1987年3月、中国西安のホテルで、一人の日本人旅行者に出会った。ヨーロッパからスタートし、ネパールからヒマラヤを越えて中国にやってきたとのことだった。それ以来、いつかは自分もヒマラヤ越えをしてみたいと思っていた。しかし、中東方面への旅に熱中するなかで、その欲求はしだいに弱まっていた。

97年、イランからパキスタンへの旅をし、結果として、上海-イスタンブール間の陸路の踏破を達成したが、これを機にヒマラヤを越えたいという強い欲求が、また頭をもたげてきた。
 ガイドブックを見るとカトマンズ、ラサ双方でヒマラヤ越えの現地発ツアーがあると書いてあった。かつてはヒッチハイクの覚悟がなければこのルートの旅は難しいとされていたから、大きな様変わりである。こうなったら行くしかない。そこで、98年夏、ヒマラヤ越えに挑戦することにした。



トリブヴァン国際空港


1998年8月16日、関空からカトマンズ行きのロイヤル・ネパール機に乗り込んだ。夕方、無事カトマンズに到着したが、あいにくの雨である。この季節は雨の多い季節なのだ。ヒマラヤ越えの時だけでも晴れて欲しいが先が思いやられる。

空港の到着口を出ると、さっそくホテルの客引きにつかまった。予定通りである。最初から客引きについていくつもりである。というのは、カトマンズからラサへのツアーがどの程度の頻度で、どのような日程で催行されているのかわからないからである。ホテルの料金やロケーションよりも、ラサへのツアーの情報を持っているかどうかが客引き選定の基準である。

最初につかまった客引(ホテルのオーナーだった)に「ラサへのツアーに参加したい」というと、あっさり「ok」と言われた。なるべく早く出発したいということを伝えて、彼のホテルへ行くことにした。しかし、ホテルへ着いてツアーについての詳細な情報を確認すると、出発は22日、ラサまでの所要日数は5日(途中観光つき)、料金は500ドルということだった。



旅行者の集まるカトマンズのタメル地区


しかし、出発が6日後というのは大問題である。仕事があるので、8月中には帰国したいのだが、この出発日では、それはかなり難しい。カトマンズ-ラサのツアーは、そんなに頻繁には催行されていないようだ。しかし、僕には、もっと早く出発できるツアーがあるはずという確信めいたものがあった。「じゃあ自分で旅行社をあたるから、あなたには頼まない」というと、とたんに探してみるという態度に変わった。

翌朝、ホテルのオーナーは、明日出発のツアーがあるといってきた。ラサまで3泊4日で(途中観光なし)、料金は300ドルということであった。8月中に帰国できそうである。

今回の旅行の唯一の目的はヒマラヤ越えだ。ネパール観光はどうでもよいが、カトマンズでだらだらしているのももったいないので、カトマンズのすぐ南にあるパタンという古都へ行った。大きな収穫だった。ダルバール広場には、17世紀から18世紀に建てられた美しいネパール建築が建ち並んでいた。



パタンのダルバール広場。旧王宮や寺院が立ち並ぶ。


夕方、ホテルのオーナとともに旅行社へ行き、ツアーの詳しい説明を聞いた。旅行社の説明では、雨が多いため途中土砂崩れが発生しており、旅行社のバスは途中までしか行けず、土砂崩れと土砂崩れの間を現地の車を雇って移動しなければならないので、エクストラの料金がかかるとのことだった。料金は相手しだいとのこと。ツアーとはいえ、ヒマラヤ越えが厳しい旅であることにかわりはないようだ。

18日朝6時少し前、旅行社へ行った。ツアー参加者は、僕以外に日本人の学生2人、男性1人・女性2人というイスラエル人グループの計6名。これにガイドが1名同行する。
 6時10分ころ出発。7時半から30分ほど朝食休憩。

11時すぎ、土砂崩れの箇所に到着。ここでこの先の車を雇うため1人30ドルずつガイドに渡す。ちょっと高いが同意の上でのツアー参加である。

土砂崩れの箇所は6箇所くらい。これらを徒歩で越え、土砂崩れと土砂崩れの間の距離があるところはトラックなどで移動。



カトマンズを出て最初の土砂崩れの箇所。ここではまだ写真を撮る余裕もあった。このあと、小さな川のようになったところを渡ることもあり、靴と靴下を脱いで、ビーチサンダルに履き替えた(海に行くわけでもないのにビーチサンダルを持っていくのは、通常ホテルにスリッパがないから。バックパッカーはたいてい持っている)。


