かなり発作的にベルガマ(トルコ)に行って来た

1999年4月、仕事にわずかな隙間ができたので、かなり発作的にベルガマ(トルコ)に行くことにした。

このホームページの別の旅行記でもたびたび書いている通り、1988年秋のトルコ旅行の最終盤に撮影済みのフィルムを失うという大失態を犯してしまった。そして、その旅で訪れた箇所を再訪する旅を繰り返していたが、残された場所の一つがベルガマだった。そして、ベルガマに行けば、これも残された場所の一つであるブルサに行くことも容易だ(1988年の旅ではベルガマの次に訪れたのがブルサだった)。

日本を出発したのは4月8日。記憶がはっきりしないが、航空券を手配したのは4月に入ってからだったと思う。

会議後、帰宅する前にH.I.Sに寄ってイスタンブールに行く便の空席を問い合わせたところ、英国航空の成田-ロンドン-イスタンブールの便の座席が即確保できた。

航空券が確保できると、次はトルコ到着当日のホテルを予約した。イスタンブール到着が深夜近くなので、泊るところを決めておいた方がよいだろうという判断である。それで選択したのはイスタンブール・ヒルトン。自分の旅では珍しく高級なホテルだが、このときは何かキャンペーンのようなものをやっていてかなり安く泊れたのだ。予約は日本にある予約窓口みたいなところに電話で行った。インターネットでの予約が当たり前の現在(これを書いているのは2020年)からみると隔世の感がある。

<1日目>
英国航空の成田-ロンドン便はがらがらだった。

ロンドンでイスタンブール行きの便に乗り継ぎ、イスタンブール・アタチュルク空港に到着したのは夜の23時すぎだったか?

空港からは珍しくタクシーを利用して、予約しておいたヒルトン・ホテルへ移動。



<2日目>
朝、ホテルからアタチュルク空港へタクシーで移動。

かなり遠回りをされてしまった(前夜400万強トルコリラだったのに、この朝は630万もかかった)。土地勘がある場合、経路を指示するのは鉄則かもしれない。

空港到着後すぐにイズミル行きの便の航空券を購入(イスタンブール・イズミル間は便数も多く当日でも問題なく席を確保できる状況だった)。

11時10分、イズミル到着。

空港-イズミル市内-オトガル(バスターミナル)とバスで移動(現在は空港とオトガルを結ぶバスがあるはず)。

12時半、イズミルを出発したバスは、14時半、ベルガマに到着。

ベルガマの街は1988年から大きく変わっており、あの時に泊ったホテルはもうなかった。

適当なホテルに飛び込んで部屋を確保した後、すぐに観光に出た。

88年はアクロポリスの丘を歩いて登ったが、もう午後3時近く、ゆっくりしていると、もう1カ所の入場予定地アスクレピオンに入れなくなる恐れがあるのでタクシーを選択(その後ロープウェイが出来たようだ)。



アクロポリスの丘の裏側から湖(ダム湖?)が見られた。



ベルガマは、かつてペルガモンと呼ばれ、紀元前3世紀に建国されたペルガモン王国の都がおかれていた所でヘレニズム文化が栄えた。ペルガモン王国は紀元前2世紀ローマの属州となった後も引き続き繁栄したが、その後アラブ勢力の攻撃により衰退したというのが、きわめて大雑把な歴史。

ここペルガモン王国でもっとも有名なのは(世界史にうとい自分でも知っている)図書館で、エジプトのアレキサンドリア図書館に並ぶほどの蔵書を有した。エジプトから輸入するパピルスだけでは紙が足りず、その代替品として羊皮紙が発明された(ペルガモンの図書館に脅威を覚えたエジプトがパピルスの輸出を禁止したためペルガモンではその代替品として羊皮紙を発明したという伝説もある)。

この遺跡は19世紀に発見されたが、ヘレニズム期のゼウス大祭壇の遺物はドイツが持ち去り、それはベルリンのペルガモン博物館が収蔵している。



トラヤヌス神殿。ローマ皇帝ハドリアヌスが先帝トラヤヌスに捧げるため築いたもの。ということでこれはローマ時代の遺構。




トラヤヌス神殿。




トラヤヌス神殿。




トラヤヌス神殿。青空の下、大理石の白が映えていた。







劇場。自分が見た劇場のなかで最も急峻な斜面に築かれたもの。




急である。










適度に荒れた感じがまたよい。




劇場の下まで降りて来た。88年に訪れたときは、劇場の下の方に見える道に出られたのだが、この時は金網が設置されており、遺跡から出るにはもう一度丘の上まで登らねばならなかった。



