アンマンからダマスカスへ

 (3月19日)
例によって、モスクから流れるアザーンの大音響で起こされる。

8時少し前、タクシー会社のオフィスへ行き、車が来るのを待った。少しすると、アメリカ製の古い車が先客四人を乗せてやって来た。後部座席にはアラブ人男性が3人。前は運転手と若い女性の客。アラブの国で女性1人での旅行とは珍しい。僕はこの女性と運転手の間に座らされて出発。

ヨルダン側のボーダーには1時間半ほどで着き、出国はほとんどノーチェックだった。使いの残しのヨルダンディナールを米ドルに換えて、シリア側のボーダーへ向かった。

シリア入国手続きでは、少し時間がかかった。まず、当時は100ドルの強制両替というものがあり、さらに持ち込み外貨の詳細な申告が必要だった。同乗の他の客は、強制両替はなく、その分僕だけが余計時間がかかったが、30分程でシリアの入国手続も完了した。

シリア入国後、パンクというアクシデントがあったものの、1時ころにはダマスカスに到着した。しかし、手持ちのガイドブックにはダマスカスの詳細な地図は載っておらず、車がどのへんに着いたのか皆目見当がつかない。まわりをキョロキョロ見回していると、とたんにタクシーの客引きがやって来た。めざすホテルはヒジャーズ駅近くにあるらしいので、そこまで遠いのか近いのか聞こうとしたが、言葉が通じない。あっという間に僕のまわりに7~8人の男性が集まってきた。その中に英語ができる人がいて「遠い」という。大都市のターミナルは中心部から離れていることも多いので、そうなのかと思っていると、タクシーの運ちゃんは100ポンドでどうだと言ってきた。しかし、シリアに着いたばかりで、この国の物価水準というものがまったくわからない。強制両替のレートから考えると少し高いような気がしたので、「100?」といって難色を示すと「50」に下がった。まあいいだろうということで、車に乗り込んだが、大きな間違いであった。車はあっという間にめざすホテルの前に着いてしまったのだ。交渉は成立しているのだから、ここは50払うのがルールだ。乗合タクシーを降りたところで、もっとねばり強く現在地の確認をすればよかった。

チェックイン後、ホテル近くのサンドウィッチスタンドのようなところで、バナナミルクと羊肉サンドをとった。サンドウィッチが15ポンド、バナナミルクが12ポンド。だが、まだ高いのか安いのかよくわからない。
  
翌朝の朝食後、パルミラへのバスのチケットを買うために、国営カルナックバスのターミナルへ行った。しかし、チケット売り場へ行くと、そこはアラビックオンリーの世界だった。一国の首都の、それも国際的な観光地であるパルミラへのバスも出ているターミナルにアルファベット表示がないとは。 ただ、アラビア語表示しかなく、イスラム色一色のチケット売り場かというとそうではなく、カウンターの向こう側にすわっているのは女性ばかりなのだ。そして、皆、客を見下したような態度で接している。何か特権階級の女性たちという感じだ。 どのカウンターがパルミラ行きのチケット売り場なのかわからないので、適当に「パルミラ?」と尋ねてみると、面倒くさそうに「あっちだ」と指示された。何番カウンターなのか言ってくれなかったので、まだどのカウンターなのかわからないが、言われた方向にあるカウンターの一つに声をかけてみると、そこがパルミラ行きのチケット売り場だった。さすがにここでは、少しではあるが英語が通じた。 パルミラ行きのバスは朝7時の1本だけだったが、チケットは手に入った。料金は53ポンド。チケットはアラビックのみで何が書いてあるのかわからない。財布の中に大切にしまっておく。

ダマスカスは、聖書などにも出てくる世界最古の都市であるが、この街が本格的に発展したのは、イスラム世界初の王朝であるウマイヤ朝がダマスカスに首都を置いてからである。そして、8世紀初めに建設されウマイヤドモスクが、旧市街の中心にどんと構えている。


