1936(昭和11)年の初め、父は母親(僕の祖母)、姉たち(僕の伯母たち)とともに南洋のテニアン島という島へ行き、1年半くらい滞在した。この時の父は3才に満たない幼児で具体的記憶はなく、その時のことを父から直接聞いたことはないが、伯母の一人(渡航当時9歳)が『テニアンの思い出』と題して書き残している(当時テニアンに居たたちから聞き取った話やサイパンやテニアンについて記した書籍も参考にしながら)。
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<以下、伯母の文章の引用-固有名詞は伏せるかたちに改めた>
昭和10(1935)年12月24日、二学期の終業式を終えた夜、母と私(9才3カ月)、妹F(6才1ヶ月)、妹M(3才10ヶ月)、弟(僕の父)のS(2才8カ月)の五人は、雪の網走駅をあとに南洋に向かった。
(略)
母はその年、腎臓の片方を摘出し、暖かいところで静養することをお医者さんに勧められていた。当時、母の両親や母の一番上のお兄さんとお姉さんの家族は、1922(大正11年)創立の南洋興発会社の募集に応じて、1928(昭和3)年の夏、八丈島(※1)から、日本の委任統治領だったテニアン島に移住して、さとうきびを栽培していた。そこで、テニアンに行って静養することになったのである。上の姉は女学校入学を控えているので、父と網走に残った。
※1:祖母(文中の「母」)は八丈島出身
(略)
網走からの汽車の旅は長かった......東京では父の妹の嫁ぎ先に落ち着き、正月はそこに滞在した。
(略)
いよいよ、横浜港から出帆する貨客船近江丸に乗船して、南洋に向かうことになった(※2)。まわりの人たちが途中の旅を心配して、親戚のあんちゃんが一緒にいくように計らってくれた。
※2:出発の日付は記されていない。
私たちは蚕だなのような席の上段ですごした。最初の寄港地サイパンに着くまで一週間かかった。下の段に、福島からテニアンに移住する一家がいた。そこに私と同じ学年の女の子がいて、すぐに仲良くなった。この子とはカーヒー小で同じクラスになった。
船はサイパンの沖に停泊し、私たちは母のすぐ上のお姉さんに会うため下船した。タラップで小さなはしけに乗り移るのだが、下の海がとてもこわかった。妹や弟など幼い子供は、船員が右と左に二人一緒に抱えておろした。子供たちのからだはタラップの外にはみ出し、見れば下は一面青い海の水。本当にこわかったそうだ。今でもよくその話がでる。
(略)
サイパンで、そのころ大人たちが話していたが、島のどこかに軍港を築いている、ということだった。戦争の準備が行われていたようである。
1月21日、いよいよテニアンに行くことになった。サイパンから小さな船に載ってソンソン(テニアン町)に着いたのは、夕方、薄暗くなってからである。
(略)
私共がお世話になった伯父の家は、カーヒー一斑というところで、十字路になっている道路の北東の一角にあった。この家は、古い家と新しい家を短い廊下でつないであった。古い家は、おじいさんたちが八丈島から移住したとき、すぐに建てたもので、土間に続いた一部屋があるだけだった。私たちが行ったときは、土間は台所として使われていた。新しい家は、最初もっと北の方に入植していた伯父が、おじいさんと一緒になるため建てたもので、まだ新しく、三つの部屋があった。私たちは、表の座敷に住むことになった。八畳位の部屋だった。家の横の道路ぎわには、カマチリの木が高く茂り、バナナとパパイヤが植えてあった。そのそばに牛がつながれていた。太い丸太を組んだ簡単な小屋で、牛が3・4頭いた。
このあたりは1年が雨季と乾季に分かれている。私たちが行った1月は乾季だったから、サトウキビの刈り入れで農家の人は忙しい最中だった。雨季に降った雨を屋根にかけて樋からタンク(土に大きな穴を掘ってコンクリートで硬め、トタンの屋根をふいたもの)に引いて、飲料水に使っていた。乾季にはほとんど雨が降らないので、タンクの水が少なくなり、バケツに紐をつけて水を汲むと、タンクの底にたまったものは湧き上がって、にごった水が上がってきた。絶対に生水をのまないように注意された。アメーバ赤痢になる、といわれた。トイレは外で、今まで使ったこともない粗末なものだったが、すぐに慣れた。
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☆ この後、テニアンでの日常の生活の思い出がつづってあるが省略します。
