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2024年7月 Archive

伯母が書き残した戦時中の記憶(『テニアンの思い出』)

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1936(昭和11)年の初め、父は母親(僕の祖母)、姉たち(僕の伯母たち)とともに南洋のテニアン島という島へ行き、1年半くらい滞在した。この時の父は3才に満たない幼児で具体的記憶はなく、その時のことを父から直接聞いたことはないが、伯母の一人(渡航当時9歳)が『テニアンの思い出』と題して書き残している(当時テニアンに居たたちから聞き取った話やサイパンやテニアンについて記した書籍も参考にしながら)。

 

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<以下、伯母の文章の引用-固有名詞は伏せるかたちに改めた>
 昭和10(1935)年12月24日、二学期の終業式を終えた夜、母と私(9才3カ月)、妹F(6才1ヶ月)、妹M(3才10ヶ月)、弟(僕の父)のS(2才8カ月)の五人は、雪の網走駅をあとに南洋に向かった。
(略)
 母はその年、腎臓の片方を摘出し、暖かいところで静養することをお医者さんに勧められていた。当時、母の両親や母の一番上のお兄さんとお姉さんの家族は、1922(大正11年)創立の南洋興発会社の募集に応じて、1928(昭和3)年の夏、八丈島(※1)から、日本の委任統治領だったテニアン島に移住して、さとうきびを栽培していた。そこで、テニアンに行って静養することになったのである。上の姉は女学校入学を控えているので、父と網走に残った。
※1:祖母(文中の「母」)は八丈島出身
(略)
 網走からの汽車の旅は長かった......東京では父の妹の嫁ぎ先に落ち着き、正月はそこに滞在した。
(略)
いよいよ、横浜港から出帆する貨客船近江丸に乗船して、南洋に向かうことになった(※2)。まわりの人たちが途中の旅を心配して、親戚のあんちゃんが一緒にいくように計らってくれた。
※2:出発の日付は記されていない。

 私たちは蚕だなのような席の上段ですごした。最初の寄港地サイパンに着くまで一週間かかった。下の段に、福島からテニアンに移住する一家がいた。そこに私と同じ学年の女の子がいて、すぐに仲良くなった。この子とはカーヒー小で同じクラスになった。
 船はサイパンの沖に停泊し、私たちは母のすぐ上のお姉さんに会うため下船した。タラップで小さなはしけに乗り移るのだが、下の海がとてもこわかった。妹や弟など幼い子供は、船員が右と左に二人一緒に抱えておろした。子供たちのからだはタラップの外にはみ出し、見れば下は一面青い海の水。本当にこわかったそうだ。今でもよくその話がでる。
(略)
 サイパンで、そのころ大人たちが話していたが、島のどこかに軍港を築いている、ということだった。戦争の準備が行われていたようである。

 1月21日、いよいよテニアンに行くことになった。サイパンから小さな船に載ってソンソン(テニアン町)に着いたのは、夕方、薄暗くなってからである。
(略)
 私共がお世話になった伯父の家は、カーヒー一斑というところで、十字路になっている道路の北東の一角にあった。この家は、古い家と新しい家を短い廊下でつないであった。古い家は、おじいさんたちが八丈島から移住したとき、すぐに建てたもので、土間に続いた一部屋があるだけだった。私たちが行ったときは、土間は台所として使われていた。新しい家は、最初もっと北の方に入植していた伯父が、おじいさんと一緒になるため建てたもので、まだ新しく、三つの部屋があった。私たちは、表の座敷に住むことになった。八畳位の部屋だった。家の横の道路ぎわには、カマチリの木が高く茂り、バナナとパパイヤが植えてあった。そのそばに牛がつながれていた。太い丸太を組んだ簡単な小屋で、牛が3・4頭いた。
 このあたりは1年が雨季と乾季に分かれている。私たちが行った1月は乾季だったから、サトウキビの刈り入れで農家の人は忙しい最中だった。雨季に降った雨を屋根にかけて樋からタンク(土に大きな穴を掘ってコンクリートで硬め、トタンの屋根をふいたもの)に引いて、飲料水に使っていた。乾季にはほとんど雨が降らないので、タンクの水が少なくなり、バケツに紐をつけて水を汲むと、タンクの底にたまったものは湧き上がって、にごった水が上がってきた。絶対に生水をのまないように注意された。アメーバ赤痢になる、といわれた。トイレは外で、今まで使ったこともない粗末なものだったが、すぐに慣れた。

