トルコのあちこち


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<地理>
 アジアとヨーロッパの中間に位置するトルコの国土は、97パーセントが小アジア(アナトリア半島)、残り3パーセントがヨーロッパ側のバルカン半島。小アジアは山がちで、アナトリア半島の南と北には東西に山脈がはしり、中央部にはアナトリア高原が広がる。気候は海岸部は地中海性気候で夏はからっと晴れ暑い日が多いが、冬はけっこう雨も多く、雨天時は寒い。アナトリア高原中央部はステップ気候で夏は乾燥し、かなり高温となるが、冬は寒く雪も積もる。アナトリア東部は亜寒帯に属すが、ここも夏の暑さが厳しく、空気は大変乾燥する。一方、この地域の冬は冷え込みも厳しく山間部では積雪も多い。
<歴史>
 B.C.3000年ころ青銅器時代を迎えたが、B.C.2500年からB.C.2000年ころにはエーゲ海の交易の中心地としてトロイが最初の繁栄期を迎えた(トロイは何度かの繁栄期を経てB.C.1200年ころのトロイ戦争で滅亡)。B.C.2000年の初め、アナトリア最初の統一国家であるヒッタイトが成立。ヒッタイトは鉄器を初めて使用したことで知られる。アナトリアの中央部に首都をおいたヒッタイトは次第に強大となり、B.C.1285年のカデシュの戦いにおいて、ラムセス2世のエジプトを撃退するほどになった。ヒッタイトが崩壊した後は、アナトリアではアッシリアの影響が強くなった。B.C.900年ころにはアナトリア東部でウラルトゥ王国が成立、アッシリアの内乱に乗じて領土を拡大し、約3世紀続いた。一方、B.C.700年から600年ころには、エーゲ海沿岸ではギリシアの植民地化が始まり、エフェソスなどが栄えた。また、B.C.547年にはペルシアがアナトリアを支配下においた。しかし、ペルシアの支配は200年しか続かず、アナトリアはアレクサンダー大王の支配下に入った。その死後、今度はローマが進出を進め、エーゲ海岸から地中海岸にかけてはローマ時代の遺跡が数多く残されている。330年、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝はビザンティウムに遷都し、町の名をコンスタンティノープルと改めた。395年にローマ帝国は東西に分裂し、東ローマ帝国はいつしかビザンツ帝国とよばれるようになった。8世紀にはイスラム勢力の侵入を受けビザンツ帝国は衰退を始め、1071年にはセルジュクトルコに敗れ、以後アナトリアではトルコ族が勢力を伸ばした。やがてセルジュク朝に内紛がおき、そのなかでオスマン・ベイがが勢力を伸ばし、1326年にはブルサを首都とした。オスマン朝はティムールに敗れ一時滅亡するがすぐに復興し、1453年にはコンスタンティノープルを攻め落としビザンツ帝国を滅亡させ、コンスタンティノープルはイスタンブールと改称された。16世紀のスレイマン大帝の時代には、その領土は東欧から北アフリカや西アジアにまたがる広大な帝国となったが、オスマントルコは彼の死後、衰退に向かった。オスマントルコは、第一次世界大戦ではドイツ側につき敗戦国となったが、戦後の国内の混乱のなかムスタファ・ケマルが革命を起こし、列強による国土の分割・植民地化の危機からトルコを救い、1923年にトルコ共和国を成立させた。ケマルは首都をアンカラに移し、政教分離、ラテン文字の採用などの近代化を進めた(このためトルコでは他の中東諸国の旅行とは違いアラビア文字に悩まされることはない。また、イスラムの戒律もゆるやか)。ケマルは、アタチュルク(トルコの父)とよばれ、今でも国民の敬愛を集めている。ちなみにトルコの紙幣の肖像はみなこのケマル・アタチュルクである。
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