよかったことだけは心に刻まれていた。
談山神社は十三重の塔が有名だが、今回、面白いと感じたのは、拝殿の下(上の写真)
拝殿からの眺め。少し早かったが紅葉も綺麗だった。
明日香へ抜ける道。
談山神社から石舞台までは、5キロくらいということだが、この先、一部はもっと細い道、というか獣道のような道。前日の雨のため滑ることこのうえなく、けっこう難儀した。
3時半に談山神社を出て、ここまで30分ほど。晩秋の太陽が急に傾いてきた。規模は小さいが棚田が印象的だ。今度はみのりの時期に来たいものだ。
未来の巨匠?
写真はエストニアのタリンの聖オレフ教会に展示してあった子供たちの絵の1枚。小学生くらいの子(低学年?)の絵らしい。何かを真似して書いたのか、自分自身の画風なのか。教会内の宗教画よりも、ずっとインパクトが強かった。
時差ボケ
先週の土曜(29日)の夕方に帰国したが、時差ボケ解消に失敗気味。ヨーロッパを夜に出て、日本に夕方近くになって到着するというパターンは時差ボケがきついみたいだ。とくに機内でぐっすり寝てしまうと、起床が日本時間の午後ということになり、体内時計がそこで固定されてしまうみたい。
早めに起きて外に出て紫外線にあたれば、割とすぐに解消できるのだが(いつもはそうしている)、今回は、帰国翌日の日曜は締切仕事。それを終えた夜は前橋までコンサドーレの応援に遠征。帰宅後はなかなか寝付けず。
昨日は外に出るぞと思っていたが、台風でそれもままならず。結局、今日まで引きずっている。
しかし、今日は夕方8キロほど走ったので(意外と走れた)、夜は自然と眠られるだろうから、明日からは大丈夫だろうと思う。
さて、どこへ行ってきたか、ですが、なぜかヘルシンキ・イン(理由はいずれ旅行記で)、そこからロシアのサンクトペテルブルクへ移動、されにペトロザヴォーツクというところへ移動、そこでキジ島観光(移築された木造建築群で有名)。その後は再びサンクトペテルブルクへ移動し、さらに陸路、エストニアの首都タリンへ移動、最後はタリンから船でヘルシンキに移動して、帰国とあいなりました。
下の写真はキジ島。古い木造建築群を移築して保存しているのだが、島だけあって物理的に観光客がどかどかと押し寄せることがなく、文化財の保存にはよい方法だと思う。
ネムルートの神像にチェーン?
写真は96年の夏に訪れたトルコ東部のネムルート山だが、どうやら今は遺跡保護のため、写真の神像の周囲にチェーンがめぐらされたらしい。ということで、もう上のような写真は撮れなくなったようだ。「行けるときに行け」、やはりこの鉄則は守らなければと思った。
一人で撮るのも何なので、トルコ人親子に声をかけて一緒に。