 

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☆ この後、テニアンでの日常の生活の思い出がつづってあるが省略します。

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 1937(昭和12)6月4日、網走に帰るため、カーヒー小学校を退学した。帰りの船は大きな客船のサイパン丸で、岸壁には着岸できず沖合に停泊していた。それで私たちは小舟でいって乗り移った。
来る時とは違って、客室はきれいで広く、何組かのよその人たちと一緒だった。
(略)
 サイパン丸は大きいので、横浜までは五日しかかからなかった。横浜に上陸して、行くときと同じように叔母の家でお世話になった。
(略)
...やっと網走に着いた。......網走に帰った日は覚えていないが、その後まもなく七月七日、日華事変が始まった。みんな、よく無事で帰ったと、父母が話しているのを聞いたことがある。

 

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☆ 文中にある7月7日日華事変が始まったとあるのは、北京郊外の盧溝橋事件を契機に始まった日中戦争のことで、日本はその後、戦争を拡大し、1941年12月には米英との戦争に突入し、1945年8月敗戦を迎えた。祖母、伯母、父らが1年半ほどの時間をすごしたテニアン島にも戦火は及び、多くの人が亡くなり親戚も犠牲になった。伯母は、テニアンで非業の最期を迎えざるを得なかった人たちの50年忌を迎え、「一緒に過ごした日のことを書いて、あの人たちを偲ぶよすがとしたい、と考え」「この思い出」を書こうと思い立ったと記している(伯母が「テニアンの思い出」を書いたのは1994年)。以下に親戚が亡くなったときのことを書いた部分を引用します。

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  「伯父さんたちの死」
 第二次大戦も終わりに近い、昭和19年7月24日、サイパンを占領していたアメリカ軍がテニアンに攻めてきた。北のハゴイ西海岸に上陸して、たちまち第一、第二飛行場を占領、日本軍は後退し、島の南のカロリナス山地に追いつめられた。民間人も一緒に逃げた。伯父・伯母たちも、おじいさんを背負い、おばあさん、6才のJちゃん、2才のRちゃん、乳飲み子のMちゃんを連れてカロリナスの洞窟へ逃げた。Hさん(18才)、Gさん(16才)、Sさん(12才)、Eさん、Eさんの子(2才)も一緒だった。
 おばあさんは耳が遠くなっていたので、戦局のきびしさがよくわからなかった。洞窟のそとに出て、平気で煙草を吸うので、伯父さんも困ったそうだ。
 そのうち、戦闘はますます激しくなり、アメリカ軍が近くに迫ってきた。
 当時、軍隊には固く守るべき教えとして、「戦陣訓」があり、「生きて虜囚の辱めを受けず」つまり「捕虜になるくらいなら死んだほうがよい」と書いてあった。そのうえ、戦いになったら民間人もこれに倣うのが当然、とされていた。
 カロリナスでも、決断がせまられた。あちこちで、自分の手で、あるいは他人の手で、軍人でもない人も死んでいった。軍隊はあらかじめ、民間人の手に手りゅう弾を配っておいたのである。
 8月1日、伯父さんたちも最後の決意をした。その様子を母が話してくれたことがある。家族がみんな輪になり、小さい子を残してはかわいそうだと真ん中に入れた。そしてその中心で手りゅう弾を爆発させたそうだ。Hさん、Sさん、Jちゃんは生き残った。Jちゃんは掠り傷だけでよかった、と喜んでいたという。(略)
 しかし、まもなくその幼い命も乱戦の中で絶たれた。HさんとSさんだけが生き延びて、アメリカ軍に保護された。
 8月3日(2日の説もある)、戦闘は終わった、二人はバラ線を張った収容所から許可を貰ってカロリナスの山に行き、小さくなった肉親の骨を集め、見ず知らずのおばさんがくれた白い布に入れて持ち帰った。
戦後、そのお骨を胸に八丈島に帰った。

