近況報告というには、ずいぶん時間がたってしまったが。。。
10月初め、日帰りで秋田へ行ってきた。
9月に母が亡くなったのだが(しばらく更新が止まっているのはそういうことです)、その故郷が秋田で、秋田時代の戸籍(除籍)謄本をとるためだった。
遺産相続の手続きには、故人の生まれてから亡くなるまでの戸籍が必要となる。秋田の分は郵便で取り寄せることも可能だったが、住民票のある住所にしか送ることができないと言われてしまった。自分は現在札幌で諸手続きを行っているが、住民票は相変わらず東京にあるので、いちいち送ってもらった戸籍を東京までとりにいかなければならない。それ以外にも、諸手続きのため、東京に行く必要が色々と生じてはいるが、秋田市役所に郵送を頼んだ場合、いつ届くのかわからないという問題があった。それならば、母の故郷を見ることも兼ねて、秋田まで行ってみようと思ったのだ。
秋田へ行った日は好天に恵まれた。
秋田市役所に着いたのは12時過ぎ。すぐに証明書を取得する窓口へ行き古い戸籍の写しを受け取った。30分強はかかったと思う。しかし、目的を達したので、もうやることがない。
市役所の食堂で昼食をとり、その後、千秋公園へ行った。幼いころの母が親と一緒に散歩に行ったりしたのだろうか?
上の写真は秋田市役所。
上の写真は千秋公園(久保田城跡)の入口の一つ。以下の2カットも千秋公園。
帰りの飛行機は20時過ぎだったので、時間はたっぷりあった。
ということで県立美術館で絵を見てから、かなり早かったが空港へ向かった。
下の写真は県立美術館から千秋公園方向を望んだもの。
久しぶりの旅行だが、もちろん気分はもりあがらなかった。
ところで、何か淡々と書いてきたが、母の死は予想以上にこたえている。
かなり暗い話になりますが、お付き合いいただける方は続きをどうぞ。
<母の死>
それはあっという間だった。
家の中の何でもないところでバランスを崩し転倒。
立ち上がれなくなり、仕方なく救急車を呼んだ。
世間ではコロナ明けとか寝ぼけたことを言っているが、医療機関では決してそういうことはなかった。割とすぐに受け入れ病院は見つかったが、次から次へと救急患者を受け入れなければならないので、すぐに転院先を探すというのが前提の入院だった。そしてやはり面会は禁止。
背骨の下の方が折れていて、痛みと相談しながらリハビリをする。ついてはリハビリ型の病院を探してくれるとのことだった。
ところが入院3日後、病院から酸素飽和度が90まで低下したとの連絡があった。誤嚥性の肺炎を発症したというのだ。骨折痛によって、咳き込んだりすることができなかったから、誤嚥したものがもろに肺に届いてしまったのか? これによって転院もリハビリ型び病院ではなく、療養型病院をさがすという方針に変更された。医師は「穏やかな最期を迎えられるようにしたい」という。専門家が客観的にみるとそういう状況なのだろうが、息子としては、そう簡単に受け入れられるものではなかった。
転院先を見つけるまで2週間強を要した。その間、面会できず、実際に会って状態の変化を見るということができず何とももどかしい時間をすごした。それでも、家に戻ってくることを信じていた。
転院の日、17日ぶりで母と会えた。一応炎症は抑えられているものの、肺がダメージを受けているらしく酸素が必要な状況に変化はなかった。
転院の際には母と一緒に介護タクシー(車椅子のままで乗車できる)で移動し、その時は家に帰ってこられるのでは?と感じたが、それは希望的な観測でしかなかく、転院段階でほぼまともに食べられなくなっており(転院後は中心静脈への点滴で栄養を補給する措置がとられた)、さらに転院後、発熱を繰り返した。
幸い、転院先では制限はあるものの面会が可能だった(週2回ないし3回、1回20分)。ちょっと調子がよく会話が成立することもあったが、基本的には会いに行くたびに元気がなくなっていった。病室を去る際、手を振ると振り返してくれていたが、最後は手首から先だけをちょっと立てて手をふるような雰囲気を示すだけになった。頑張って手をふろうとする姿はいじらしかった。面会に行く日、その道すがら「今日はどうだろう?」と思うと胸が苦しかった。
救急搬送から2ヶ月目の早朝、病院から死を知らせる電話が来た。その前日、面会に行った際には容体が悪く、話すこともままならず、医師から危ない状況であることを知らされたので覚悟はできていたが、やはりきつかった。
病院の霊安室で母と対面。体は、まだ、かすかに暖かった。しかし、悲しみに打ちひしがれているわけにはいかない。すぐに葬儀屋を手配しなければならないのだ。親など近親者を亡くしたものは皆通る道なのだろうが、何ともつらかった。
葬儀屋など研究しているわけもなく、家から近い、CMで見たことがあるという理由だけで決めた。
霊安室に到着してから2時間弱後には、母と一緒に葬儀屋の搬送車に乗っていた。40日前、この病院に来たときは、話しをしながら来たのにと思うと、とめどもなく涙が出てきた。
はずかしながら、葬儀、出棺でも涙がとまらなかった。
思えば、母は母親というだけではなく娘のような存在になっていた。
2014年、世界一周航空券を使って久しぶりの長目の旅をした。帰国後、実家に帰り、割と長く滞在するなかで母の認知機能の低下に気が付いた。それ以来、実家にいる時間を増やしていき、生活の色々な面の手助けを行った。一番、助けが必要だったのは通院だった。医者の話を覚えられなくなっていたので。
それでも、幸い母は大概のことは自分でできたから、自分は海外へ出かけることもできた。しかし、徐々に家事全般をしなくなり(しようと思ってはいてもできないようだった)、実家にいる時間を伸ばしていかざるをえなかった。2019年の後半には、東京1、実家9という感じになり、コロナ禍に入ってからは、東京の家の管理のため上京することはあったが、日帰りということが多くなり、1年のうち350日は実家にいるという状態になった。
ずっと離れて暮らしていたら母との思い出は遠い昔のことばかりになり、亡くなっても淋しさは、そんなに募らなかったのかもしれない。しかし、ここ数年、特にコロナ禍に入って以降はずっと傍にいたのだ。たとえば足が弱りすぎてはいけないということで、天気の良い日は家の回りの散歩に連れ出した。ほんの200~300m一緒に歩くだけなのだが。そんな日常の些細な一コマ一コマが、なかなか行きにくい国や地域に行った時以上の思い出になっている。
永遠の命はないし、親が子より先に亡くなるというのは自然の理にかなっていることなので、受け入れなければならないことだと理解はできている。しかし、しばらくは母のことを思って日々をおくることになるのだろうと思う。
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