奈良・浄教寺
上の写真は近鉄奈良駅からほど近いところにある浄教寺というお寺。
母のアルバムにここの写真があり、そこに写っているソテツを見て行ってみたくなった場所である。
それで、この寺を見ることを主目的に先日ふらっと奈良へ出かけてきた。例によって天気予報サイトを見て、酷暑がおさまってきたこと、雨にたたられることがないことを確認したうえで、飛行機の空席状況をみると、幸い席に余裕があったので訪れることを決めた。
浄教寺の本堂は昭和戦前期に焼失しており、その後再建に着手、1968年に竣工。山門は幕末期に建設されたもの。有名な文化財が沢山ある奈良にあってはまったく目立たぬ存在だ。
しかし、実は隠れた名所で写真にあるように、本堂の前には立派なソテツがある。浄教寺のホームページによると樹齢300年余りとのことで、写真にある通り一つの株から多く一つの幹が出ている。そういえば、長崎の興福寺にも立派なソテツがあったが、あちらは南国九州、こちらは奈良ということで珍しい感じがする。
それから、今回初めて知ったのだが、ここ浄教寺本堂で、日本の古美術復興に力を尽くしたフェノロサが、1888年、日本の仏教美術の素晴らしさを説き、その保護の重要性をうったえる「奈良ノ諸君ニ告グ」という講演を行っている。
調べてみるとそれなりに有名なお寺だということがわかったが、母とその友人は、それらのことを知っていて訪れたのだろうか? 宿泊したホテルから近いところにあり、散歩がてら出かけたのだろうか、それともガイドブックに載っていたのだろうか? そんなことを思いながら、浄教寺をあとにした。
滝野すずらん丘陵公園
先日、札幌市南区にある国営滝野すずらん丘陵公園へ行ってきた。
広さは400ヘクタールもあり、花畑、滝(人口ではなく自然の滝=アシリベツの滝など)、大型遊具、散策に適した森などがある、かなり有名な公園らしい。
この公園は自分が東京へ出たころには整備が始まっていたようだが、かなり時間をかけて整備されたようで全面開園となったのは2010年のことらしく、まったくその存在を認識していなかった。
ただ、この辺りに行ったことがないわけではなく、アシリベツの滝は昔から有名で、そこへは行ったことがある。2度くらいは行っていると思うが、一度は高1の時の遠足で、地下鉄真駒内駅から往復25キロくらい歩いたのだったか? 担任が"強権的"な教師で、「お前たち遠足はジャージで来い」と言われたのでアシリベツの滝はかなり強く記憶に残っているのだ(他のクラスはもちろん服装自由)。多くのクラスメートは校章の入ったジャージでバスや地下鉄に乗るのは嫌だということで、真駒内駅のトイレなどでジャージに着替えたが、自分もそうしたことをよく覚えている。
そんな自然に囲まれたエリアだが、母のアルバムにあった記念写真で整備された公園になっていることを認識した。
近くには巨大な仏頭だったり、モアイ像があったりする風変りな霊園があり、近年、この辺りはけっこう有名な観光地になっているらしい。
母のアルバムには満開のコスモスを背景に撮った記念写真があり(母やその友人の目的はやはり花だったよう)、調べてみるとコスモスが綺麗な季節らしいので行ってみることにした。
地下鉄真駒内駅からバスで30分くらいの距離にあるが、途中の道路脇には「熊出没注意!」の看板が見られた。
公園では万全の熊対策を敷いているらしいが(公園はクマよけフェンスで囲い電気柵も設置、毎日監視カメラの画像もチェックしているとのこと)、それでも油断がならない状況で、万が一の際は閉園措置がとられるらしい。昔は平気で遠足をするような場所だったのだが、それだけ熊が多くなったということだ。
バスを降りて園内に入ってみると、コスモスの花が満開だった(冒頭の写真)。
上の写真はサルビア。
墓参りサイクリング
お彼岸だし天気も良く風も弱かったので、墓参りサイクリングに行ってきた。
墓参りが主目的だけれど、ハンドル交換後の乗り心地を確認するのも大きな目的。
往復で40km近く走ったが、乗車姿勢が楽なものになったせいか疲労はドロップハンドルの時よりも少ないか? ドロップハンドルの時は知らず知らずのうちに頑張ってしまっていたのかもしれないが。
上は旧千歳線の跡地の歩行者・自転車専用道路の厚別川をまたぐ橋。
上は上記の橋から見下ろした厚別川の狭い河川敷のパークゴルフ場(たぶん)。
自転車のライディングポジション調整の行きついた先