途中、チベット側からやってきた中年の日本人旅行者とすれ違った。「チベット側はもっとひどいことになっているよ」とのことだった。土砂崩れの箇所の一部では雨水が川のように流れ下っているほどなのだが、チベット側がもっとすごいとは! ラサにたどりつけるのだろうか。



トラックの荷台から。


12時過ぎ、コダリというネパール側のボーダーの街に到着。ここで昼食をとり、さらに小型トラックの荷台に乗り中国側へ向かう。中国-ネパール国境の川にかかる友誼橋を渡り少し行くと車をおろされた。ここから中国側のボーダーの街ジャンムーに向かって上り坂が続くのだが、何故かショートカットの九十九折りの急坂を登らされた。どうやら道が使えないらしい。かなり登ったところから、またトラックの荷台に乗り、30分弱でジャンムーに到着。ネパール時間の14時半、中国時間の16時半。一気に2時間時計の針が進んだ。両国の出入国は何の問題もなく完了した。



ジャンムーの街。


ジャンムーからは中国側のガイドに代わり、車はランドクルーザーとなった。しかし、車が1台しか用意できず、イスラエル人3人と我々日本人3人のどちらかが、車が用意できるまでジャンムーで待たなければならないことになった。コイントスの結果、我々日本人組が一足先に、次の街ニェラムへ行くことになった。



ジャンムーを出て少し行ったところから見おろした景色。


ニェラムへの道がすごかった。筆舌に尽くしがたいとは、まさにこのことで、大雨の影響でいたるところで道は寸断寸前の状態。土砂崩れでふさがれた道を車1台がかろうじて通れるだけ、土砂や岩をどけてあるだけの箇所だらけ。さらに、あちこちでまるで滝のようにというべきか、滝の水が道に流れ落ちており、その下を通るたび、水が車の屋根を打ち、一瞬前が見えなくなる。雪のない季節はこの道を定期バスが走っているとのことだが(月に数便というから旅行には使えない)、「バスでは無理だろう」という感じの道である。

ジャンムーを出発して1時間半ほど、8時すぎ(とはいってもこれは北京時間なのでまだ薄暮)ニェラム到着。標高3750m、ジャンムーから一気に2250メートルものぼったことになる。雪域旅館(スノーランドホテル)という宿に投宿したが、部屋のある2階への階段を昇るとき少しクラッときた。早くも高山病の症状が出たのか?



ニェラムのスノーランドホテル。


寒い寒いと言っていると、宿の人たちのプライベートの場所だろうか、台所のような土間に連れて行かれた。電熱器でお湯を沸かしており、その前に座って、あたたまれというジェスチャー。こんな小さな火ではさっぱり暖かくないが、せっかくの好意なので有難く手をかざさせてもらった。そうしているとバター茶を持ってきてくれた。決してうまいというものではないが、チベットへやってきたなあ、という感慨が湧いてきた。ちょっと温まった後、2人の学生をさそって、すぐ向かいの食堂へ行った。用意できる食事は麺とチャーハンだけ。完全に漢式の食堂だった。

翌(19日)朝、起きると頭が重かった。やはり高山病だ。中国・パキスタン国境にある4900m余りのフンジェラーブ峠を越えて泊まったタシュクルガンの街も3700mあったが高山病の症状は出なかった。あのときは峠越え前に3000m余りの所で一泊したので高山病にならなかったのだろうか。
 高山病の症状が出たときは、寝ころんでいるより、ゆっくりと動いていたほうがよいということがガイドブックに書いてあったので、散歩にでた。すると、ヤクの群れがホテルの前の道を通っていった。首にはカウベルのようなものがついており、カラン・カランというのどかな音。おそらくこれから放牧の場へでも行くのだろう。ヤクたちの歩みは遅く、フラフラしていなければ走って部屋にもどりカメラをとってくるところだが自重。貴重なシャッターチャンスを逃してしまった。

ジャンムーからの後続部隊はなかなか到着しなかった。14時すぎにようやく到着し、昼食後、15時過ぎ出発。途中5000メートルを越える峠も越え(旅に出る前に購入した高度計つきの時計で計測)、夕暮れ後、雨の中、宿に到着した(後述のような混乱の中でガイドに聞くこともなかったで、どこの何というホテルかはわからない)。この道を走るトラックの運転手用の宿のようであった。平屋の建物で、部屋にはベッドが並ぶだけの簡素な宿。我々6人には1部屋があてがわれた。別棟に食堂があって、トラックの運転手たちだろうか、意外なほど沢山の客でにぎわっていた。しかし、トラックの数からみて客が多すぎるような気もした。ちょっとした街がそばにあってそこの人たちが集まっているのだろうか?