アクロポリスの丘からは歩いた。



クズル・アヴル(レッド・バジリカ)。ローマ帝国時代の2世紀に、エジプトの神をまつるために建てられたもの。1世紀頃、地中海沿岸地域でエジプトの神であるイシス神の信仰が広がり、2世紀から3世紀にかけてローマ帝国全体で信仰された。そうしたことを背景に建造された神殿だとか。







ベルガマの街からアクロポリスを望む。




ベルガマの街。



ベルガマに街を抜けてアスクレピオンへ向かった。この遺跡に隣接したところに軍の施設があり(88年に訪れたときは、行進だったろうか何か集団行動をしながらオスマントルコの軍楽隊の例の有名な曲を歌っているのが聞こえた)、ちょっと緊張しながら歩いた。(メモには「途中兵士の道を尋ねる」とあるが、道を聞かねばならぬほど入り組んだルートではないので、観光客であることをアピールするため敢えて尋ねたような。。。)

アスクレピオンは紀元前4世紀から紀元4世紀まで使用された総合医療センターみたいなところで、アスクレピオンはギリシャの医療の神アスクレピオスに由来する。



アスクレピオンの遺跡の中心部に続く列柱道路(「聖なる道」だと思う)からアクロポリスを望む。カメラを向けた方向とは逆の方向にアスクレピオンの諸施設がある。




治療施設に続くトンネル。トンネルは俗と神聖の境界ということになっていたとのこと。









音楽療法が行われたとも言われる劇場。客席が綺麗に修復されすぎており、被写体としてはあまり魅力的ではないけれど一応1枚。




聖なる泉(体を清めるため使用)だと思う。




円形のものは診療所(だと思う)。




<3日目>
この日の目的地はブルサ。
ベルガマからブルサに直行するバスはなく、ミニバスやドルムシュなどで幹線に出て、イズミルからブルサへ向かうバスをつかまえるというのが一般的な方法かもしれないが、88年訪れた際、幹線に出ずに、ベルガマ-クニック(kinik)-ソマ(soma)-バルケスィル(balikesir)-ブルサとミニバス・ドルムシュを乗り継いで移動する方法があることを確認していた。トルコでは考えうるありとあらゆるルートにバス・ミニバス・ドルムシュが走っているという感じなので、ホテルで尋ねて知ったのだと思う(『地球の歩き方』に投稿し採用された-今は載っていません)。

9時、ソマ行きのバス(ミニバスだったか?)に乗車。

10時20分、到着。

10時30分発のバルケスィル行きのバス(ミニバス?)に乗車。ものすごく接続がよかった。

12時30分、バルケスィル到着。ここはけっこう大きな都市なので、各方面へのバスが頻発している。

13時発のバスに乗車し15時40分ブルサ到着。

バスでブルサのオトガル(バスターミナル)から市街に移動してまずホテルを確保した後、市内の散歩に出かけた。



イエシル・テルベ(1421年に建設された廟、メフメット1世と家族の棺が収められている)。




イエシル・テルベ。ターコイズ・ブルーのタイルが美しい。




イエシル・テルベの近くにあるイエシル・ジャーミイのミフラーブ(のはずです)。写真では全然わからないがミフラーブのタイルが素晴らしい(すっかり忘却した状態で書くのも何だが)。




<4日目>
8時少し前にホテルをチェックアウト。

9時発のバスでヤロワへ移動。

10時、ヤロワ到着。

ヤロワを10時45分発のフェリーでカルタルへ移動。

11時20分カルタル到着。ここからバスでカドキョイへ移動し、ここからエミノニュ行きの船の乗船。



カドキョイ-エミノニュの船から見たハイダルパシャ駅。



スルタン・アフメットへ移動してホテルを確保した後、街歩きに出た。

メモによると、アヤソフィア、リュステム・パシャ・ジャーミィを見たとある。



アヤソフィア。この日の街歩きで撮った唯一の写真。



夜はタクシムへ出て夕食。


<5日目>
帰国の途につく。

ロンドンで成田行きの便に乗り継ぎ、6日目に帰国。

終わり