上の写真は北大構内で撮ったマイ自転車。
見ての通りハンドルを交換した。
以前はドロップハンドルがついていたが、前傾姿勢が疲れる(首に負担がかかる)ということで、ハンドル高を上げてみたり、ハンドルの角度を調整してみたりしたが、ハンドルが遠いことには変わりがなく、現状のステム(ハンドルバーをとりつける部品)ではあまりハンドル高をあげることができず、ライディングポジションを大きく変えることは不可能だった。
ネットを色々と見てみると、前傾姿勢がきつい、ポタリング中心のサイクリングなのでゆったりと景色を眺めることができる姿勢で乗りたい、などの理由でハンドルをドロップバー(ドロップハンドル)から楽な姿勢で乗ることができるものに交換してみたというブログ記事がけっこうあった。
そうしたなかで「いいかも」と思ったハンドルバーがNITTO(日東)というメーカーのB302AAというもので、上の写真に写っているのがそのハンドルを装着したマイ自転車(ハンドルの交換にともないブレーキワイヤーの長さの調整、ブレーキの調整など色々と必要な作業が発生するので、もちろん自転車屋さんにお願いした)。
若干ライズがあり(ステムに取り付ける部分よりグリップ部分が高くなっている)、グリップが体の方に寄るので、前傾が少なくなり乗車姿勢が楽になる。上体が地面に対して垂直(もしくはそれに近い状態)になるポジションをママチャリ・ポジションとかいうことがあるらしいが、写真の通り、そこまでではないが、かなりママチャリ・ポジションに近づいた。とはいえ、ちょっとだけ頑張ってペダルを踏むだけでグングン進んでくれるので、現状としてはかなり満足のいくものとなった。
色々な場所を握ることができるというドロップバーのメリットは捨てがたいので、ステムの高さを上げて(部品の交換が必須)ドロップバーに戻すという改造をしてみたいという誘惑にかられないわけではないが、たぶん当分はこのままでいくと思う。
スパイスカレー
コロナ禍、外食をしなくなって新たに手を出した料理の一つにスパイスカレーがある。
最初は甘目のカレールーを使い、それにカレー粉(SBの赤缶)を少し足すということもしていたが、カレー粉の量によっては、母が辛いと言ってあまり喜んで食べてくれなかった。
ある時市販のカレールーのなかで一番甘目と思われる〇ーモントカレーの甘口をベースに、ジャ〇カレーの中辛を少し加えてみると、割とよく食べてくれたので、そのようなルーの使い方で固定した。ちなみに、ルーだけではなく、トマトケチャップ、ウスターソースを少し加えて味の調整をしていた。
しかし、ルーはけっこうカロリーが高いので、母のカロリー摂取を抑える、また、様々な野菜を投入しやすい、辛さの調整も簡単、などの理由でスパイスカレーを作ってみることにした。
例によってネット上にはスパイスカレーのレシピが沢山出ているが、一番有名といってもよいのは、印度カリー子さんという方のレシピだろう。
下記のものが、印度カリー子さんによるチキンカレーのレシピ。そのなかで重要なのは「基本のグレイビー」というもので、これがあれば色々と応用できる。
<印度カリー子さんのレシピ 4人分>
◆基本のグレイビー(いろんなカレーを作れるスパイスカレーの素で冷凍保存が可能)
玉ねぎ1個(約200グラム) みじん切り。
トマト1 個 (約150~200グラム) ざく切り。
にんにく1かけ
しょうが1かけ
サラダ油 大さじ1
食塩 小さじ1
ターメリック 小さじ1
クミンパウダー 小さじ1
コリアンダーパウダー 小さじ1
◆チキンカレーの材料
鶏もも肉400グラム 小さく切る
牛乳 100 ml
水 100 ml
※実際の調理方法が知りたいかたは、ネット上に画像付きのものが色々とあるので、それを参照されたし。
上記のターメリック、クミン、コリアンダーには辛味がないので、好みで辛味はチリパウダーなどでつける。
僕は、何度かスパイスカレーを作るなかで、トマトの代わりにトマトペーストを使うようになった。自分の勝手な解釈による作り方だが、しっかり炒めてこげ茶色になった玉ねぎにトマトペースト・水少量を入れなじませながら水気がなくなるまでヘラでかきまぜながら加熱。
それから、グレイビーを作る段階では食塩の使用を抑え、最後の味の調整をコンソメ顆粒で行ったりもしている。