ダマスカスのミクロバスステーション
ダマスカスのミクロバスステーション。アンマンからの乗り合いタクシーはこの近くに到着した。また、国営カルナックバスの乗り場もここに隣接していた。



タクシー(乗り合いタクシーだったか?)乗り場。


ダマスカスのスークの入口
奥に見えるアーケード街のようなところがスーク。アーケードの上にかすかに顔が見えるが、先代のアサド大統領の肖像画。


ウマイヤドモスクの回りにはスーク(市場)が広がっている。スークにはアーケードがあって、ウマイヤドモスクへ通じる道は、メインストリートらしく幅が広い。そして、道の両側には多くの土産物屋が並んでおり、通路にも多くの物売りが出ていた。ちょっとでも、土産物屋をのぞこうものなら、たちまちつかまってしまい、何か買わないと解放してもらえないのではないかと警戒しながら、店先に並べてある品物を眺めながら歩いていったが、しつこい客引きはしない。というより、まったく商売の意欲が感じられない。この時は、まだ観光客がそれほど多くはなく、観光客ずれしていなかったのだろうか(2001年、再訪した際には何人かの客引きに声をかけられた)。

しばらく行くと、ちょっとした広場があり、そこに大きな建物があった。ウマイヤドモスクだ。国によっては異教徒のモスク内への立ち入りは禁止されているが、ウマイヤドモスクは、異教徒の立ち入りも可だ。ただし、イスラム教徒とは入口も違い、加えて入場料も取られる。モスク内には大理石張りの広い中庭がある。その中心には水場があり、礼拝の際、信者はここで身を清めてから礼拝堂へ向かう。


ダマスカス、ウマイヤドモスク
ウマイヤドモスク。


礼拝堂に入ってみると、そこは長方形の巨大な空間で、床には一面に絨毯が敷きつめられていた。僕は、メッカの方向を示すミフラーブというくぼみに向かって、絨毯に正座した。ただ、これは神の前で居住まいをただしたというわけではなく、ももとすねの筋肉が伸びて気持ちがいいからなのだ。脚の裏側の筋肉も伸ばしたいところだが、神聖な場所であからさまにストレッチは行えない。適当なところで、正座はやめて、あぐらをかいてボーッとしてみる。 

そろそろ外へ出ようと出口に向かったところで、礼拝の時間が始まったので、異教徒がいてもいいのだろうかと思いつつ、また礼拝堂内に戻った。

時間帯のせいだろうか、モスクに集まってくる人は少なかった。メッカに向かって礼拝をする一団、その中から一歩前に出てコーラン(だろうか)の詠唱をする人、時間に遅れて駆け込んでくる人などが見られて興味深かった。国が違っても、この祈り作法は、すべてのイスラム教徒に共通するものだという。民族・国籍を超越したイスラム教徒の精神的つながりというものを感じずにはいられなかった。

モスクの静寂な空間を出ると、またスークの喧騒が待っていた。ダマスカスのスークは広く、アーケードの下の道をバスが通るところもある。その部分は、アーケードがブリキか何かでできていて、そこに無数の小さな穴が開いている。下から見ると、プラネタリウムのようでもあり、そこから差し込む光が埃っぽい空気にうつってレーザー光線のようでもある。

スークの裏手には旧市街の町並みが広がっていた。家々の造りはちょっと変わっていて、皆二階建てで、二階部分が一階部分より大きくせりだしている。そんなわけで空が狭く、狭い道がますます狭く感じられる。そして、場所によっては、二階部分がつながっている。 このように、なかなか興味深い町並みなのだが、人々の日常生活の場に旅行者がズカズカと踏み込んでいくのもどうかと思うし、第一、本当に迷路のようで迷いそうだ。路地の奥の奥まで探検するのはやめにして、いましがた通って来た道を戻ることにした。

ダマスカス旧市街
ダマスカスの旧市街の路地。



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