 母は留萌にいて、テニアン玉砕の知らせを聞いた。札幌にいた妹(4女)に会いに来て「みんな死んでしまったんだよ」と泣いていたそうだ。

 

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テニアン島で悲惨な出来事があったとき(兵士約5000人、民間人約3500人が命を落としたと言われる)、伯母は樺太の師範学校で学んでおり、祖母(文中の「母」)とは離れて暮らしていたので、「みんな死んでしまったんだよ」と泣いた祖母のことは、妹から聞いたこととして記している。

My こころ旅

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少し前に『にっぽん縦断こころ旅』のことを書いた

視聴者から寄せられた手紙につづられた思い出の地などを俳優の火野正平さんが自転車で訪れ、その場所でその手紙を読むという番組だ。

今、少しずつ両親の残した写真を見たりスキャンしたりしているが、アルバムをチェックしてみて、けっこうあちこちへ出かけていたことを改めて知ることが出来た。

僕は東京へ出てからしばらくは、帰省の頻度はとても低く正月やお盆すら帰らないという年が続いていた(お盆や正月の時期の仕事を敢えて断らなかった)。そのせいもあって両親のお出かけについてはあまり把握していなかった。海外へ行くときは計画段階から知らせてくれたので一応把握していたが。

また、父が亡くなった後、母は学生時代の仲良しと出かけることがけっこうあったようで、それについては割りと把握しているつもりだったが、やはり写真を見て初めて知るものもあった。

僕が一緒に行って思い出を共有しているわけではないのだが、両親が訪れた場所で僕が行ったことのないところを訪れ、「こんな場所に来たのか」と感慨のようなものに浸りたいと思い、ちょこちょこと出かけている。テレビ番組の『こころ旅』とはかなり趣向が異なるが、自分にとっては十分『こころ旅』だ。

202406山野辺の道桧原神社近く

上の写真は山の辺の道にある桧原神社の近くの風景。

両親が京都・奈良を旅した際、なぜか桧原神社から桜井駅までという半端なルートを歩いていることをアルバムを見て知った。

「山の辺の道」は『日本書紀』にも見える古道で、奈良盆地の東に連なる山々の裾を縫うように、三輪山の麓から奈良へと通じる道。この道はは高校の修学旅行の自由行動の日に一部歩いたことがあったが、両親が歩いた場所は行ったことがなかったので、6月、急に思い立って訪れてみた。雨の中を歩くのはいやなので、天気予報で晴の確率が高いことを確認してから航空券を購入した。

新千歳から関空に飛び、大和八木駅近くで1泊して翌日山の辺の道へ向かった。午後の飛行機で北海道に戻るので時間があまりなく、両親が歩いたルートに絞ってあるこうと巻向駅から桧原神社へ向かって歩き出した。

両親のアルバムには上の写真と同じあたりにあったと思われる「大和の青垣」の案内板の前で撮った記念写真が残っており、それを探してこの辺りを歩き回ったのだが、近年、その案内板はなくなったようで、場所を特定するのにかなり手間取ってしまった。

ちなみに、奈良盆地の四周を囲む山地は、昔から青垣山と称されていて、奈良盆地の東部に発達する丘陵地帯を中心とした地域は1970年に大和青垣国定公園として指定されている。そのことを記した案内板が少し前まであったのだがなぜ撤去したのだろうか?

この後、大神神社・平等寺を回り、桜井駅まで歩き、関空に移動し札幌への帰途についた(けっこうあちこちで写真を撮ったのでそのうちホームページの方にアップする予定です)。


6月末には自転車で札幌市内の百合が原公園に行ってみた。母が学生時代からの仲良しと出かけたときの写真があり、どんな場所なのだろうと思ったので。

202406百合が原公園01

上の写真は百合が原公園と僕の自転車。

百合が原公園はかなり広大な公園で、あちこちに季節の花々が植えられていて、また、園内をリリー・トレインなる乗り物(ちゃんと線路の上を走る)もあって、いつも多くの市民でにぎわっているようだ。