上の写真はチキンカレー。グレイビーは2人分を使用。グレイービーを多目に使用すると、ちょっとだけルーカレーっぽくなる。小麦粉などは加えていないけれど、牛乳と水を加えて水分を蒸発させていくと上のようになる。
上の写真はグレイビー1人分を使って作ったドライカレー(中途半端な分量残っていた豚ひき肉とピーマンを活かすために作った)。
上の写真はグレイビー1人分を使って作ったもの。具材は豚肉の薄切りとグリーンアスパラ(グリーンアスパラが旬の時期に作ったものだが、これも中途半端な分量のアスパラがあったので利用)。
上の写真は野菜を沢山摂ろうと思って作ったもので、グレイビーは1人分を使用したが、1人分のグレイビーだとちょっとカレーの風味が薄い感じになる。母がいた頃は、鰹節(削り節の買い置きがあることが多い)・昆布(このためにわざわざ買ってきた)で出汁をとったりもしたが、この時は出汁はとらず、コンソメ顆粒を利用。肉は冷蔵庫にあった豚肉の薄切りを使用。人参は豚肉と一緒にスープで煮込み、少したってからじゃがいもを投入(煮崩れを防ぐため時間差で)、さらにブロッコリーも時間差で投入(ブロッコリーは火を通し過ぎるとおいしくないので)。カボチャは素揚げだと油がもったいないので、フライパンに少量のサラダ油をしいて蓋をして蒸し焼きにしたものを盛り付け時に入れた。これ以外にナスも入っているか?(随分前に作ったので忘れてしまった)。ナスを使う時はフライパンにちょっとだけ多目の油をしいて(ナスは油を吸った状態がおいしいので)蒸し焼きにする。それからグレイビーを作るときに玉ねぎの炒め方が甘かったため、みじん切りにした玉ねぎがよくわかる状態だ。
伯母が書き残した戦時中の記憶(『テニアンの思い出』)
1936(昭和11)年の初め、父は母親(僕の祖母)、姉たち(僕の伯母たち)とともに南洋のテニアン島という島へ行き、1年半くらい滞在した。この時の父は3才に満たない幼児で具体的記憶はなく、その時のことを父から直接聞いたことはないが、伯母の一人(渡航当時9歳)が『テニアンの思い出』と題して書き残している(当時テニアンに居たたちから聞き取った話やサイパンやテニアンについて記した書籍も参考にしながら)。
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<以下、伯母の文章の引用-固有名詞は伏せるかたちに改めた>
昭和10(1935)年12月24日、二学期の終業式を終えた夜、母と私(9才3カ月)、妹F(6才1ヶ月)、妹M(3才10ヶ月)、弟(僕の父)のS(2才8カ月)の五人は、雪の網走駅をあとに南洋に向かった。
(略)
母はその年、腎臓の片方を摘出し、暖かいところで静養することをお医者さんに勧められていた。当時、母の両親や母の一番上のお兄さんとお姉さんの家族は、1922(大正11年)創立の南洋興発会社の募集に応じて、1928(昭和3)年の夏、八丈島(※1)から、日本の委任統治領だったテニアン島に移住して、さとうきびを栽培していた。そこで、テニアンに行って静養することになったのである。上の姉は女学校入学を控えているので、父と網走に残った。
※1:祖母(文中の「母」)は八丈島出身
(略)
網走からの汽車の旅は長かった......東京では父の妹の嫁ぎ先に落ち着き、正月はそこに滞在した。
(略)
いよいよ、横浜港から出帆する貨客船近江丸に乗船して、南洋に向かうことになった(※2)。まわりの人たちが途中の旅を心配して、親戚のあんちゃんが一緒にいくように計らってくれた。
※2:出発の日付は記されていない。
私たちは蚕だなのような席の上段ですごした。最初の寄港地サイパンに着くまで一週間かかった。下の段に、福島からテニアンに移住する一家がいた。そこに私と同じ学年の女の子がいて、すぐに仲良くなった。この子とはカーヒー小で同じクラスになった。
船はサイパンの沖に停泊し、私たちは母のすぐ上のお姉さんに会うため下船した。タラップで小さなはしけに乗り移るのだが、下の海がとてもこわかった。妹や弟など幼い子供は、船員が右と左に二人一緒に抱えておろした。子供たちのからだはタラップの外にはみ出し、見れば下は一面青い海の水。本当にこわかったそうだ。今でもよくその話がでる。
(略)
サイパンで、そのころ大人たちが話していたが、島のどこかに軍港を築いている、ということだった。戦争の準備が行われていたようである。