峠で強風にひるがえるタルチョ(地水火風空を表す5色の旗。安全と仏の加護を祈る)。あいにく、空はほとんど雲におおわれており、青い空にはためく五色のタルチョという”いかにもチベット”という光景は見られず。



名前もわからぬホテル。


ところで、ここで大きな問題が起こっていた。同行の日本人学生の1人が風邪による発熱と高山病でダウンしてしまったのだ。ジャンムーの宿でも具合悪そうにしていたので、ここで車を雇ってネパールへ戻る勇気も必要かもしれないとアドバイスしたのだが、大丈夫と言って出発した。移動中からかなり調子悪そうにしていたが、宿に着いた時には、自力で車から降りられないほどになっていた。4000mを超える高地でこの状態は危険だが、どうしようもない。皆で彼を車から降ろし、宿のベッドの上に移した。解熱剤を飲ませ、夜中、部屋の皆が、頭に載せた濡れタオルを何度か交換した。幸い、一夜明けると、彼の熱は下がっていた。僕はといえば、横になると呼吸が弱くなるためか、息苦しさが増し、結局、一睡もできなかった。軽くではあるが頭痛も続いていた。

(20日)9時ころ、また厳しいドライブが始まった。空は曇天で、晴れていれば見えるはずのチョモランマ(エベレスト)は見えなかった。5000m超の峠も越えたが、雲の向こうに山らしきものがうっすら見えるだけで、はためくタルチョが唯一チベットを旅していることを感じさせるものだった。



例によって峠で小休止。


 道はいたるところで寸断されていた。ランドクルーザーが何のためにあるのかがわかるような道だった。しかし、こんな高地にも関わらず、やはり中国とネパールを結ぶ重要なルートということなのだろう、重機を使っての復旧作業が行われていた。



工事待ちの小休止だったか?



こんなところ(本来は川ではないが大雨で川になった?)も通ったが、僕らのランクルは余裕でクリア。


18時30分ころ、シガツエという町に到着。ラサに次ぐチベット第2の都市で、標高は3900mほど。ここからラサまでは300kmない。ラサ到着が見えてきた。宿泊したテンジンホテルは、前日・前々日のホテルとはまったく客層が違い、多くの西洋人バックパッカーでにぎわっていた(なぜか日本人は見かけなかった)。ラサを中心とするチベットの観光エリアの中心に入ってきたのである。
高山病の症状も、かなり軽くなり、食欲も回復して、やっと普通の状態で旅ができるようになった。しかし、ラサまでの旅はあとわずかである。ちょっとなごりおしい。



寒々しい感じがしたシガツェの街。



シガツェのホテル。


翌朝(21日)も9時ころ出発した。するとすぐに西洋人グループが我々のランドクルーザーに駆け寄ってきて乗せてくれないかといってきた。乗せるかどうかはガイドの判断だが、車の絶対量の少ないチベットの旅では、旅行者は皆必死だ。予想通りガイドは彼らを乗せることに同意した。

この日、天気は好転したが、道は相変わらずひどい状態で、最後まで厳しいドライブに悩まされることになった。大雨で橋が落下してしまっている箇所もあった。そこではブルドーザーで川に石を運んで、車が通れる状態にする作業が行われていた。西洋人のかなりの大人数のツアーが通りかかっており、おじさん・おばさんたちが「およばずながら」という感じで、石をブルドーザーの側まで運んで、作業が早く済むように手伝っていた。皆楽しんでいるようだった。僕もこの作業の輪に加わり石を運んだ。





落下した橋。




やっと車が通れるようになり、出発して1時間ほどたつと、今度は大渋滞だ。なぜ、チベットで渋滞なんだと思ったが、原因は土砂崩れのようである。ラサが近いためか交通量が多く、車の列がどんどん長くなっていく。長期戦の覚悟を決める。



やっと晴れてきた。



大渋滞。


1時間くらいたつと、道端ににわか露店が開かれた。大渋滞だから客はたくさんいる。しかし、売り手はどこから来たのだろうか。渋滞に巻き込まれた人のようでもあり、比較的近くの町から、ビジネスチャンスとばかりに、荷物を背負ってやってきたようでもある。



即席露店。帽子をかぶっているのが客だったか?