7月の初めには日帰りで道東の霧多布岬へ行ってきた。

両親は車で道内をくまなく回っており、僕が行ったことのない場所も多い。

道内の観光地は公共の交通機関ではアクセスできない場所も多いのだが、霧多布の街から岬までの区間を除くとほぼ公共の交通機関のみでアクセスできるので行くことにした(時間がたっぷりあれば岬まで歩くのも無理というわけではないが時間が限られているのでタクシーを利用した)。

なお、夏季の霧多布は霧の日が多いので、入念に天気予報をチェックして出かけた。

202407霧多布岬

上の写真は霧多布岬。花も咲き乱れていて、一番良い時期だったと思う。

202407霧多布岬のラッコ

上の写真は花越しに撮ったラッコ。コンデジの10倍ズームレンズで撮ったのだが、これが限界。お腹というか胸の上に子供を抱いているさまはわからないか?(肉眼では子供を抱いているさまが見えたのだが)

この小旅行は札幌から日帰りで出かけたのだが、色々と写真を撮ったので、そのうち旅行記をアップするつもりです。

何か立て続けで小旅行へでかけているが、7月前半、東京の自宅のチェックに行くついでに大分の国東半島へ出かけた。全然、ついでという感じではないが、新千歳から大分までの航空券は乗り継ぎ割引になるので、ついでなのである。

国東半島へは学生時代に行ったことがあるのだが、両親のアルバムを見るとやはり行ったことがない場所の写真があり、行ってみることにした。

昼過ぎに大分空港に到着して、夕刻の飛行機で東京へ飛ぶ予定である。6時間くらいしかないが、空港が国東半島にあるので、国東半島の何か所かをめぐるだけならば十分である。レンタカーが必須だけれど。

今回も例によって天気予報をチェックして晴れることを確認してから航空券を購入した。

今回の目的地は熊野摩崖仏、天念寺とその前にある石仏、両子寺。

 

202407熊野摩崖仏

上の写真は熊野摩崖仏。学生時代以来の訪問だから40年ぶりくらい。木が生い茂っていて不動明王像の顔がちゃんと見られなかった(何か処置を考えているという張り紙があった)。

202407長岩屋川の川中不動

上の写真は天念寺の前を流れる長岩屋川の川中不動。学生時代に国東半島へ行ったときは、路線バスを利用して観光することが可能だったのだが、本数が少なく、ここは訪れることが出来なかった。

202407両子寺

上の写真は両子寺。ここも学生時代に訪れている。

この後、空港まで戻り東京に飛び、1泊後札幌に帰った。この小旅行もけっこう写真を撮ったので、そのうちホームページの方にアップする予定です。

上記のお出かけのうち、札幌の百合が原公園は近いので別として、そのほかの場所もすべて日帰りか滞在24時間以内。何とももったいないお金の使い方だが、母とすごした最後の何年か、所要があって東京へ出るとき母を一人にする時間をなるべく短くするため、1泊2日か日帰りで帰宅していたときの感覚が染みついて、いまだに実家を3日以上あける気にはなれないでいる。もう家に母はいないのに何か留守番させている感じなのだ。他人が見るとさぞかし奇妙に思われるだろうが、そんな変な感覚が残っている程度の母の死後の精神的落ち込みからの回復状態ではある。

まだまだ、父と母の足跡を訪ねる旅には行きたいと思うが、これから1カ月半くらいは酷暑が続き、おまけに新型コロナ感染の大流行という状況もあり、その後は台風シーズンがやってくるのでしばらく休止して、10月の半ばくらいになったら天気予報を見ながら再開しようかと思う。

自転車のライディングポジションの調整

202407モエレ沼公園

購入以来、サドルの高さなどには無頓着だったが(買った時は主に通学のためでそんなに長い距離を乗ることがなく、その後も長い距離を乗ることはなかったため)、脚の力が効率的にペダルに伝わっていない感じがしたので、サドルを少し高くしてみた。

それで、試しに数キロと思って走り出したのだが、けっこうよく進む感じがして調子が良かったので、モエレ沼公園まで行ってしまった(上の写真)。距離は片道9キロくらいか?