1月21日、いよいよテニアンに行くことになった。サイパンから小さな船に載ってソンソン(テニアン町)に着いたのは、夕方、薄暗くなってからである。
(略)
私共がお世話になった伯父の家は、カーヒー一斑というところで、十字路になっている道路の北東の一角にあった。この家は、古い家と新しい家を短い廊下でつないであった。古い家は、おじいさんたちが八丈島から移住したとき、すぐに建てたもので、土間に続いた一部屋があるだけだった。私たちが行ったときは、土間は台所として使われていた。新しい家は、最初もっと北の方に入植していた伯父が、おじいさんと一緒になるため建てたもので、まだ新しく、三つの部屋があった。私たちは、表の座敷に住むことになった。八畳位の部屋だった。家の横の道路ぎわには、カマチリの木が高く茂り、バナナとパパイヤが植えてあった。そのそばに牛がつながれていた。太い丸太を組んだ簡単な小屋で、牛が3・4頭いた。
このあたりは1年が雨季と乾季に分かれている。私たちが行った1月は乾季だったから、サトウキビの刈り入れで農家の人は忙しい最中だった。雨季に降った雨を屋根にかけて樋からタンク(土に大きな穴を掘ってコンクリートで硬め、トタンの屋根をふいたもの)に引いて、飲料水に使っていた。乾季にはほとんど雨が降らないので、タンクの水が少なくなり、バケツに紐をつけて水を汲むと、タンクの底にたまったものは湧き上がって、にごった水が上がってきた。絶対に生水をのまないように注意された。アメーバ赤痢になる、といわれた。トイレは外で、今まで使ったこともない粗末なものだったが、すぐに慣れた。
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☆ この後、テニアンでの日常の生活の思い出がつづってあるが省略します。
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1937(昭和12)6月4日、網走に帰るため、カーヒー小学校を退学した。帰りの船は大きな客船のサイパン丸で、岸壁には着岸できず沖合に停泊していた。それで私たちは小舟でいって乗り移った。
来る時とは違って、客室はきれいで広く、何組かのよその人たちと一緒だった。
(略)
サイパン丸は大きいので、横浜までは五日しかかからなかった。横浜に上陸して、行くときと同じように叔母の家でお世話になった。
(略)
...やっと網走に着いた。......網走に帰った日は覚えていないが、その後まもなく七月七日、日華事変が始まった。みんな、よく無事で帰ったと、父母が話しているのを聞いたことがある。
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☆ 文中にある7月7日日華事変が始まったとあるのは、北京郊外の盧溝橋事件を契機に始まった日中戦争のことで、日本はその後、戦争を拡大し、1941年12月には米英との戦争に突入し、1945年8月敗戦を迎えた。祖母、伯母、父らが1年半ほどの時間をすごしたテニアン島にも戦火は及び、多くの人が亡くなり親戚も犠牲になった。伯母は、テニアンで非業の最期を迎えざるを得なかった人たちの50年忌を迎え、「一緒に過ごした日のことを書いて、あの人たちを偲ぶよすがとしたい、と考え」「この思い出」を書こうと思い立ったと記している(伯母が「テニアンの思い出」を書いたのは1994年)。以下に親戚が亡くなったときのことを書いた部分を引用します。
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「伯父さんたちの死」
第二次大戦も終わりに近い、昭和19年7月24日、サイパンを占領していたアメリカ軍がテニアンに攻めてきた。北のハゴイ西海岸に上陸して、たちまち第一、第二飛行場を占領、日本軍は後退し、島の南のカロリナス山地に追いつめられた。民間人も一緒に逃げた。伯父・伯母たちも、おじいさんを背負い、おばあさん、6才のJちゃん、2才のRちゃん、乳飲み子のMちゃんを連れてカロリナスの洞窟へ逃げた。Hさん(18才)、Gさん(16才)、Sさん(12才)、Eさん、Eさんの子(2才)も一緒だった。
おばあさんは耳が遠くなっていたので、戦局のきびしさがよくわからなかった。洞窟のそとに出て、平気で煙草を吸うので、伯父さんも困ったそうだ。
そのうち、戦闘はますます激しくなり、アメリカ軍が近くに迫ってきた。