そのうち少しずつ車が動き出したが、本当に少しずつだ。18時ころ、やっと本格的に動き出して、渋滞の先頭がどうなっているのかが見えてきた。道がボロボロになっていて、ちょっとした上り坂を上れない車があったらしい。その現場にも、どこから来たのだろう、多くのチベット人たちが、何か見世物をみるかのように、1台1台の車が、坂道に挑戦して、失敗したり成功したりするのを楽しんでいた。娯楽の少ない彼らにとってよい娯楽だったのかもしれない。よく見ると、道の上では、水先案内ならぬ、道先案内人みたいな役割を果たしいる人がいて、ドライバーたちに、ここをこのように通るんだという感じで、路上を指差しながら誘導していた。いよいよ僕らの車の番になったが、さすがランドクルーザー。何の苦もなく坂を登りきった。



写真の中央は渋滞の先頭。点々と続く赤っぽい衣装は渋滞の先頭の様子を見に行く若い僧侶たち。


ここから先は順調にドライブを続け、20時少し前ラサのバナクショー・ホテルというバック・パッカーたちの集まる幾つかのホテルの一つに到着した。到着した僕らに、学生風の日本人が声をかけてきた。僕らがカトマンズからやってきたことを知ると、どんな旅だったかとか興味深そう聞いてきた。チベット旅行をする人は多いが、さすがにネパール-チベットを陸路移動する人は少なく(ラサ-カトマンズの航空路もある)、ちょっとした憧れを持って見られたようだ。

体調を崩した彼が、大部屋ではない、奇麗な部屋でゆっくり休みたいというので、僕らは、そこでイスラエル人グループと別れた。別れ際、短い旅ではあったが、ちょっとした連帯感も感じるようになっていたので、「近い将来日本に来る予定はないの? 来るなら案内しますよ」というと、「日本は物価が高いから行けない」と言う。確かに日本はバック・パッカーにとっては「高い国」かもしれない。
 


チベットのシンボル、ポタラ宮。17世紀にダライ・ラマ5世の宮殿として建設されたもの。「宮」と呼ばれてはいるが、ダライ・ラマ政権は政教一致の政権で、政庁と仏教寺院の性格をあわせ持つ。宮殿内には1000室以上あると言われいるが、観光客が見ることができるのは、ほんの一部分。


ラサに着いた翌日(22日)、まず、すべきことはラサ-成都-上海の航空券の確保だった。

この旅は成田-カトマンズの片道航空券で出かけてきており、その先は完全に出たとこ勝負であった。それもこれも、カトマンズ-ラサの日程がまったく読めなかったからである。

さて、旅行を続ける日程的余裕はあり、もう少しチベット旅行をしてから帰国の途につくという選択肢もあった。しかし、最大の目的である、ネパールからヒマラヤを越えてチベットへ移動する陸路の旅は完了したせいか、旅を続けるモチベーションがあがらなかった。

結局、チベットにはあと2日だけ滞在して、帰国の途につくことにした。

運よく航空券は確保でき(最悪バスでの移動も考えていた)、午後は大昭寺(ヂョカン寺)へ出かけた。




大昭寺。五体倒地する人たちが見える。



すぐには大昭寺には入らず、この寺を囲む八角街を歩いた。



大昭寺の裏手あたり。



大昭寺から望んだポタラ宮。



大昭寺内のマニ車。この中には「オム・マニ・ペメ・フム」という、これを唱えたり、見たり、聞いたりすることによって、すべての罪が消え去るといわれている呪文がびっしりと印刷された巻紙が入っており、このマニ車を1回まわすと中の巻紙を1回読んだことになるという。なにかちょっとずるい感じもする仏具だ。





(23日)チベット最後の朝、ポタラ宮へ行った。


ポタラ宮の入り口(だったと思う)。内部は撮影禁止。



ポタラ宮内の白宮。



白宮の屋上だったか?



ポタラ宮。


ヤクの骨で作ったお土産用のマニ車。鎖でつながれたおもりを回すことで、マニ車を回転させる。


成都行きの便は朝9時の出発。空港はラサの街からバスで2時間もかかる場所にあるので、午前中の便に乗る客は空港ホテルに一泊しなければならなかった。というわけで、ポタラ宮見物のあとは、若干時間をつぶして空港へ移動。次の機会を期待しつつネパール-チベット、ヒマラヤ越え陸路旅完了。

上海に1泊して25日帰国。


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