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1937(昭和12)6月4日、網走に帰るため、カーヒー小学校を退学した。帰りの船は大きな客船のサイパン丸で、岸壁には着岸できず沖合に停泊していた。それで私たちは小舟でいって乗り移った。
来る時とは違って、客室はきれいで広く、何組かのよその人たちと一緒だった。
(略)
サイパン丸は大きいので、横浜までは五日しかかからなかった。横浜に上陸して、行くときと同じように叔母の家でお世話になった。
(略)
...やっと網走に着いた。......網走に帰った日は覚えていないが、その後まもなく七月七日、日華事変が始まった。みんな、よく無事で帰ったと、父母が話しているのを聞いたことがある。
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☆ 文中にある7月7日日華事変が始まったとあるのは、北京郊外の盧溝橋事件を契機に始まった日中戦争のことで、日本はその後、戦争を拡大し、1941年12月には米英との戦争に突入し、1945年8月敗戦を迎えた。祖母、伯母、父らが1年半ほどの時間をすごしたテニアン島にも戦火は及び、多くの人が亡くなり親戚も犠牲になった。伯母は、テニアンで非業の最期を迎えざるを得なかった人たちの50年忌を迎え、「一緒に過ごした日のことを書いて、あの人たちを偲ぶよすがとしたい、と考え」「この思い出」を書こうと思い立ったと記している(伯母が「テニアンの思い出」を書いたのは1994年)。以下に親戚が亡くなったときのことを書いた部分を引用します。
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「伯父さんたちの死」
第二次大戦も終わりに近い、昭和19年7月24日、サイパンを占領していたアメリカ軍がテニアンに攻めてきた。北のハゴイ西海岸に上陸して、たちまち第一、第二飛行場を占領、日本軍は後退し、島の南のカロリナス山地に追いつめられた。民間人も一緒に逃げた。伯父・伯母たちも、おじいさんを背負い、おばあさん、6才のJちゃん、2才のRちゃん、乳飲み子のMちゃんを連れてカロリナスの洞窟へ逃げた。Hさん(18才)、Gさん(16才)、Sさん(12才)、Eさん、Eさんの子(2才)も一緒だった。
おばあさんは耳が遠くなっていたので、戦局のきびしさがよくわからなかった。洞窟のそとに出て、平気で煙草を吸うので、伯父さんも困ったそうだ。
そのうち、戦闘はますます激しくなり、アメリカ軍が近くに迫ってきた。
当時、軍隊には固く守るべき教えとして、「戦陣訓」があり、「生きて虜囚の辱めを受けず」つまり「捕虜になるくらいなら死んだほうがよい」と書いてあった。そのうえ、戦いになったら民間人もこれに倣うのが当然、とされていた。
カロリナスでも、決断がせまられた。あちこちで、自分の手で、あるいは他人の手で、軍人でもない人も死んでいった。軍隊はあらかじめ、民間人の手に手りゅう弾を配っておいたのである。
8月1日、伯父さんたちも最後の決意をした。その様子を母が話してくれたことがある。家族がみんな輪になり、小さい子を残してはかわいそうだと真ん中に入れた。そしてその中心で手りゅう弾を爆発させたそうだ。Hさん、Sさん、Jちゃんは生き残った。Jちゃんは掠り傷だけでよかった、と喜んでいたという。(略)
しかし、まもなくその幼い命も乱戦の中で絶たれた。HさんとSさんだけが生き延びて、アメリカ軍に保護された。
8月3日(2日の説もある)、戦闘は終わった、二人はバラ線を張った収容所から許可を貰ってカロリナスの山に行き、小さくなった肉親の骨を集め、見ず知らずのおばさんがくれた白い布に入れて持ち帰った。
戦後、そのお骨を胸に八丈島に帰った。
母は留萌にいて、テニアン玉砕の知らせを聞いた。札幌にいた妹(4女)に会いに来て「みんな死んでしまったんだよ」と泣いていたそうだ。
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テニアン島で悲惨な出来事があったとき(兵士約5000人、民間人約3500人が命を落としたと言われる)、伯母は樺太の師範学校で学んでおり、祖母(文中の「母」)とは離れて暮らしていたので、「みんな死んでしまったんだよ」と泣いた祖母のことは、妹から聞いたこととして記している。
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