当時、軍隊には固く守るべき教えとして、「戦陣訓」があり、「生きて虜囚の辱めを受けず」つまり「捕虜になるくらいなら死んだほうがよい」と書いてあった。そのうえ、戦いになったら民間人もこれに倣うのが当然、とされていた。
カロリナスでも、決断がせまられた。あちこちで、自分の手で、あるいは他人の手で、軍人でもない人も死んでいった。軍隊はあらかじめ、民間人の手に手りゅう弾を配っておいたのである。
8月1日、伯父さんたちも最後の決意をした。その様子を母が話してくれたことがある。家族がみんな輪になり、小さい子を残してはかわいそうだと真ん中に入れた。そしてその中心で手りゅう弾を爆発させたそうだ。Hさん、Sさん、Jちゃんは生き残った。Jちゃんは掠り傷だけでよかった、と喜んでいたという。(略)
しかし、まもなくその幼い命も乱戦の中で絶たれた。HさんとSさんだけが生き延びて、アメリカ軍に保護された。
8月3日(2日の説もある)、戦闘は終わった、二人はバラ線を張った収容所から許可を貰ってカロリナスの山に行き、小さくなった肉親の骨を集め、見ず知らずのおばさんがくれた白い布に入れて持ち帰った。
戦後、そのお骨を胸に八丈島に帰った。
母は留萌にいて、テニアン玉砕の知らせを聞いた。札幌にいた妹(4女)に会いに来て「みんな死んでしまったんだよ」と泣いていたそうだ。
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テニアン島で悲惨な出来事があったとき(兵士約5000人、民間人約3500人が命を落としたと言われる)、伯母は樺太の師範学校で学んでおり、祖母(文中の「母」)とは離れて暮らしていたので、「みんな死んでしまったんだよ」と泣いた祖母のことは、妹から聞いたこととして記している。
My こころ旅
視聴者から寄せられた手紙につづられた思い出の地などを俳優の火野正平さんが自転車で訪れ、その場所でその手紙を読むという番組だ。
今、少しずつ両親の残した写真を見たりスキャンしたりしているが、アルバムをチェックしてみて、けっこうあちこちへ出かけていたことを改めて知ることが出来た。
僕は東京へ出てからしばらくは、帰省の頻度はとても低く正月やお盆すら帰らないという年が続いていた(お盆や正月の時期の仕事を敢えて断らなかった)。そのせいもあって両親のお出かけについてはあまり把握していなかった。海外へ行くときは計画段階から知らせてくれたので一応把握していたが。
また、父が亡くなった後、母は学生時代の仲良しと出かけることがけっこうあったようで、それについては割りと把握しているつもりだったが、やはり写真を見て初めて知るものもあった。
僕が一緒に行って思い出を共有しているわけではないのだが、両親が訪れた場所で僕が行ったことのないところを訪れ、「こんな場所に来たのか」と感慨のようなものに浸りたいと思い、ちょこちょこと出かけている。テレビ番組の『こころ旅』とはかなり趣向が異なるが、自分にとっては十分『こころ旅』だ。
上の写真は山の辺の道にある桧原神社の近くの風景。
両親が京都・奈良を旅した際、なぜか桧原神社から桜井駅までという半端なルートを歩いていることをアルバムを見て知った。
「山の辺の道」は『日本書紀』にも見える古道で、奈良盆地の東に連なる山々の裾を縫うように、三輪山の麓から奈良へと通じる道。この道はは高校の修学旅行の自由行動の日に一部歩いたことがあったが、両親が歩いた場所は行ったことがなかったので、6月、急に思い立って訪れてみた。雨の中を歩くのはいやなので、天気予報で晴の確率が高いことを確認してから航空券を購入した。
新千歳から関空に飛び、大和八木駅近くで1泊して翌日山の辺の道へ向かった。午後の飛行機で北海道に戻るので時間があまりなく、両親が歩いたルートに絞ってあるこうと巻向駅から桧原神社へ向かって歩き出した。
両親のアルバムには上の写真と同じあたりにあったと思われる「大和の青垣」の案内板の前で撮った記念写真が残っており、それを探してこの辺りを歩き回ったのだが、近年、その案内板はなくなったようで、場所を特定するのにかなり手間取ってしまった。
ちなみに、奈良盆地の四周を囲む山地は、昔から青垣山と称されていて、奈良盆地の東部に発達する丘陵地帯を中心とした地域は1970年に大和青垣国定公園として指定されている。そのことを記した案内板が少し前まであったのだがなぜ撤去したのだろうか?