試走は上々だったかに思えたが、サドルの高さを上げるということは前傾姿勢が強くなるということ。

そんなに極端な姿勢になるわけではないのだが、あごを上げると首が疲れる。筋力がなく、柔軟性もないせいなのだと思う。

そんなに力を入れてめいっぱい走るつもりはないので、姿勢はもう少し立った状態で乗りたい。ということで、帰宅後、サドルを心持ち下げ、ハンドル高を心持ち高くしてみた(ハンドルの角度調整はやっていないが、そのうち試してみるかも)。

少し涼しく、風も弱い日を選んで、20キロくらいの試走をしてみたいと思うが、この夏も札幌は暑く、本格的な試走はしばらくできないか?

蛯子真理央さんのエッサウィラを描いた絵にひかれた理由

200608エッサウィラ

もうけっこう時間が経ったが、以前、母の付き添いで通ったクリニックの待合室に飾ってあったモロッコのエッサウィラを描いた絵画のことを書いた
その時は書かなかったが、なぜ、エッサウィラを描いた絵に魅かれたのか。もちろん、旅行が好きでモロッコにも度々出かけていたということもあるが、エッサウィラを訪れた時の自分の心持ちが、件の絵への関心を強くさせたのだと思う。

エッサウィラには2度訪れている。最初が1999年春、2度目は2006年の夏。そして、件の絵画は2006年のエッサウィラ訪問の記憶を呼び起こした。

2006年の夏、エッサウィラへ行こうと思うきっかけになったのは、その何年か前から交流を持っていたあるホームページ(ブログ)にアップされたモロッコ旅行記(旅先からアップされた日記かもしれない)だったと思う。その旅行記(ブログの日記)にアップされた写真とほとんど同じ構図の写真を自分も撮っており(この記事冒頭の写真)、それは影響を受けてのである可能性が高い。件の絵画の構図はそれらの写真の構図は似通っており、それがその絵に対する興味をかき立てられた要因だと思う。

2006年夏のモロッコ旅行は直前まで行けるかどうかわからない状態だった。なぜかというと、その年の早い時期から父がガンで入院して(何度目かの入院だったと思う)闘病生活を送っており、夏には容体が芳しくなくなる日もあったからだった。ずっと持っていなかった携帯を緊急の連絡用に買ったのもこの年だった(購入したのはPHSの通話ができてPCメールも送受信できるW-ZERO3という機種)。

2006年当時書いた旅行記(ホームページに載っている)を読むと、父の病気のことは伏せてあり、ただ「直前まで行けるかどうかわからない状態だった」というようなことは書いてある。この直前まで行けるかどうかわからなかった理由が父の病状だったのだ。

記憶は定かではないが、出発直前の時期、父の病状は割と安定して、母が旅への背中を押してくれたのだったと思う。しかし、旅に出ることにはしたものの万が一のことは考えておかねばならない。ということで、出国当日成田空港で携帯をレンタルした。当時、携帯の国際通話がどの程度普及していたのかは記憶にないが、自分が使っていたPHSでは国際通話はできなかった。レンタル携帯は、当時、世界を席捲していたノキアの携帯。起動時や着信時のメロディーは記憶に残っており、海外旅行に行くとあちこちで聞こえるほどノキアの携帯は普及していた。

携帯を借りるだけでは緊急時には対応できない。すぐに帰国できるよう心の準備もしていた。今ならばネットで片道の安価な航空券が手に入るが、当時はそうはいかなかった。モロッコからの緊急帰国の方法は、まず、ノーマル運賃でパリまで飛ぶ。そして、パリの旅行代理店でなるべくすぐ出発できる日本行きの便の航空券を手に入れる。ただし、夏の多客期なので安い航空券が手に入らない可能性も高い。その場合、パリからもノーマル運賃の航空券を買おう。そんな覚悟を決めて出発した。

この旅の際にとっていたメモが残っているので、これを書くにあたって読んでみた。エッサウィラへ向かう前日の母との電話で父の病状が悪化したことを聞かされた。熱が出て、血液検査の結果、白血球の数も増えていると。しかし、幸い、エッサウィラに着いてからすぐの電話では容体は安定したという話を聞くことができた。詳細は覚えていないにしても、この夏のモロッコ旅行はそんな記憶と結びついている。ちなみに、その時の父の容体の悪化は、その後のさらなる悪化の始まりで、帰国して2週間くらい後、帰らぬ人となった。

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