この後、大神神社・平等寺を回り、桜井駅まで歩き、関空に移動し札幌への帰途についた(けっこうあちこちで写真を撮ったのでそのうちホームページの方にアップする予定です)。
6月末には自転車で札幌市内の百合が原公園に行ってみた。母が学生時代からの仲良しと出かけたときの写真があり、どんな場所なのだろうと思ったので。
上の写真は百合が原公園と僕の自転車。
百合が原公園はかなり広大な公園で、あちこちに季節の花々が植えられていて、また、園内をリリー・トレインなる乗り物(ちゃんと線路の上を走る)もあって、いつも多くの市民でにぎわっているようだ。
7月の初めには日帰りで道東の霧多布岬へ行ってきた。
両親は車で道内をくまなく回っており、僕が行ったことのない場所も多い。
道内の観光地は公共の交通機関ではアクセスできない場所も多いのだが、霧多布の街から岬までの区間を除くとほぼ公共の交通機関のみでアクセスできるので行くことにした(時間がたっぷりあれば岬まで歩くのも無理というわけではないが時間が限られているのでタクシーを利用した)。
なお、夏季の霧多布は霧の日が多いので、入念に天気予報をチェックして出かけた。
上の写真は霧多布岬。花も咲き乱れていて、一番良い時期だったと思う。
上の写真は花越しに撮ったラッコ。コンデジの10倍ズームレンズで撮ったのだが、これが限界。お腹というか胸の上に子供を抱いているさまはわからないか?(肉眼では子供を抱いているさまが見えたのだが)
この小旅行は札幌から日帰りで出かけたのだが、色々と写真を撮ったので、そのうち旅行記をアップするつもりです。
何か立て続けで小旅行へでかけているが、7月前半、東京の自宅のチェックに行くついでに大分の国東半島へ出かけた。全然、ついでという感じではないが、新千歳から大分までの航空券は乗り継ぎ割引になるので、ついでなのである。
国東半島へは学生時代に行ったことがあるのだが、両親のアルバムを見るとやはり行ったことがない場所の写真があり、行ってみることにした。
昼過ぎに大分空港に到着して、夕刻の飛行機で東京へ飛ぶ予定である。6時間くらいしかないが、空港が国東半島にあるので、国東半島の何か所かをめぐるだけならば十分である。レンタカーが必須だけれど。
今回も例によって天気予報をチェックして晴れることを確認してから航空券を購入した。
今回の目的地は熊野摩崖仏、天念寺とその前にある石仏、両子寺。
上の写真は熊野摩崖仏。学生時代以来の訪問だから40年ぶりくらい。木が生い茂っていて不動明王像の顔がちゃんと見られなかった(何か処置を考えているという張り紙があった)。
上の写真は天念寺の前を流れる長岩屋川の川中不動。学生時代に国東半島へ行ったときは、路線バスを利用して観光することが可能だったのだが、本数が少なく、ここは訪れることが出来なかった。
上の写真は両子寺。ここも学生時代に訪れている。
この後、空港まで戻り東京に飛び、1泊後札幌に帰った。この小旅行もけっこう写真を撮ったので、そのうちホームページの方にアップする予定です。
上記のお出かけのうち、札幌の百合が原公園は近いので別として、そのほかの場所もすべて日帰りか滞在24時間以内。何とももったいないお金の使い方だが、母とすごした最後の何年か、所要があって東京へ出るとき母を一人にする時間をなるべく短くするため、1泊2日か日帰りで帰宅していたときの感覚が染みついて、いまだに実家を3日以上あける気にはなれないでいる。もう家に母はいないのに何か留守番させている感じなのだ。他人が見るとさぞかし奇妙に思われるだろうが、そんな変な感覚が残っている程度の母の死後の精神的落ち込みからの回復状態ではある。
まだまだ、父と母の足跡を訪ねる旅には行きたいと思うが、これから1カ月半くらいは酷暑が続き、おまけに新型コロナ感染の大流行という状況もあり、その後は台風シーズンがやってくるのでしばらく休止して、10月の半ばくらいになったら天気予報を見ながら再開しようかと思う。